盛夏の陽炎よりなお儚く

 この街は昭和の昔に多少の発展を遂げたものの、そこから先へは進めぬまま今日まで来てしまった。

 生きているが、死んでいる街。

 そんな街だから、どこか不整合のにおいがする。

 放っておけばいつまでもそこにあるような、停滞の気配がそこかしこに漂っている。

 無人の家屋を見かけることも、有人ながらも古びた幽霊屋敷を見ることも、珍しくはない。

 空には月が浮かんでいた。

 ――もし。月に何者かがいるとして。

 置き去りにされたこの街を見て、月に在す何者かはどう思うのだろう。

 そんなことを考えながら、今日も“幽霊屋敷”の戸を叩く。


 ○


 勝手に台所で夕飯の支度を始めた露草縹つゆくさはなだの立てるとんとんとんという、小気味よい調理音を聞きながら、私は天井を見上げていた。

 古びた天井は少しカビっぽくて、木目の模様もなんとなくおどろおどろしく見える。台所の前、薄暗い廊下に座り込んだまま、私は声を少し張り上げて言う。


「シミュラクラ現象って、あるけどさ……木目が人の顔に見えたこと、私は一度もないんだよね」

「へえ。こんな屋敷で、そんな体質だってのに?」

 台所から縹の応じる声。適当に流すような、それでいてちゃんと聞く気があるような、どちらとも断じがたいいつもの反応だ。

「ああ。――――きっとさ、回路が壊れてるんだよ。私は」

「人には見えないものが見えるんだもんな。たしかに、常人とは脳のつくりが違うのだとしてもおかしくはない」

「ん。でもさ、それって少し怖いことだと思うんだよ。万が一、私の脳に腫瘍ができて、どこぞの天才外科医に手術してもらうとするだろ? でも、現実の脳はグラフィックで見るのと違って機能ごとに色分けされてるなんてことはないんだ。つまりさ、常人の脳ならちょっと弄くっても問題ない部位が、私の場合はアイデンティティとか自我とかなんかそういう意味で……致命的な部位かも知れないんだよ」

「なるほど。霊能力者と一般人の脳の違いもよく分からないんだし、まあそうだな。……そこまで心配ならさ、翠霞すいか。健康にはもっと気をつかうべきなんじゃないか? 僕が来ないと野菜炒めとか食わないだろ」

「ご忠告、いたみいるよ。でも本題はそういうことじゃないんだ」


 ため息をついて、私は台所にかかる暖簾をくぐった。調理する縹の姿を視界に収める。顔はこちらに向いていないが、意識はちゃんとこちらを向いているのを確認して――――


「今日、木目から顔が出てきた」


 私は言ってやった。少しは動揺してくれると面白いと、そんなよこしまな思考を言葉の端にわずかばかり忍ばせながら。


 ○


 近年の酷暑には閉口するしかないが、今日はとりわけ最悪だった。

 だからこそ、街の幽霊屋敷探訪やトマソン探しをしたくなった。

 冷房なんて今どきはエアコン一つあれば基本的に困るということはない。だが、怪談話や和ホラー、心霊スポットの探索――――そういったおこないでしか得ることのできないものがある。ただ、空気が冷えれば良いというものではない。むしろ肝を冷やすことの方が夏には必要なのだ。

 だが、私にとって心霊現象は日常である。

 悔やしいことに、たいていの怪談話は恐怖の対象にならない。

 所詮、フィクションはフィクション。

 私が肝を冷やすなら、得体の知れない霊を直に見に行く方がよほどいい。

 それゆえの、幽霊屋敷探訪、トマソン探し。

 時代から置き去りにされたようなこの街の中にあって、とりわけ人々から忘れさられ、煮凝りのように転がる正体不明の情念こそ、真に恐怖すべき対象なのだ。だからこそ、人々から忘れ去られ、置き去りにされたところを視て回るのがこの季節の私の趣味になっていた。


「……それで、また変な霊を視たのか?」


 機嫌の悪さを微塵も隠さない声音で縹は言った。その中指には絆創膏が巻かれている。


「変じゃあないよ。生憎とね、普通の女の子だった」


 答えて、私は醤油ラーメンをすする。一滴くらいはこいつの血が混じっててもおかしくはなさそうだったが、とくに変わった感じはしない。しっかりとおいしい。もやしとかにんじんとかきのことか、醤油ラーメンなのにやけに野菜の具が多いところも込みでいつも通りだ。


「わあっ。すごく、すごくおいしそうっ!」


 私に憑いてきていた女の子――――赤丹朱夏あかにしゅかがテンションあげて私のラーメンをじっと見つめている。

 当然だが、ここにあるラーメンは二人分――――私と縹の分だけで、しかも朱夏は幽霊なのでラーメンを口にすることはできない。匂いだけなら味わうこともできるが、口に入れることは不可能なのだ。

 だが、生者である私から朱夏ちゃんに何が言えるのだろう。

 善良な幽霊の前で食事をとることほど、気まずいことはない。

 畜生、こいつがもっと料理下手だったらこんな懊悩することもなかったろうに――――


「なるほど、ここにいるんだな。その幽霊が」


 と。理不尽な怒りと抱いていると縹がそんなことを言った。視線を向ける先は私の右隣。恐るべきことに本当に朱夏ちゃんがいる方だ。こいつ、本当は視えてるんじゃないだろうな。


「幽霊にメシは食わせられないから、それで罪悪感感じてんだな?」

「まあ、はい。そういうわけで」

「えーっ!? こんなにおいしそうなのに!?」


 朱夏ちゃんがあからさまにショックを受けたような顔をする。

 ちょっと視てらんなくなって私は朱夏ちゃんから目を逸らす。


「……で、その幽霊の子、未練とかはあるのか? 翠霞のことだ、どうせ、成仏の手伝いをしてやるつもりなんだろ?」

「まあね。悪い子って感じでもなさそうだから……」

「どんな未練なんだ?」


 成仏するには、未練を晴らすのが最もてっとり早い。流石に私の幼馴染だけあって、こいつもそれを分かっているのだろう。私は縹に箸の先を向けた。


「友達との、約束を果たしたいらしい。『夏休みの冒険』だってさ」

「へえ、ということは小学生?」

「おお、よく分かったね」

「お前は中学生くらいの女の子に対しては途端に当たりがキツくなる真性のロリコンだからな……」

「ちょっと待て。なぜそんな認識に」

「幼馴染だからだ。……で、名前は? 推定死亡時期は?」


 暴走列車みたいに話を進めるやつだ。私は諦めからか、はあとため息をこぼす。


「名前は赤丹朱夏。享年11。死亡時期は不明だけど、どうも私たちと同年代の可能性が高いっぽい」


 直接は聞かなかったが、朱夏ちゃんの発言の節々からそうであることが察せられた。


【続かない】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る