バイオテックトナカイ論考

 冬の空は高く澄み渡り、星が、よく見える。

 僕と先輩だけ、二人きりの天文部は今宵――クリスマスの夜、学校にこっそり忍び込んで屋上に来ていた。屋上の鍵は先輩が持っている。警備員に見つかる可能性を除けば、ここに侵入のはそうそう難しいことでもなかった。

 二人で屋上に座り込んで眺める星は、格別なものに思える。


「……いいですね、こんな風に、星を見るのって」


 僕が呟くと、先輩は黒のロングヘアをかきあげて、こちらを覗き込むようにして僕を見た。


「君は、本当に情感たっぷりに言うんだね」

「先輩はこういうの、嫌いじゃなかったと記憶してますが」

「まあね。好きだよ、そういうのは。私が晴れた日に、屋上でタバコを吸うのだって感情的な理由によるものだしね。……ただ、青空に煙が上って雲に溶けゆくのが、好きなんだ」

「仮にも高校生だってのに、いいんですか?」

「ハタチは過ぎてるんだ。誰にも文句を言われる筋合いはないよ」


 いつもの会話。

 いつものテンポ。


 クリスマスだからって特別なことなんて何もないけれど、心地良くてずっとこうしていたくなる。


「……まあ、それもそうですね。…………なんていうか、幸福ってこういうことなんでしょうか」

「幸福、か」


 その時、先輩の声の雰囲気が変わった。少しトーンダウンしたこの声は、哲学にふけっている時のものだ。


「――君は、幸福ってどういうことだと思う」


 ほらやっぱり。

 僕は少し考えてみる。幸福……それが一体どういうことなのか。

 たとえば、愛する人と一緒にいること。

 たとえば、これ以上ないほどに満たされていること。

 あるいは、穿った見方をすれば――不幸を自覚していないこと……とも、言えるかもしれない。


「…………分かりません」


 最終的に、僕はそう結論した。

 先輩は少し不満そうな顔を見せた。


「なんだ。優等生でつまらないな、君は」

「それはどうも」


 僕としては、こうしてなじられることさえも幸福だと言いたいのだけど、それを言ったら引かれるかな。


「幸福とか美とか善とか悪とか……私たちの世界には、よく分からないもの、定義しがたいものが存在している。そして私たちは、きっとこれらのことをよく知らないままに使っている。この、『知らないという自覚』のことを『無知の知』と言う」

「ええ。前にも聞きました」

「ん? あれ、そうだったっけ……どおりで君が優等生的解答を出してくるわけだ」

「最初のときも優等生だって言われましたけどね」

「なんだ。やっぱりつまらないんじゃないか」


 先輩は、制服の袖からぴょこっと出した指先を自分に向け、それから僕に向けた。


「幸福や美は、かたちがないものだ。では、かたちあるものについてはどうだろうね? 君や私……あるいは、バイオテックトナカイなら」

「バイオテックトナカイ?」

「ほら、君にも見えるはずだよ。私たちの目の前に存在する、バイオテックトナカイが」

「……見えませんが」

「バイオテックトナカイが、存在すると仮定するんだ」

「はあ……」


 僕は屋上の上にバイオテックトナカイが立っている姿を想像する。

 「バイオテック」というくらいだしどことなくケミカルな感じだろうか。大きな角は蛍光色素の色で、たぶん脚は半透明。気性は穏やかでその円らな瞳はどこか遠くを見つめている――。


「……仮定しました」


 僕が言うと、先輩はおもむろに立ち上がって、僕の顔に触れた。

 ――冬の外気に冷えた、細い指先の感触。

 先輩はそのまま、僕の顔を自分の顔の方へ向けた。視界が、先輩で埋められる。


「あの、」

「君がバイオテックトナカイの存在を仮定した時、君はどのようにしてバイオテックトナカイを見たのかな?」

「……そりゃ、想像して、ですけど」

「ということはつまり、君は今の今まで、バイオテックトナカイを知らなかったということだ」

「ええ、そりゃあ……ていうか、バイオテックトナカイって何かのキャラクターですか?」

「いいや。私がさっき考えた。他の候補としてはサイバーパンクサンタやジュラシックパンクニコラウス、カーボンナノドブネズミがあったんだけど…………まあ、そんなことはどうでもいい話だよ。重要なのは、バイオテックトナカイの本当の姿を知る者はこの地上に誰もいないということだ。さっきツイッターで検索をかけたから、間違いない」

