ワン・インセイン・ワン
これからここに記すのはぼく、
ゆえ、ジャンルとしてはノンフィクションということになるのだが、読者諸氏にはフィクションとして読まることであろう。なぜなら、これからここに記すことはそれだけ超常の出来事であるからだ。
前置きが長過ぎてはいけない。
では、始めるとしよう。あれは半年前。まだサクラの咲き誇る季節のことであった――。
◆
「……ふう、こんなものか」
ぼくは原稿の冒頭を一息に書き上げると、ため息をついた。
思い返すだけでも眉間にしわをつくらずにはいられない、あの出来事のことをこれから書くにあたって、必要なのは出来事の検証だ。そして、どこからどこまでを記述するかだ。
ノンフィクションのつもりで書く、そういう意識ではあるが、発表時のジャンルはあくまで「創作手記」ということになるだろう。なぜなら、あれをそのまま事実として公表してしまえば人々の健全な営みが乱されてしまう
危険、なのだ。
ぼくのようにすでに修羅場を幾度を潜り抜けてきた人間や、あの事件の中心人物であった蓮日寺のように血がそういう巡り合わせである人間――そういった手遅れの者以外に教えて、何もいいことなどありはしない。
ごくまれに、アメリカのかの作家のように無関係の領域からそこに至ってしまう人間がいるのだが……そういった人間を無闇に増やしたところでいいことなんて何もない。
この世の条理が莫大なる不条理に支えられていると知る必要など、ありはしないのだ……。
ともあれ、一度記憶を掘り返さないことには始まらない。
思い出そう、あの春の日……ぼくが遭遇した、おぞましき運命にありながら今日まで生き延びてきた数奇な一族の家のことを――。
◆
例年より、サクラの開花が遅れていた。長引く冬の残り香は気温に如実に現れていた。
四月になってもコートは手放せないし、多少はマシになったとはいえ、素手を外気に晒すのは躊躇われるような状態だった。
そんな時だ。ぼくがあの兄妹と一匹の犬に出会ったのは。
「あれ? もしかして字野白理じゃない?」
声がした方へ、振り向いてみる。多少はメディアに顔出ししているが、ぼくのような兼業作家の名と顔を記憶してくれている人間は実に珍しい。少し、話してみようという気になった。
そこにいたのは男女二人と犬が一匹。犬の方はどうやら盲導犬であるらしかった。ゴールデンレトリバーという品種名に相応しい見事な毛並みに埋もれるようにして、白のハーネスが見える。
こちらが振り向いたのを見て、女性――ひどく若い。高校生くらいだろうか――が反応した。一方の男性は盲者であるらしく、あまりピンときていない様子だった。
女性が手を振ってきたのを見て、僕は近付いて挨拶する。
「……ぼくのことをご存知なんて、ありがたいです。ええ、はじめまして。字野白理と申します」
「ほら、やっぱり!」
「……えっ、本物?」
男性はやはり首を傾げている。
「本物だよ本物っ! あ、すみません、この人、目は見えないんですけど先生の作品の大ファンなんです。先生の作品の読み上げ音声は新しいのが出るたびに買ってるんですよっ!」
近年は単なる電子書籍ではなく声優さんや俳優さんの読み上げた音声が販売されるようになっている。ありがたいことに、そうして売り出される作品のなかにはぼくの作品も含まれていた。
「おや、そうだったんですか。それはどうも、ありがとうございます」
「いやぁ~同じ県の出身だとは聞いてましたけど、まさか地元で会うなんて! ここには取材ですか?」
「いや、ぼくもこの辺に住んでるんですよ」
「へぇーっ! それはまたすっごい偶然ですねっ!」
女性の方が活発に話しかけてくれる一方で、男性の方はどこか困ったふうに、もじもじとしていた。
「……では、お散歩の邪魔をするのも悪いですから、このへんで……」
「あっ、待ってください!」
「?」
「……ほら、先生に相談したいこと、あるんでしょ?」
「でも本物かどうかが……」
「あたしが言うんだから間違いないって! 言ってみなよっ」
どうやら、ぼくに何か聞いてほしい話があるようだ。
良い答えが出せるかは分からないが、話のネタになるかもしれない。
「もしよろしければ、伺いますが」
「……ああ、それでは……少し、このあとお時間いただいてもよろしいでしょうか」
◆
連れて来られたのは広い邸宅だった。立派な門扉を潜り抜けた先にあるのは立派な日本家屋だ。
「申し遅れましたが、私は
「ああ、これはどうも御丁寧に」
話しぶりはどことなく寺の住職のそれを思わせた。この邸宅の雰囲気や苗字から考えるに、蓮日寺一族は代々、浄土真宗の住職を務めてきたのだろうか。
「……奥は寺になっております。手前が、我々の邸宅です」
どうやら推測は当たりのようだ。
「今は所用で両親ともに外出中なんで気にせず上がって下さい」
妹の沙羅さんが玄関の扉を開けてそう言ってくれた。「おじゃまします」の言葉とともに靴を脱いで上がる。
「して、私になにか見せたいものがあるようですが……それは一体?」
「奥の部屋です。一緒に、来てください」
マニの足が拭き終わるのを待って、ぼくはその奥の部屋へ案内された。
「……屋内といえど、ここはこの通り広いですから。マニが離せないのです」
苦笑しながら、顕正さんが言う。
「先生、ここです」
妹の沙羅さんがその部屋の扉を指差した。ふと、傍らを見ればマニの様子がどこかおかしい。
さっきまで盲導犬らしく大人しくしていたゴールデンレトリバーの成犬が、威嚇するような態度を見せている。
――この部屋の向こうに、一体なにがあるというんだ?
