夜勤のシスターさん
背後に迫りくる足音を聞きつつ、僕は夜の森の中を疾駆していた。
「はぁッ、はぁッ、クソクソクソッッッ……だめだ、今の、僕では、あいつには……勝てないッ!」
腕はちぎれかけで、頬に深い爪痕。腹もあの化け物の爪で裂かれている。出血は決して少なくはなく、視界がぼんやりとしている。気を抜けばすぐに意識が飛びそうだ。
だが、ここで死ぬわけにはいかない。なにせ、僕は勇者。故郷の期待を一身に背負った、魔王を倒すもの。ここで、こんなところで死ぬわけにはいかないのだ――!
◆
目が覚めると、そこは見知らぬ部屋の中だった。
空気がしんとして冷たい。……窓がない。地下の部屋だろうか。
「うっ……」
体を動かそうとした途端、全身が痛みを訴えた。見れば、体のあちこちに包帯が巻かれている。今着せられているのは病人が着るようなゆったりとした衣服で、装備品やもともと着ていた服はベッドのそばに畳まれて置かれてあった。
……どうして、僕はここに……?
どうにも、記憶があいまいだ。
こうして治療を受けているってことは、どうも教会かどこかに駆け込めたようだけど……ともあれ、今、僕がどこの街にいるのかくらいは把握しておかなくてはならない。
あの魔物に追いかけ回された森から、そう離れてはいないはずだけど……あの森の周辺に街や村なんてあったかな……。
部屋の扉を開ける。灯火の暖かな光に照らされる廊下を通って階段を上り、光の漏れる方へと進んでみる。
大きな扉があった。どうやら光はこの大扉の向こう側から差し込んでいるようだ。
体重を預けるように体で押すと、キィ……と音を立てて大扉は開いた。
大扉の向こうは礼拝所になっていた。そして、二列に並ぶ長椅子の間、礼拝所の真ん中にはこちらに背を向けて入り口を見る修道服の女性が一人。彼女は大扉の開く音でこちらへと振り向く。
「ああ、良かった。目を覚まされたのですね」
彼女は僕の姿を認識すると、にこり、とどこか幼さを感じさせる笑みを見せた。丸メガネをかけたシスターは、そのままこちらへと歩いてくる。
「もう大丈夫ですよ。勇者様。ここは安全ですから」
「……あの、一つ訊いても?」
「? なんでしょう」
「僕は、どうやってここに? というか、ここは一体どこなんです?」
「……あなたは、よほど恐ろしい目にあったのでしょうね、無我夢中といった様子で教会の門を叩き、助けを求めた――そう伺っています」
「伺っている? あの、あなたが僕を助けてくれたのではないのですか?」
「いいえ。――私は、ただの夜勤ですから」
「はあ……」
――夜勤? 酒場の店員ならばともかく……シスターに夜勤なんてあるのか?
「さ、目が覚めたならご飯にしましょう! 勇者様も、お腹は空いているでしょう?」
「あ、ああはい……そう、ですね。では、是非に」
――まあ、あまり気にすることでもないか。
「それじゃあ、さっそくこちらへ! いま食堂に案内いたしま――あいたっ!」
シスターは丈長の修道服の裾を踏んづけてすっ転んだ。それはもう盛大に。
「――だ、大丈夫ですかっ!?」
慌てて身を起こしに行くと、彼女は少し涙目になりつつ笑った。
「す、すみません……わたし、結構ドジで…………ところでそのう、見えてたり、しませんよね?」
「見えてたりって……」
そういえば彼女の白い脚がちらりと見えたな……。
僕は顔をそむけた。
「い、いえ。決して。ですからどうか、ご安心してください」
「…………そう、ですか。それは良かったです」
◆
食事を終えて、僕は再び地下の部屋に戻った。シスターの話によると、この教会は夜でも人がよく来るらしく、そのために夜勤なんてものがあるそうなのだ。
……変わった教会だな、と思う。
部屋に戻ってもすることはなく、眠ろうにも眠気なんて来やしない。
「――よし」
世にも珍しい夜勤シスターの仕事を拝見させてもらおうと決めるまで、そう時間はかからなかった。
最初に礼拝所に入った時に使った大扉は立て付けが悪いらしく、いつも少しだけ開いているらしかった。その隙間からこっそりとシスターのいる礼拝所を覗き見る。
――と、あいつがいた。
「……な、どういうことだ、これ、は」
僕を森の中で追い回した、おぞましき魔物がシスターと会話していたのだ。
あの不定形の胴体。ありとあらゆる獰猛な獣のそれより、さらに凶悪で強靭な爪。ギョロリとした縦に並ぶ3つの目玉。狼のような口。白骨のような四つ足。
――ああ、まちがいない。間違える、はずがない。
ほかの魔物とは明らかに異質な見た目をした、あの化け物を見間違えるなんてありえない。
――どういうことなんだ、これは?
