お題:【海辺】をテーマにした小説

 今でもはっきりと思い出せる。5年前の3月2日、雪は減ってもまだ寒さの残る冬のことだった。

 私が海辺の家に越してきてすぐのことだ、ふらりと立ち寄った海岸で、私は一人の女を見た。今だから白状できる、極寒の海を裸で泳ぐ彼女に、間違いなく私は見惚れていた。婦女子の裸体を見てしまったことの後ろめたさも無ければ、普通の人間では耐えられないような冷たさの海を泳いでいる彼女を怪しむことも無かった。私が初めて恋焦がれたスクリーンの中の大女優よりも尚、その姿は私の網膜に鮮烈に焼き付いた。


 初めて彼女と会話を重ねたのは、翌年の4月19日、海岸近くの喫茶店だ。1年以上も間が開いていたというのに、私は一目で彼女だと気付くことができた。ただ、その時は話しかけるつもりなんて無かったのだ。彼女が財布を落としたまま退店しようとしていたのに気付いた私は、こういうのも魔が差したというのだろうか?好機だと思ったのだろうか?財布を落としましたよ、と声をかけたのだ。振り向いた彼女は柔らかい笑みを浮かべてありがとうございます、と答えてくれた。


 その時は、それ以上言葉を重ねることは無かった。不思議なのだが、私はその時初めて彼女の顔を見たような気がする。すぐにわかるほどはっきりと覚えていたはずの顔を、その時ようやく見たような思いがしたのだ。深く黒く柔らかい長髪、青く澄んだ瞳、透明感のある白い肌に女神の彫像ミロのヴィーナスを思わせるような整った体つき。美しいというのはこういうことなのだと、そんなありきたりな感想だけが浮かんでいた。


 次に彼女と会ったのは、同じ年の5月に同じ喫茶店だ。彼女の方からあなたは、と声をかけてくれたのだが、肝心の私はもう何を話したのか覚えていない。それほどにのぼせ上っていたのだと気付いたのは、30分ほど話して彼女と別れた後になってからだった。恥ずかしい話なのだが、何を話したのかはほとんど覚えていない。ただ、この時初めて私は彼女の名前を知ったことだけは覚えている。忘れるものか。長瀬久子、と言う名をその日だけで何度反芻しただろうか。


 それ以来、私たちは時折会うようになっていた。喫茶店で会うこともあったが、海岸を歩くこともあった。初めて彼女と会った、正確に言えば私が彼女のことを盗み見たあの海岸だ。私が流行りの小説や映画の話をすると、彼女はよく笑ってくれた。彼女はどうやら絵描きらしく、この辺りの景色や、見たこともない景色の絵を見せてくれた。私は彼女と恋仲になりたかったのだろうか?今となっては分からない。ただ、彼女と過ごすひと時がたまらなく愛おしかったことだけは覚えている。


 その日は、唐突に訪れた。


 去年の8月、彼女が私を家に招いてくれた。木造の小さい家に独りで暮しているようだった。その時初めて知ったのだが彼女の家は海岸の近くにあり、私の家から歩いて5分ほどの距離しかなかった。喫茶店まで15分歩いていたこれまでの日々がなんだか馬鹿らしく思えて、2人で笑ってしまった。


 小さなちゃぶ台だけが置かれた四畳半の部屋でいつものような他愛もない話をしていると、そのうちに彼女は夕食をご馳走すると言って台所まで歩いていった。その時の私はただただ幸せな気持ちで包丁がまな板を叩く音や、ぐつぐつと何かが煮える音を聞いていた。


 しばらくして彼女が用意したのはご飯と焼き魚と味噌汁。何の変哲もない、しいて言うならば夕食よりも朝食の方がふさわしいようなメニューだ。それが、わたしには、ひどくおそろしいものに思えていたのだ。


 そこから先は覚えていない。次に私が覚えているのは翌日に自室でぼうっとしていたことであり、その後は喫茶店に行っても海岸に行っても彼女に出会うことはできなかった。5分も歩けば着くはずの道は、いつまで経っても思い出せなかった。


 今でも私は海辺の家に独りで住んでいる。彼女と過ごした日々は美しい思い出だが、結局最後まで彼女のことは分からないままだった。ただ、もしまた彼女と会えたならば、どうしても知りたいことがひとつだけある。私はあの時料理を食べたのかどうか?今となってはどうにもならないことなのかもしれないが、それがどうしても重要なことに思えてならないのだ。


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