024 血桜を咲かせる
「その犬は殺さねばならぬ。申し訳ないが引き渡してくれ」
特異な格好をした女は男のような口調でそう云った。
「なにを――仰いますか」
「説明している暇はない。火急の事態なのだ。御隠居殿の飼い犬はどこに居られる」
女は――老体でも鋭敏に感じられるほどの殺気を放って詰め寄る。
ただ土を耕して生きていた老体には抗いがたい剣呑さではあったが、それでも老人は女に対してどうにか口を開くことが出来た。
「あれは――ただの犬で御座います。なにか悪さをするようなこともなく――寧ろ私どもにとっては福の神で――」
「それは仮初めの姿に過ぎん。あれは犬ではない。犬の形をした――災厄だ」
女はにべもなくそう云う。
女は伴天連の連中のような格好をしていた。しかし、実際の連中よりも地味な色合いだった。上着と脚絆は黒一色で、上着の下には対照的に純白な着物を着ている。つくりは洋装そのものだったが、他で見るよりも釦が小さく、金属製ではなさそうだった。そして首には何か黒い帯のようなものを巻いている。
髪は首元で切りそろえられていて童女のような髪型だが、背丈と雰囲気は少女のものではなく、成人しているだろう。腰には太刀を佩いていて、鞘はもまた彼女の服装と同じように黒漆で拵えられている。
「災厄などと。ポチは――うちの犬はそんなことはいたしませぬ。寧ろ、あの仔は私どものためにいつだって健気でおります。いつぞやはあの仔が鳴いて示した場所の土を掘り返したところ、土中から大判小判が出てきました――ああ、もしやあれは貴女様のものだったのでしょうか、それならば掘り出したものは全てお返しいたします、ですので、ポチを殺すというのは、その――」
それは関係ない、と老人の言葉を遮り女は云う。
「御隠居殿、あの犬の様子を見ておかしなところはなかったか。そのような――御隠居殿に幸を与える以外でのことだ」
「おかしなこと、と申されましても――」
「例えばだ、確かに気配がしたと思ったのにその場所に件の犬が居なかったり、逆にまったくそのような気配がなかった場所から犬が現れたりしたことなどはあるか」
ない――と云おうとして、老人は思案した。
そういえばそのようなことがないとは云えない。中に何も居ないことを確認してから錠を落としたはずの納屋の中に、いつのまにか犬が寝ていたことがあった。そして、姿の輪郭のみをどうにか捉えられる程遠い場所に居た筈の犬が、一瞬の間に自分の背後に移動してきていたこともあった。
確かにあれは、おかしなことだとは思ったが――。
「あれはな、ただの柴犬ではない。ティンダロスの猟犬という怪物だ」
「て、ていん、だ……?」
「ティンダロス、だ。本来は犬の形などしていないのだがな、あまりに執念深く、時空間を超えて獲物を追い詰める習性から猟犬と呼ばれているのだが――逆に犬そのものに擬態しているというのは意外に盲点で、発見が遅れてしまった。本来なら御隠居殿と関わる前に処分すべきものであったが――誠に申し訳ない」
謝罪を述べつつも、女の口調からは犬の殺害は断固として決行する意思が感じられた。
「隣の家の老人が、件の犬へ危害を加えていたらしいが、ご存じか?」
「え、いや――確かにあまりいい目でポチのことを見ていなかったとは思っとりましたが、危害などとは――」
「ここへ来る前に先に訪れたのだがな――既に事切れていたよ。変死体だった」
老人は絶句する。
「おそらくは、ティンダロスの猟犬の仕業だろう。殺され方がティンダロスの猟犬の手口そのものだった。近々御隠居殿にも牙を剥くだろう、そうなれば――」
女が不意に言葉を途切らせた。
瞬間、異臭が部屋に立ちこめる。そして、まだ昼前だというのに異様に暗い。
否、暗いのではなく――部屋に青黒い煙が立ち込めているのだ。
ティンダロスだ、と女が叫ぶ。
「御隠居殿、頭を伏せて床に伏せていろ。私がいいというまでそうしているのだ」
訳が分からなかったが――老人は女の言葉に従った。
不意に、部屋の隅に据えてあった鏡が割れる音がした。
「そこか――ッ!」
刹那、女は抜刀し素早く何者かを切り下げた。
一瞬遅れて、老人はそれが鏡の方向から飛び出してきたこと、そして、切り捨てられたものの正体は自分の犬であることを知覚した。
「ちィ……ッ!」
しかし、切り捨てられた筈の犬の躯からは血が出ない。代わりに部屋に充満している煙と同じような青黒い気体が傷痕から漏れ出していく。
漏れ出した煙はやがて狼のような形を朧気ながらに取り――そして再び女の方へと襲いかかった。
女は煙のような犬を再び切り捨てるが――やはり煙を切るように手応えがない。
「
女は何事をかを呟き九字のようなものを切る。瞬間炎が出現し、犬の躯を覆った。
およそ犬のものとも、この世のものとも思えぬような絶叫と共に――犬は灰になった。
「――冷や汗をかいたが、これでどうにか……」
女が一瞬緊張を解いたときだった。
灰になった犬の下の床が割れ――木の幹が生えだした。
女も老人も僅かに呆然とした瞬間に木は瞬く間に生長し――桜の花を咲かせた。
仰天から一瞬ののちに回復した女が、先ほどとにたような文言を唱えようと手を翳した瞬間――女は倒れ伏した。
女の首には大きな傷があった。動脈が断ち切られ、噴水のように血が流れ出ている。
「ぽ、ポチ――」
老人は犬の名を呼んだ。
しかし――桜の木は風に吹かれたように少しざわめいただけだった。
桜が室内に舞う。青黒い煙は何時しか晴れ、部屋中が桜色になった。
老人が気が付いたとき、目の前には床があり、そしてそこには自分の血が流れていた。桜の花びらに切り刻まれた老人が痛みを感じる前に事切れたのは、せめてもの犬の慈悲だったのか、それとも単なる偶然だったのかは、わからない。
文字数:2361(本文のみ)
時間:1h
2021/1/2 お題
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