無人注意
たまに、どこか知らない土地の山の中へ足を踏み入れてみたくなる。
作家としての
幼い頃のぼくは山の中をよく探検していた。今は使われていない古びた道路、いまにも崩落するんじゃないかと身体が竦む真っ暗なトンネル、サビついて文字も読めない案内板。そういうものを見ると、なんだか無性に楽しくなってしまうのだ。
新刊の執筆、改稿等諸々の作業を終えて余暇ができたので、気分転換がてらぼくは山に行くことにした。
どこの山に入るのかは、まだ決めてない。せっかくの楽しみが失せてしまうからだ。
適当に電車を乗り継いで、適当に街の中を散策して、適当に見つけた山――うっそうと木々が茂っていて、イノシシやクマの出るようなものがいい――に入る。当然、格好は登山用のものだ。服装一つで命を拾うか否かが変わってくる場所に行くのだから、気を使いもする。
また、創作の資料が手に入る可能性を考慮してデジカメを首から下げておく。絵を描くわけじゃあないが、写真は執筆の助けとなる。
そういうわけで、僕はその名も知らぬままにどこか遠くの街の山に入った。標高はおそらく700m程度。人がよく来るのだろう、入口のあたりにやけに真新しい案内板が立っていた。
順路が示されていたので、まずはその通りに進んでみることにする。……念のため、案内板の写真を撮っておく。いつでも確認できるようにするためだ。
しばらく歩くと、水音が聞こえてくるようになった。音から察するに、どうやら小さな滝があるらしい。
果たして、丸太橋を渡った先にそれはあった。
「おお……!」
思わず、声がもれる。
雄大さ、というものはない。滝といってもささやかなもので、下に立っても滝行はできないだろうというくらいのものだ。
それでも、水の清らかさと周囲に満ち満ちる自然の作用ゆえか、その滝には一種の神秘が感じられた。
俗世ではまず出会えないような、こういった自然の中でのみ遭遇できる超常の気配。
カメラで撮影することはためらわれた。
このようなものを、切り取って画像データとして保存しありがたがろうなんて、無粋な行いに思えたのだ。
近くにちょうどいい大きさの椅子があったので、そこに腰かける。
腹も減った。ここらで昼食を摂るのも、悪くない。
じっくり滝とその周辺の空気感を楽しんだあと、私はさらに奥へと進んでみることにした。案内板の写真を確認しつつ、順路に従って行く。
少し歩くと、上り坂にさしかかった。勾配はさほどきつくはないが、アスファルトで舗装されているわけでなく、ただ土が踏み固められているだけの道のり。独特の緊張感がある。
その、途中でのことだった。
「ん?」
奇妙なものを見つけた。
ぽつぽつとこの山の中に立つ案内板の一つのようだが、内容が意味不明なのだ。
【この先、無人注意】
――「無人注意」とは、一体どういうことだろう。
ここまで、ぼくは山の中で誰かと遭遇することはなかった。つまり、今までの道のりも無人だったということになるはずだ。まさかこの山がお化け屋敷みたいに裏でスタッフが奮闘してるタイプの行楽施設なはずもない。
そして何より、気味が悪い。
案内板の写真を確認してみる。
……ここのことは一切記されていない。見た限りでは「無人注意」の看板の先にも道はあるのに、案内板の地図には一切それが記されていない。
そういえば、入り口の案内板は妙に真新しかった。もしかすると、この看板の先はなんらかの理由によって使えなくなった道なのだろうか?
好奇心がうずく。
ぼくは、「無人注意」の看板の先へと、足を進めた。
一見して、なんの変哲もない普通の山道だ。この先に何かがあるようにも見えない。
事故の危険性があるのではないか、とも疑ったが、どうもそういった感じもしない。そもそも、そういった理由で危険なのだとしたらそう書けばいい話だ。
「無人注意」なんて、わけの分からない警告文を描くのはおかしい。
――ふと、気付いたことがある。
――ガーガーァ
――チ――キキキキキキ――
――ゲコッ、ゲコッ
――ブ――――ウウン、プ――――
――チチチ――チチチチ――
周囲から、鳥や虫、獣の鳴き声がするのだ。それも盛んに。
さきほどまでは、ここまでうるさくなかった。だというのに突然、よく鳴くようになった。
……ぼくがここに入ったから?
