Track.n:支配されたぼくの朝


 意識が闇深くからゆったりと浮上する。倦怠感がふつふつと湧き起こって、無と有の淡いコントラストの中をゆく。

 そのなかでぼくは、声を聞いた。


「……ふふ、のんきに寝てる」


 ややダウナー気味の、柔らかな声。吐息に溶けたかすれ声が耳に心地いい。

 ぼくは、浮上する意識が一瞬、沈んだのを感じた。

 いつもそうだ。の声はぼくを闇へと誘う。堕落を誘い、気持ちいいと思うことすらできない快感の中へと。甘美な虚無に溺れさせんとして。


 呼吸が、ゆっくりになるのを感じた。肺に吸い込まれた空気が身体を潤し、癒し、そして、吐く息は身体の悪いものをどこか遠くへ連れていってくれる。


 ささ……、と。掛け布団が揺すられる音がした。

 肌には冷たい感覚。朝の空気が肌を撫でた。


「いいのかなー? もう、朝なのに」


 いたずらをする子供のように、あるいは、退廃の道に引きずり込まんとする悪魔のように。

 つん、と空気以外のものがぼくの頬に触れた。空気よりも、ひんやりとして冷たい。だけど、じんわりとした温かさを併せ持つ。


「つん。つん。つん。……いつまで、こうしてるつもりなんだろうね? 分かってるんだよ、きみがもう、起きてるってことは」

「………………う、」


 頬をつつく指がくすぐったくなって、思わず声が漏れてしまう。

 こうなればもう、寝たフリは続けられない。……無反応なぼくに興味を失ってくれたら、なんて思ったりもしたけど……この分じゃだめそうだ。

 だんだん冴えてきた頭で、僕は現在の状況を認識して、自分の考えの甘さを痛感する。


「おはよ。少年」

「……レアル。僕の名はレアルです。いったい、いつになったら名前を覚えてくれるんですか」

「ふふ。きみは私に早く、出てってほしかったんじゃあないのかなぁ?」


 にまにまとして、不愉快な笑みで彼女はぼくの顔を覗き込む。


 ――つ、と。不意に彼女の指先が横長の耳のふちを撫でた。


 ぼくは無言の抗議を視線に込める。だが、彼女の微笑みはまるで崩れる気配を見せてくれない。それどころか、ぼくの耳もとに口を寄せて……

 まずい、と思った瞬間にはもう、呼気が耳朶を撫ではじめていた。


「…………抵抗しないで」


 ――抵抗しない。


 「抵抗しない」という言葉が、こころに沁み込む。ぼくはそれを、我知らず受け入れていた。さっきまで「まずい」と肝を冷やしていたにもかかわらず、次の瞬間にはそうした感情が一気に引いていく。

 ぼくは、彼女の言葉の続きを待った。


「……ねえ、レアルくん。魔術、使って見せてよ。このあいだみたいな、派手なやつ」

「花火?」


 夢のなかにいるかのような心地。自分の言葉が、自分のものじゃないかのような響きを伴っていた。


 ……現実感が薄い。


「そう。花火。だけど今は朝だから……それじゃあちょっと派手さに欠けるよね。――ビームとか出せない?」

「ビーム……? ああ、それなら、」


 ぼくはむくりと起き上がって、「ビーム……」と呟きながら、魔術行使を開始した。師匠に禁止されているはずなのに、約束を破ったら破門にするとさえ言われているのに。ぼくは。


 ……突き出した人差し指の先端。そこに光が集まる。自然の気が多いせいか、光は青緑色をしていた。

 彼女はそれを、面白がりながら眺めて、そしてぼくに囁きかけた。


「それじゃあ、私が「ゼロ」って言ったら、打って。空に向けて、まっすぐに」


 カウントダウンが始まる。

 なんの意味があるのかは分からないが、彼女が発するカウントダウンの声に、僕は意識を溶かされてしまう。

 全身をかけぬける、ぞくぞくとした感覚。口からこぼれ落ちる呼気は震えていた。


「にーぃ……ほら、もうすぐ。いーちっ。…………」


 指先の光が一際大きくなるのが見えた。この太さなら、ドラゴンの心臓を丸々呑み込んでしまうかもしれない。

 彼女がふーっと、僕の耳に息を吹きかける。ふふ、という微笑が耳を撫でて、


 その時はきた。


「ぜぇーろっ!」


 同時、空気の灼けつく音がした。

 限界にまで膨れ上がった光球が一本の線に変わり、家の天井を貫き、その先の青空のはるか向こう、雲の上にまで青緑の光柱を立てる。

 こんな出力、普通にやったら絶対に出せないだろう。


「へぇーっ! すごいすごい」


 そんな事情を知ってか知らずか……ぼくの発射したビームを見上げながら、彼女はぱちぱちと拍手していた。

 けれどたんだん、ビームは細く、縮んでいき、


 ――シュウンッ。


 という音を立てて、終わりを迎えた。


「ほー。なるほどねえ、ビームってこんな感じなんだ。ありがと、


 その言葉とともに、ぼくの意識が鮮明なものになる。そうしてようやく、しでかしたことの重みを感じられるようになってきた。

 心臓は不安でばくばくと鳴動し、握った拳は尊厳を踏みにじられた怒りから血が出るほど強く握られる。

 けれどそれでも、ぼくは彼女に……この女に逆らうことができない。そういう暗示を、最初にかけられてしまっている。無意識レベルで、この女を害する行動がとれないのだ。

 現実逃避のため、ぼくは天井を見上げた。そこには大きな穴がある。

 そして、ため息を一つ。


 ……この、青空が見える天井。どうしよう。


(了)

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