扉が開かれる。顕正さんが足を踏み入れる。
中はなんてことはない、ただの和室だった。寺の家ということもあってか、どこか仏教的雰囲気こそ漂っていたが……それほどおかしな部屋ではない。
だが、顕正さんがマニを放した瞬間、マニは部屋の奥の方――入口から見て一番遠い隅へと駆け出していった。そして吠える。懸命に、なにかに抗うように、敵がそこにいるかのように、吠えるのだ。
「……こういう、次第にございます」
顕正さんが言った。
「字野先生。あなたは、怪異小説をよくものすお方だ。……なにか、よく訓練された盲導犬でさえ吠え散らしてしまうような恐ろしい何かの話をご存知ではありませんか」
「……ふむ、なるほど」
見たところ、マニは掛け軸に向かって吠えている様子だ。それなら、あの掛け軸に何かがいると考えるべきなのだろうか。
と、思考していると顕正さんが言った。
「……実のところ、私は知っているのです」
「…………なにを?」
「この怪奇現象が、あなたの手によって解決されるであろうことを」
「――っ!?」
「あなたはこれより後、私どもの家の、この怪異をモチーフにした小説を出版される。創作実話という体で執筆なされる。それが、私には3年前より分かっておりました」
「それは、つまり……」
ぼくは沙羅さんの方を見た。彼女もまた神妙な顔をしている。どうやら与太話や推測のたぐいではないらしい。
沙羅さんが言う。
「……兄は、この部屋でかつて一度だけ、未来視を行ったんです」
「未来視?」
「これから先の未来で、自分が見るはずだった視覚を先取りしたんです。その代償として、ご覧の通りの盲者になりました」
普通なら、到底信じることのできる話ではないだろう。だが、ぼくは普通じゃない。すぐに話を呑み込んで、顕正さんに確認を一つとる。
「……あなたは、この部屋で私が何かするところを見たんですか?」
「いいえ。何も。そもそも、この部屋で何かが行われたことすら分かりませんでした。部屋の内装に、別段変わったところはありませんでしたから……ただ、数日間、あなたはこの部屋で何か作業をしていたようでした」
「――なるほど。そういうことですか」
理解した。ぼくのすべきこと、そして、マニの豹変の理由が。
「……では、数日ばかりお時間をいただきます」
◆
それから、僕がやったことは単純だった。
マニが吠えていた方にある部屋の角――それをパテで丸くしたのだ。それだけで、マニは吠えなくなった。
アメリカの作家――H・P・ラヴクラフトの著作に端を発する一連の創作は、私が書こうとしている短編の同類だ。すなわち、事実を巧妙に、ウソだと見せかけて描写されたノンフィクションなのだ。むろん、作品群の中には純粋なフィクションも存在する。今のように人口に膾炙しすぎてしまうともう、何が本物で何がウソなのかの判別も難しいだろう。
そしてきっと、それこそが彼らの目的なのだ。
「……あの部屋は、霊的に保護されていた。それによって、猟犬の嗅覚は惑わされていたんだ」
顕正さんの行った未来視は、この時間の外に棲む存在を招き寄せるものだった。しかし、あの部屋は霊的に特殊な場所だったので、かの猟犬といえども出て来ることまではできず……部屋の外に出られてしまうと今度は存在を感知できなくなってしまった。ゆえに、あの部屋の……おそらくは彼が未来視を行った場所に最も近い角から猟犬は出ようとしたのだ。
「……蓮日寺の一族は、おそらく特殊な家系なんだろう。魔術師や超能力に類する者たちが婚姻を重ね、血を濃くしていった一族……だからこそ、その家もああいう霊的に保護されたものになった……」
――と、ここまで聞いてぼくは顕正さんが未来視を行った理由を聞いてなかったことに気付いた。
どうせ近所なんだし、ちょっと行って聞いてみようか。彼の未来視が絶対なのだとしたら少なくとも、僕のこの手記が出版されるまでは確実に生存しているはずだし……。
そんな気持ちで僕は席を立った。
――まさか、この一週間後に顕正さんが亡くなるとも知らずに。
(了)
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