シスターが魔物の仲間だった? 魔王軍の幹部か何か? だとしたら、なぜ僕を助けた? なんだ、この教会は一体なんなんだ?
クソ、わからないことが多すぎる。
ともかく、耳を澄ませよう。情報を得よう。
スキル――【
「……ともかく、あなたはもう少し加減というものを覚えるべきですよ。あの勇者、あそこでわたしが助けなくてはいったいどうなっていたことか……」
「面目ない。シカシ、自らの身の程というモノを知らしむるこそ我らが務め…………やりすぎがちょうど良いと、先輩も」
「あの方の言うことを間に受けちゃ駄目ですよ。あなたはドジなんですから」
「ナレに言われたくはない」
「……はあ。まあいいです。勇者も明日にはこの教会を出ていけるでしょうし、これで彼も仲間集めなりなんなりして、実力不足を補おうと心がけるでしょうから…………彼を送り届けたら、昼の担当に交代ですね」
聞き耳立てたはいいが、謎はますます深まるばかりだった。どういうことなんだ、これは。
……あの化け物とシスターが仲間であることは確かなようだった。いや仲間というよりむしろ、上司と部下のようにも見えるが……。
しかし一方で、僕の――勇者の敵というわけでもないらしい。むしろ魔王討伐を支援しているかのような――。
「――ご苦労なことであるな、野禽ども」
瞬間、光に満ちていた礼拝所が途端に闇に包まれた。
「何奴ッ!」
化け物が不定形の胴体を発光させる。しかし、その光もすぐに闇に包まれかき消されてしまう。この、闇の気配はまさか――
「まさか、魔王が我々の討伐に貴女を寄越すとは――パフォーマンスは十分でしょう、出てきてください! 四天王が一角、血と闇の担い手! 吸血鬼、ブラッド・クラスフォード・スカーレット!」
シスターが叫ぶ。と、礼拝所の光が戻った。
「く、くくくく。そう大声で呼ばれずとも聞こえるぞ。狗よ、神の脚本の奴隷」
シスターの背後、礼拝所の奥――つまり位置関係的にはシスターと僕の間に――一つの影が出現した。闇を纏い、闇から姿を表したのは白銀の髪を持つ幼い少女。身長は、僕の腰ほどもないのではないだろうか。
だというのに、身が竦む。近寄ってはいけないと本能的に理解させられる。それは、僕に傷を負わせたあの化け物が虫けらに思えるほど――。
ああ、だめだ。これは、これとは戦っちゃいけない。
思うそばから、闇の少女――スカーレットは右手を上げ、指先で何かを弾いた。
――――っ。
音もなく、化け物の不定形の胴体が抉られる。
「…………ッ」
いかなる術を使ってのことか、視認することもできなかった。ただ、彼女が右手で弾いた次の瞬間には化け物の胴体が抉れていた。それだけだった。
白骨の四つ足が投げ出されて、化け物がズシン、と音を立てて倒れる。
「――つまらぬ。図体だけとはな。【
「ええ、今の勇者はたしかにまだ、弱い……ですからこそ、我々が。【野禽の
シスターが修道服の裾をまくった。下にあったのは艶やかな白い脚――だけじゃない。パチン、と音を立ててベルトから取り外されるのは、一丁のライフル。彼女は眼鏡を捨てると、その真っ黒な瞳を金に輝かせた。
「その目っ、まさか貴様」
「――捉えました。0.3秒後」
シスターがライフルを構え、間髪入れず発射する。
「守れっ!」
焦ったように声を上げたスカーレットの前に、漆黒のマントから生じたコウモリが壁を作る。だが、弾丸はコウモリが壁を作るのよりも速く空気を割いてスカーレットの腹に命中する。