仮にそうだとして、一体そこにはどんな因果関係があると言うんだ?
分からない。何も……と、いつものクセで顎に手を当てた時だった。
ふわり、と。
温かな獣毛が肌を撫でた。
「……?」
見れば、ぼくの右手が獣の毛皮に覆われていた。
思考が追い付かない。これは一体、どういうことなんだ?
左手を見る。同じだ、左手も獣の毛皮に覆われている。
動物たちの鳴き声はさらに盛んになる。まるで、僕を歓迎するかのように――
まさか、「無人注意」とはそういうことなのかっ!?
後退ろうとして、ぼくは転ぶ。足に目をやれば、関節が人間のそれではなくなりつつあるように見えた。靴を脱ぐと、靴下の先っぽの方がスカスカだ。靴下を脱がしてみる。大きさはまだ人間サイズだが、その脚は、猫科の生き物のそれに見えた。
「うわあああああ――っ」
みっともなく悲鳴を上げて、立ち上がろうとする。だが、上手く立てない。脚が変わってしまって、バランスを保てないのだ。
なにか、なにかないかと周囲を見回してみると、木々の影にちらと、人間の衣服が見えた。それも複数。
――ああ、はやりそういうことなのだ。
「この先、無人注意」……あれはつまり、「この先の道は人が踏み入ってはならない領域である」という意味だったのだ。もし踏み入れば、人はこの領域に適応しなくてはならない。つまり、人間ではなくなることを強要される。獣や虫に、身体を強制的に変化させられてしまう。
おそらく、さっきから聞こえる鳴き声はそうやって、人間であることを辞めさせられた者達の声なのだ。
新たな仲間を、喜んでいる声。
だが、ぼくは仲間になってなってやるつもりはない。
世の中に絶望しきってるわけでもなければ、未練がなんもない状態ってわけでもない。
「……残念だが、ぼくは帰らせてもらう……俗世にね」
呪文を唱えた。
自然の理を捻じ曲げ、人の意によって新たな法則を顕現させる言葉を。
――人がいてはいけない領域だと言うのなら、自分から獣になってしまえばいい。
一見、この場所の掟を受け入れたかのようだが、自分から変化するのと、無理矢理変化させられるのとでは大違いだ。
呪文を唱え終える頃には、ぼくは一匹のオオカミになっていた。猫のものになっていた脚や手も、まるごと込みで変身できたのは幸いだ。
この呪文の効果は10分で消えてしまう。急いで外に出なくては。
――ぼくは身につけていた衣類やリュックサックを口にくわえ、来た道を引き返した。
◆
帰宅するのは大変だった。
結局、呪文の効果が切れても山によって変化させられた猫の手足は戻らなかったので、歩くことさえままならなかった。手も、スマートフォンを持つことすらままならない有様だ。駅の改札を通るのにも一苦労した。
その日のうちに帰宅できたのは、まったくの幸運だったと言えよう。
不便だ不便だと思っていた猫の手足での生活は、慣れてしまえば案外なんとかなるものだった。編集者へのメールの返信も難なくこなせるようになったし、食事も、手(前足)の先にスプーンでもくくり付ければ大きな問題はない。肉体とともに、精神も若干変化してしまったのか、猫のエサのCMが異様なまでに魅力的に見えたのには正直参ってしまったが……まあ、この程度なら案外どうとでもなるものだと思った。
そんな風に、猫の手足での生活があたりまえになりつつあったある日の朝。ぼくが目を覚ますと、そこには人間の両手足があった。もとに、戻ったのだ。
名残惜しさがないと言えばウソになるが、PCのキーボードをタイプしてみると「戻って良かった」と思わずにはいられなかった。
……山は危険な場所だ。一歩間違えば命を失いかねない、自然の領域。
ぼくは、少しばかり見知らぬ山を探検するという嗜好を考え直してみるべきなのかもしれない。
(了)
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