006 空虚の本尊
無が広がってゆく。
否、失われていく――のだろうか。
エヴェレット保護区間の埒外として処理されたこの時空間の万物は、意味を喪失していく。時間が経つにつれ――否、最早時間や空間という概念すら崩壊し始めているこの世界における崩壊は、そのような因果律からすら外れている。
目の前の全てが壊れていくというより、過去で壊れたと確定させられ消えていく。今見えているなにがしかも、未来での崩壊が確定しており、その確定された時空間の座標が未来か過去なのかも前兆なしに入れ替わり、そして過去から追いつかれた未来から順に壊れていく。
そして、壊れたものから烏有に帰す。
矢張り、失われるというより、無が広がっていくのだ。
男が立っていた。
初めは気にしていなかった。この男もまた、崩壊の確定した世界の中で、来し方と行く末の流転の垣間に見た影法師でしかないのだろうと思っていた。しかし、いつまでも男は消えることもなく、壊れることもなく、そこに立っていた。
男は僧形の出で立ちであった。
「――そこで何しているんだ、坊さん」
特に意味も無く訊いてみた。
終わりを待つだけの時空間で人恋しくなったわけではないが、崩壊が確定していらい、人間とはまったく出会えていない。話しかけられる対象が顕われ、そして消えてゆかないので、話しかけてみようと気まぐれに思っただけにすぎない。
僧形の男の顔はよく見えない。
三度笠を被り、僧形の男は俯いている。鼻より下しか見えてない。痩せぎすの体躯と細い顎と唇。僧というよりも神官のようだ、と思った。
話しかけても返事がない。
矢張り既に壊れているのか――と溜息を吐いたとき、
「拙が――見えまするか」
僧形の男が口を開いた。
「尊公は――拙が見えまするか」
「あ――ああ、見える。見えている。なんだ、まだ、壊れていないのか」
「最早此処には既に
理解らなかった。
問答の類いであるならば、門外漢だ。
「よくわからないな。まあいいや。あんまり長らく喋っていないような気がしたから、話しかけてみただけだ。意味なんてない。それだけだ」
「成程」
「――なんで坊さんがこんなところに居るんだ?」
拙が坊主に見えまするか、と僧形の男が訊ね返した。
「違うのか? 三度笠に袈裟を着て、なんだっけ――錫杖? っていうんだっけ、を持っているから、修行僧か何かにしか見えないが」
「そのように見えるのであれば、その通りで御座いましょう」
僧に見えまするか、と男は小さく笑った。
「僧に見えるとするなら、そこには何か意味があったのでしょう」
「意味なんか――もうないさ。あんた、わからないのか?」
「なにが、で御座いますか」
「まあこんなこと坊さんにも言っても仕方がないんだがな、この時空間はもう終わりなんだよ。エヴェレット保護区間の対象から外れた世界線だ。俺はここを管理している
「
僧形の男はなにか得心が行ったように呟いた。
同じ音の言葉だが――なんだか自分と僧とで意味がずれているような気がした。
「意味がないと申されるのならば、其処には意味があるのでしょう」
「禅問答は――よくわからない」
「拙は禅僧にあらず」
「違うのか? よく知らないんだ」
「ええ、そも、僧にあらず。しかし尊公の前に僧形としてまみえているとするのならば――本尊を
知らない本尊の名前だった。
もしくは――知っていても、既に壊れて理解らなくなっているのかもしれない。
「尊公の名は、なんと?」
「俺の名前か? アズマってんだ。東と書いてアズマ。それだけだ」
「アズマ殿。アズマ、という名に意味があると思いますか?」
よくわからない問いに面食らう。
「――そりゃ、意味があるだろ。呼び分けるというか、記号というか。ああ、否、もう壊れゆく世界においては、それすらも意味はないというか」
「この世界に終わりが近いことは関係ありますまいが、まあ確かに無意味といえば無意味で御座いましょう」
しかし故に意味が御座います、と僧形の男は続ける。
「さっきから云ってるけど、よくわからない。わかりやすく云ってくれ」
「アズマ殿は既に理解しておられます。まさしく、記号にございます」
「記号?」
「拙僧はアズマ殿ではなく、アズマ殿はアズマ殿にございます。アズマ殿がアズマ殿である限り、アズマという語にはアズマという一つの意味があり、アズマ殿以外の者はアズマ殿でないという一つの意味があります」
「まあ――そりゃそうだろう、という感じだが」
「その通り。既に理解しておられる」
「いや、わからんって」
「アズマ殿以外に存在するものがあれば、アズマ殿とそれ以外を分かつために、アズマという単語は意味をなす」
「じゃあ――言い換えれば、俺以外がなくなれば、俺は意味を失うということじゃないのか」
然り、と僧形の男は肯定した。
「万物の本質は
「はあ――」
「アズマ殿がいなければ拙という存在は成り立たない。子というものがこの世に存在しなければ親というものは存在しない。死がこの世から喪失すれば生という概念も喪失する――万物は、他にそれ以外のものがあって、初めて成立するのです」
「なる、ほど――」
「言い換えれば――全てが関わり合うことによって成立する。意味を持つ。すべてのものは本質が空虚であり、故に全てに意味を持つ。」
「
「然り。良き対話に御座りました」
がらり、と世界が崩れる。
これにも意味はあるのか――と思った。
自分の体もついに壊れ始めた。
もうすぐ終わりが来るのだろう。
「最後に意味はありましたか」
「ああ――あったよ。ありがとう――なのかな」
「礼には及ばず。拙にも、大きな意味を得られました」
「よくわからないが――それなら重畳だ」
瞬間、アズマは消えた。
それでも世界は終わらない。
世界の中心に僧形の男が一人。
其処に意味はあったのか、知るものはこの男のみである。
男という色は世界を満たし――、
そして、
文字数:2564(本文のみ)
時間:1h
2020/12/15 お題
【そして東の空へとんでいった】で”終わる”小説を1時間で完成させる
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