「くっ……、許さぬ、許さぬぞ、この我が! たかが野禽ごときに手傷を負わされるなどぉ!」
「御安心を。銀の弾丸は使っていません。あくまで、貴女を倒すのは我々ではなく、勇者一行なのですから」
「なあにうぉぉぉぉぉ!!! これだから野禽はっ、嫌いなのだぁぁぁっ!!!」
スカーレットが手を振った。それによって繰り出されるのは横薙ぎの一閃だ。教会の壁を真一文字に切り裂いて、遅れて破壊が来る。鋭い一撃のあとに、広い面を圧潰するような一撃が走ったのだ。
僕であれば、間違いなく上半身と下半身がさよならしたあとでどっちもミンチにされていた。だが、シスターは違う。
――高く、跳ねていた。
一度の飛翔によって最初の切断を逃れ、壁面を足場とすることでさながら銃弾のように真っ直ぐに、スカーレットへと飛びゆく。まるで、敵の攻撃が事前に見えていたかのように無駄のない動きだった。
「――捉えました。30秒後、貴女は撤退する」
「巫山戯るなァ貴様ァ! たかが野禽ごとき相手に逃げるなど――」
「ええ、私はただの夜勤ですよ。昼の方々には及ばない。ですが、」
空中で姿勢を変えたシスターはスカーレットの額を足で踏んづけた。そこからくるりと一回転してスカーレットの前に着地。ライフルの先をスカーレットの胸に突き付ける。
「――四天王ごときに遅れをとる私ではありません」
「ぐ、ぅ…………」
「これで銀の弾丸が発射されれば、貴女は負けてますね。それでもまだ、続けますか?」
「うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ――――」
「撤退を。いつかきたる、公正なる戦いのためにその命、どうか大切になさってください」
……再び、礼拝所が闇に包まれる。スカーレットが出現した時と同じだ。だが、一つ違うことがある。光の戻った礼拝所に、スカーレットの姿はもうなかった。
「……観測収束。異状なし。――もう、出てきてもいいと思いますよ? 勇者様」
シスターの金の瞳が僕を見る。彼女は引っ込み思案の幼子に向けるような、柔らかな笑みを見せていた。
◆
詳しいことは、結局聞けなかった。【野禽の目】とはなんなのか。なぜ彼女はあんなに強いのか。この教会はどうして一晩でなにもかも元通りになっているのか。
それもこれも、朝を迎えたら有無を言わさずに教会から追い出されることになったからで、
「……本当に、僕と一緒に来てはいただけないんですか」
「規則ですから。ですが、安心してください」
彼女は眼鏡を外すと、金の瞳で微笑みかけてくれた。
「あなたとの共闘を、私の瞳は捉えました。またいつか、どこかの場所でお会いしましょう」
「――はいっ!」
教会から出てしばらく歩くと、そこは深い森――昨日化け物に追いかけ回されたのと同じ場所だった。振り返って見ると、そこには教会なんてありはしない。すべては夢幻のように消えていた。
それでも、この身体に巻かれた包帯はたしかにある。あの、シスターの戦う姿だって、しっかりと記憶に焼きついている。
――またいつか。
その言葉を胸に、僕は一度、最寄りの街へ引き返すことにした。とりあえず、優秀な銃使いでも探してみることにしよう。
(了)
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