その音が聞きたくて
放課後になるといつも、先輩が教室にやって来る。
「木島。コンビニ寄ってかない?」
男勝りな印象の鋭い目で、先輩はいつも僕の目を見て話してくれる。身長は先輩の方がいくらか低いのに、しっかりと僕の目を見上げて話してくれる。
放課後の学校は部活に精を出す生徒たちでにぎわっている。それは冬の、日が落ちるのが早い季節でも変わらない。
いつもいつも、放課後は活気と喧騒で満ちている。
そんな中を、青春の音を耳にしながら、橙に染まる渡り廊下を、僕と先輩は歩く。
足音一つ一つを、しっかりと味わうように。
ゆっくりと、ゆっくりと。
そうすれば、時間が止まるとでも、言うかのように。
「……なあ、木島」
「?」
「留年、したら駄目かな」
先輩はふと、そんなことを言った。
深刻な内容とは裏腹に、その声音はいつもよりむしろ、いささか軽く聞こえた。だから、いやに耳に残った。
内容と声音のギャップ。
キャラクターと言葉のギャップ。
そういったものが、僕の足を引き止めた。
遠くからは吹奏楽部の、新春コンサートに向けた練習の音が聞こえる。曲は【ブリュッセル・レクイエム】。雄大なメロディはわずかな乱れさえなく演奏されている。
それがここまで聞こえるってことは、どうやら今日は、体育館で練習してるらしい。本番を意識してのものなのだろう。新春コンサートは町の大きなホールでやるようだから。
「先輩は、卒業したくないんですか?」
「……卒業は、するつもりだよ。最終学歴中卒なんて、笑えないしな」
隣を歩く先輩の目は、母親の姿を見失った幼い子供みたいだった。口元にはにへらとしただらしのない笑み。
見ていられなくなって、歩速を自分のペースに戻す。さっきより少しだけ忙しなく動き出した僕の影はすぐに離れて、先輩の影のどこにも重ならなくなった。
「僕は……先輩の気軽なところが好きだったんです。困りますよ」
吹奏楽部の奏でる【ブリュッセル・レクイエム】はゆっくりと、しかし確実に、まるで追い込むかのように、フィナーレへと進む。
「そんな重いこと、聞かれても……ほんと、困ります」
徐々に、曲が盛り上がる。けたたましい音色に背を押されるように、先輩は僕の手を掴み取った。
「でも、木島にしか言えないんだよ。こんなこと」
口元が真一文字に結ばれていた。目元は、怖くて見れていない。
「後悔するくらいなら、最初からしなければ良かったじゃないですか」
メロディによって増幅された焦燥感が、僕の口を軽くする。窓の外は、夕暮れの空は目に焼きつくようだった。
「卑怯ですよ。自分から捨てたくせに、未練たらたらな態度を見せびらかして」
「違う……! いや、私はただ、木島のことが心配でだな、」
「落ちこぼれなんかに手をさし伸べて、それで自分も落ちぶれてちゃ世話ないですね」
「…………知らなかった。木島って、そういうこと言えるんだ」
「先輩にだけですよ」
ぼそりと呟く。
最高潮に達する【ブリュッセル・レクイエム】が隠してくれることを期待しながら。
――ああ、僕は卑怯だ。自分への苛立ちを、先輩に向けようとしてる。
「そんなに行きたいなら、先輩は今すぐ体育館に行くべきです。僕なんかに構うのは、今日限りでやめてください」
「三年生相手によくそんな嫌味言えるな……いや、むしろ美点だとは思うけどさ」
「どの道、受験で忙しいはずです。僕なんかに構ってるヒマ、あるんですか?」
「んー。そりゃあないんだけどなあ、木島が吹奏楽やんないのは、世界の損失だよ」
「はあ?」
「……私はさ、木島。お前の音が好きなんだ。四月、吹奏楽部に入部したばかりのお前が奏でた音色は今も、この耳に残ってる」
「そんなの、汚いだけですよ」
「まあたしかに、そうかもしれないな」
先輩は意外にも、あっさりと頷いた。
「楽器の吹き方が全然なってなかったし、肺活量も足りてなかった。指使いはよちよち歩きの赤ん坊みたいだったな」
なんなんだこの人は。人を励ましに来たのかと思えばそんな、心を抉るようなことを言うなんて……。
「だけど」
先輩は僕の胸をトンと叩いた。思わず、僕は見てしまう。先輩のその、猛禽類のような瞳を。狙った得物は逃さないと言わんばかりの、鋭い目を。
その目は、自信に満ちていた。
――そして、【ブリュッセル・レクイエム】がいま、最後の一音を放ち、終止符を迎える。
「……木島の演奏に、私は惚れたんだ」
その瞳はどうしようもなく真っ直ぐに、僕を見ていた。
しんとした静寂の時が訪れて、先輩はここぞとばかりに言葉を紡ぐ。
「一緒に演奏したいと思った。一緒にコンクールの舞台で、同じメロディを奏でたかった。だから、私は今でも木島が吹奏楽部に戻ってくれることを、望んでる」
「……だからって、自分まで辞めること、ないじゃないですか」
「いやぁ。私不器用だからさ、部活やめないと木島を連れ戻すの無理そうだなーって」
「それで後悔してんだから、ほんと困ります」
「ごめん。自分が思うよりずっと、わがままな人間だったぽい」
「……まったくです」
はあ、と僕はため息をつく。
思えば、吹奏楽部をやめてからもう半年近く経つのか。あのキツイ練習は、正直もうこりごりだ。二度とやりたくない。
だけど、ここまで言われて、自分の青春を棒に振ってまで僕を引き戻そうとする人がいると知って、それでもまだ自分の意地を通すことは、どうにもできそうにない。
「そんなことのために、半年間ずっと僕につきまとってたなんて、本当、バカなんじゃないですか? ……しかも変に回りくどい真似なんかして」
「返す言葉もない……」
「はあ。それじゃあ、こうしましょう。先輩はちゃんと大学に行って、そっちで吹奏楽を続けてください。僕もちゃんと、一緒に演奏できるように努力しますから」
「え?」
先輩は、僕の言葉の意味が呑み込めていないようだった。
「だから、先輩は留年するとかなんとか、バカなこと考えるのはよして下さい」
僕がやると言う前からそんなことを検討するなんて、思い切りがいいというレベルじゃないぞ。
「――コンビニ、行くんじゃないですか?」
「あっ、いや、行く。行くけどそれってつまり…………やる、のか?」
「そう言いました」
今になって、少し恥ずかしくなってきた。顔の赤みを隠すために、僕はすたすたと歩いてなるべくひなたを通る。
「じゃあ、今度の土曜、私の家で練習しよう! 基礎からみっちり教えてやるから!」
先輩の明るい声が聞こえる。僕はその声から逃げるように早足で歩いた。
「受験生のくせに、なに言ってるんですか本当………………受験が終わったら、そのときはお願いします」
「――うん!」
こうでもしないと、この人はいつまでも付きまとうだろう。自分の受験が台無しになってしまうと分かってても、きっと続ける。この人はそういう人だ。
だから、あくまで先輩の受験のためにああ言っただけで、別に、やる気が出てきたわけではないのだが……家に帰ったら、物置に仕舞った楽器を取り出しておこう――そう思った。
(了)
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