さよならリリプラーヴァ
私と茜が仲良くなったのは偶然だった。
たまたま、私がペンを忘れて講義に出た。
たまたま、隣の席にいた茜にペンを借りた。
うっかり、私はペンを返すのを忘れたまま食堂へ行ってしまった。
そしてたまたま、大学の購買で茜が新しいペンを買っているところを目撃した。
私がペンを返し忘れたことに気付いて謝ると、茜はため息をついて、
「もういいです。あのペンは、あげます。……ちゃんと、最後まで使ってくださいよ?」
――乾いた笑みで、髪をかきあげた。
それが、私と茜の出会いだった。
あれから、私は茜とよく話をするようになった。
話してみると茜はけっこう面白い人で、私の知らない色々なことを知っていた。証明をしなかった数学者の話をしたかと思えば、「そういえば」と言ってネットで流行ってるくだらない動画の話を始める。おカタい学術話もネットの俗な文化も同じくらいに知っていた。そのギャップがクセになって、私はいつしか、茜と話すのが毎日の楽しみになっていた。
「リリプラーヴァって知ってる?」
茜がそう言ったのは、私が茜の家に遊びに行った日の夜のことだった。
「なにそれ?」
「なんか、掲示板で話題の言語。人工言語って言われてるみたいだけど、誰が作ったのか分かんないんだって。つまり出所不明」
「そんなことあんの?」
「さあ? ネットの人間が悪ふざけでそういう話をでっち上げてるだけかもしんない……でも、ただの言語じゃないみたいなんだよね。感情を、ダイレクトに伝えられる言語なんだって」
「はぁ?」
「とりあえずさ、まずはこれを聞いてみてよ」
茜がイヤホンを差し出してくる。どうやら茜のスマホに繋がってるようだ。
私はそのイヤホンを耳に付けた。「いくよー」と、茜がスマホの再生ボタンを押す。
聞こえてきたのは歌だった。耳慣れない言語。おそらく、リリプラーヴァとやらだろう。
はじめは静かに。耳が痛くなるほどの静寂を感じさせる。
だが、曲が盛り上がるに連れて歌手のテンションも上がっていき――私自身も、興奮を感じていた。気がつくと、呼吸が速くなっていた。
もっと、ずっと、よく聞きたい。そんな気持ちさえ湧き起こった。
だけど、サビに入った瞬間、私は突き飛ばされた。断崖絶壁の崖の上から海に突き落とされたかと思うほどの、ショックを叩きつけられた。あとで知ったところによると、サビ前までは「愛してる」に類する言葉の詞だったが、サビに入って最初の詞は「大嫌い」といった意味あいの言葉の詞らしい。
サビで「大嫌い」を叩きつけられてから、私は楽曲が耳に入らなくなっていた。
過呼吸になりかけ、冷静になった頃にはもう、曲は終わっていた。
「どうだった?」
ニコニコして茜が訊いてくる。
「……なに、今の」
「これがリリプラーヴァ。ちなみに今のは、他の女に寝取られた人が自分の彼氏に向けて歌った歌」
「なんか、まだ心臓がバクバク言ってるんだけど」
「よくわかんないけど、そういう言語みたいだよ。意味は理解できなくても口にした言葉の示す感情が、ダイレクトに相手に伝わる。しかも、表現できる感情の幅が16万画素の液晶ディスプレイ並みに精彩なんだって」
「へ、へえ……」
興奮気味に語り出した茜を適当に流しつつ、私も手元のスマートフォンでリリプラーヴァを調べてみることにした。
そんな私に気付いたのだろう。茜は突然、話を中断したかと思うと私の耳元ににじり寄って、囁いた。
「 」
「――っ!?」
言葉とともに優しく、茜の小さな口から吐き出される息。それに意識のすべてが持っていかれて、私は茜の言葉を聞き取れなかった。でも、その意味はなんとなく分かった。
顔が熱くなる。きっと、耳まで真っ赤になっていたと思う。
茜の顔を見ると、向こうもそんな感じだった。なのに、余裕ありげな笑みで茜は、薄手のパジャマの裾をちらと捲って見せる。
「……返事は、行動で示して?」
最初は首を横に振ったが、茜に言葉を囁かれ続けるうちに我慢ができなくなった。その時に囁いてきた言葉の意味を茜は教えてくれなかったが……翌朝、鳥の鳴き声を聞きながらなんとなく「こういうことなんだろうな」と理解した。隣で眠る茜の繊手をやさしく握って、もう片方の手で黒い髪を掻き分けて、形の良い耳を露出させる。
……今の私の感情を示す言葉は、これかな。
「lu-lili-tepra-slin-lipra」
眠る茜に私は言葉を囁いた。ネットで調べたものだが、その言葉はちゃんと過不足なく私の心を表現してくれた気がする。
一線を超えた私たちはほどなくして、ルームシェアという名の同棲を始めた。
一緒に大学に行き、家に帰ったら日本語で会話をして、リリプラーヴァで思いを伝え合う――そんな生活は一年ほど続いた。
同棲開始から一年。私の方が大学で忙しくなって、茜とは生活リズムが合わない日が多くなった。専攻の違いによるものだった。
お互いに鬱憤が溜まるようになり、唯一、一緒にいられる金曜の夜に一週間の感情交換(私と茜をリリプラーヴァでのやりとりをそう表現していた)をやって気持ちを発散させるようになった。
ある日、私と茜はリリプラーヴァ話者たちの会合に行った。参加を決めた理由は純粋な好奇心だった。ほかのリリプラーヴァ話者がどんな風にこの言語を使っているのか、興味が湧いたのだ。
言い出しっぺは私の方だったが、私は急用で途中、抜け出さなくてはならなかった。
「……じゃあね。lu-tepra-lipra」
「うん。lu-esri-fiepsa-lipra」
そんな別れの言葉を交わして、会合を抜け出した。
以来、茜は感情交換をしてくれなくなった。
何かと理由をつけて、リリプラーヴァの使用を避けるようになった。辛うじて話してくれたとしても、
「lu-esri-fiepsa」
――の一言だけ。しかも、心に響くものがほとんどなかった。本心からの言葉でない場合、リリプラーヴァは心にほとんど響かない。つまり、ウソか、ウソでないにしても本心からの言葉ではないということだ。
茜は誰か別の人とやりとりを始めたようで、やがて、私たちの部屋を出て行った。
少し名残惜しそうな表情で、彼女は別れの言葉を告げる。
「lu-inskai-lipra-ha, lu-fiesri-a……」
言葉を途中で切って、首を横に振って、
「ごめん、さよなら」
そう言って、ドアを閉じた。
きっと、私にショックを与えないためにリリプラーヴァの使用を避けたのだろう。
私は、リリプラーヴァを封印した。ツイッターのミュートワードにも設定した。そして、他の誰かにも使う気は起こらなかった。
だってあれは、茜のための言葉だったから。少なくとも、私にとってはそれ以上でもそれ以下でもなかったのだと、分かってしまったから。
(了)
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