「はあ……」


 僕が呆れた声で返事すると、先輩は僕の顔から手を離した。先輩の体温がほほに僅かに残る。


「誰も知らないということは、本質と偶有性の区別ができないということだ」

「偶有性?」

「……そうだな、たとえば君が、女の子だったらと想像してみてくれ。それで、今、この瞬間、私と星を見ることに幸福を感じるかどうか、検証してみてほしい」

「…………もし、女に生まれてたら、ですか」


 僕は少しシミュレートしてみて、分かりきった答えを再確認する。


「やっぱり、僕は幸福を感じると思います」

「へえ、随分と結論が速い」

「……それだけは、変わらないはずですから」


 先輩は僕に背を向けた。そして空を見上げて、


「だったら、君の本質の……少なくとも一つは『私と星を見ることに幸福を感じる』、ということになるね。そして同時に、性別は偶有性でしかないということになる。偶有性とは本質に関係なく、だ」


 それから先輩は、右手側を向いて、そこにいる生き物の頭を撫でるような仕草を見せた。おそらく、彼女が仮定させたバイオテックトナカイがそこにいるのだろう。それは、僕のバイオテックトナカイよりも少し小さいようだ。


「ここに、私のバイオテックトナカイと君のバイオテックトナカイ。二匹のバイオテックトナカイがいる。しかし、私たちはこの二者の比較をもってして、バイオテックトナカイの本質に至ることはできない。なぜなら、私たちのバイオテックトナカイの定義は異なるからだ。そもそも、存在しないものにどれだけ定義を与えようと、我々の空想するバイオテックトナカイはイデア界に――この世界の外側にあるバイオテックトナカイにどの程度かすっているのかなんて分かりやしない」

「……バイオテックトナカイという胡乱ワードさえなければ、もうちょっと高尚な気持ちで聞けたんですけどね」

「気にすることはないよ。この話は元々、卑近な着地点が待っているんだから」

「――え?」

「話を戻そう」


 先輩は地面を指差した。


「ここは屋上。あれは星空。これは柵――フェンスで、向こうに見えるのが街。……あらゆるものには名前がある。無論、バイオテックトナカイにだってバイオテックトナカイという名前が存在する」

「はあ……」

「そして、名前には意味が紐付けられている。この意味によって、我々は名詞を確かな実在として触ることができる」

「……でも、バイオテックトナカイには」

「そうだ。意味はない。定義されていないし定義できないからね。そういう意味では、バイオテックトナカイは幸福とか善とかの仲間なんだ。定義ができない、確かな実在として触れえぬ形而上の存在――たとえ、その名から生物だと類推することができたとしても、それは幸福を『良いもの』、善を『安心を導くもの』と言っているようなもので、意味のあることは真実、何も語れていない」

「……なにも?」

「ああ。そうだ。我々は幸福がどういうことかよく分かっていない。君が『私は幸福です』と言ったところで、それが本当に幸福であるのか否か、私には検証できない。それは君の脳波を計測できないからでも、私にテレパシーが使えないからでもない。幸福が何か、分からないからなんだ」


 先輩はゆっくりと、僕の方へと歩いて来る。そして囁くような声で言った。


「立って」


 言われるまま、僕は立ち上がる。

 先輩は僕の隣に立って言う。


「哲学者、ウィトゲンシュタインはこういったものを語りえないものとして、それについては沈黙しなくてはならないと主張した」

「……つまり、幸福という言葉の中身を示すことはできない?」

「ところが、語りえないことは語れないとまでは、彼は言わなかった。そして、さっき言ったろ。この話はとても卑近な着地をするって。哲学なんて、実のところただの前振りだったんだ」


 不意に、先輩が僕の手をとった。


「……私はね、この言葉を最初に聞いたときこう思ったんだ。言葉で語れないなら、別のところで語ればいいじゃないかって」


 僕の手が、先輩の左胸に当てられる。先輩ははにかんで言った。


「……伝わってるかな。私の、幸福が」


(了)

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