柚の木

増田朋美

柚の木

柚の木

最近、なんとなく患者数が多いような気がする影浦医院であるけれど、今日は特に患者さんの数が多かったような気がする。それは、なぜなんだろうかと思うけれど、今はやりのおかしな伝染病で、不安で精神不安定になったりとか、それに伴って雇用が心配になったりだとか、家族が心配になったりだとか、そういうことを自分でコントロールできなくなって、それを薬などで何とかしてもらおうということでここに訪れている人が多いんだと思われた。患者たちは、みんな不安だとか、そういうことを、影浦の前で話して、いろんな種類の薬をもらう。できれば、その時だけ薬を使うようにしてほしいと思うけれど、中には、薬なしでは生きていかれないという人も現れてしまうので、注意しなければならないのである。

今も、影浦は、患者さんの診察を続けていた。影浦の前にいるのは、樹木医の立花公平さんであった。

「どうですか。グアテマラにいた時よりも、楽になりましたでしょうか。」

と、影浦が聞くと、

「ええ、何も落ち着かないで、かえってつらいところがあります。向こうにいた時のほうが、まだ居場所がありました。こっちに帰ってきたら、ただの何もしていないやつになっちゃいますし。」

と、立花さんは答えた。

「でも、木のお医者さんとして、いろんな木の診察ができるじゃないですか。其れは、やっぱり餅は餅屋で、すごいところがあると思いますよ。」

影浦がそういうと、

「ええ、そうなんですけどね、なんだか、こういうところに居辛いんですよ。なんだか、本当に、何処に行ってもダメだという感じ何ですよね。何だかそう感じるんですよ。いてはいけないというか、何か周りのひとが必死になって働いているのに、お前は何をしているんだと言っているような気がして。」

ある意味、妄想のような事を、立花さんは影浦に話すのであった。影浦も、それを、否定することはない。其れをしてしまっては、立花さんが持っているものがすべて間違いということになってしまう。でも、間違いであっても、立花さんはそう思っている。それを、否定もしないし、肯定もしないで、直接聞いてやることが、一番なのだと影浦は知っている。

「そうですか。そういうこともありますよね。確かに、このような世の中ですから、そういう気持ちになってしまう人も、多いですよ。ここに来る、患者さんにも、そういう方はたくさんおられます。其れは、あなただけではありません。大丈夫ですよ。」

と、影浦はにこやかに笑って、そういうことをいった。

「それに、あなたは、この病院のカラタチの木をしっかり直してくれたんじゃありませんか。カラタチ、今年はちゃんと実をつけてくれました。其れは立花さんが治療をしてくれたおかげでしょ。だから、ちゃんと世の中の役に立ったじゃありませんか。それを忘れないで、鬱に負けないでください。」

「そうですね。」

立花さんは、小さな声で言った。

「そうですね。そういうことができるんだから、ちゃんと生きていかなきゃいけませんね。僕は一応、樹医の資格もあるわけですから。それを生かして何かしなきゃな。」

「ええ、そういうことができるんですから、それはすごいことじゃありませんか。今は、園芸療法という治療もあります。其れだけでなく、趣味的に園芸をしたり、好きな人のために、花や野菜を育てている人もいます。だから、植物というのは、これからも必要だと思いますし、それを直してあげる人だって、必要だと思うんですよ。だから、其れがあるんだって思って、これからも、頑張って生き抜いてください。」

影浦は、立花さんにそういうことを言った。

「そうですね。そういう事もありますよね。僕は、それをちゃんと、わきまえていかなきゃいけないな。僕は、そういうことだって、出来るんだから。そうですよね。今はないもできないですけど、これからであれば、何かできるかもしれないですよね。」

と、立花さんはそういっているが、其れはひどく自信がなさそうで、もうそんなことなんの役にも立たないと言いたげな感じだった。影浦は、それではいけない、それよりも、できることに目を向けてほしいと思って、もう一回同じこという。

「僕は、人間を直すことはできますが、カラタチの木を直すことはできませんから。それはやっぱり餅は餅屋です。あのカラタチの木だって、今年は実をつけてくれましたし。其れをしてくれたのは、誰なのか、しっかり考えていただきたいです。」

「そうですね。影浦先生がそういうことを言ってくれるんですから、間違いではないでしょう。もう少し、何か変化ができるまで、生きていこうと思っていますよ。」

立花さんはやっとそういってくれた。鬱のひとには、こういう風に居場所があって、自信につながるものを持たせることが一番大事だ。其れをいつも影浦は言い聞かせている。ほかの患者さんたちにも、何か得意なことが在って、それを生かしていくという生き方を身に着けてもらうように、仕向けていくのだ。

「ありがとうございました。先生。先生が一生懸命、やってくれているのを感じることができるから、僕ももうちょっと生きてみますよ。ありがとうございます。」

立花さんがそういう発言をしたことで、影浦は初めて処方箋を書く。薬物の中には、依存性を持ってしまうものもある。時には危険な行動に結びついてしまうこともあるので、影浦は患者に薬を出すときは、本当に必要なものだけを出すようにしている。薬の名前は教えない。教えてしまうと、インターネットなどで、副作用などを調べてしまい、怖がって飲まなくなる人もいるので。

「はい。わかりました。じゃあ、次回は、二週間後に来てください。その間に、良いことが在りますことを、僕も祈ります。」

「はい、ありがとうございます。又、ここで先生にお話ができますことを楽しみにしています。」

この言葉は、生きていくことを約束する言葉でもあった。それを積み重ねていくことによって、彼に生きてもらうということをしっかり意識の中に打ち込ませていくことだと、影浦は、思っている。

「じゃあ、これでおしまいですよ。それでは、次回も楽しみに待っていますからね。」

「はい。ありがとうございます。必ずこちらに来ますから、よろしくお願いします。」

立花さんは、椅子から立ち上がって、頭を下げて、影浦に挨拶し、診察室を出ていった。影浦は看護師に、次の方を呼んでと合図する。次の人にも、また同じような話をつづけなければならない。それでも、影浦は、其れが人を助けることになるのなら、と思って、診察を続けているのだ。

次の人は、若い女性だった。彼女は国立の大学に行けるような、すごい学力を持っている女性である。高校でも、それを担任教師に打ち出され、ひたすらに国立大学の受験を勧められたという。本人が望んでいたのは、私立の大学で親としてはそれを遂行してくれればよいと思っていたのだが、担任教師をはじめとして、その他の教師たちがあの手この手を使って、国立大学を受けさせるように仕向けたため、彼女の精神は崩壊してしまったというのだ。確かに、学校というところは、制服を着て、家庭とは切り離した生活を送る場合もあるので、ある意味、隔離型の宗教施設に近いものもある。最近影浦は思うのであるが、そういう学校の先生の心無い一言で、将来が台無しになってしまうという若者が多いような気がする。学校の先生も、もうちょっと、教育者という意識をもってもらいたい。教育というのは、人を育てるところであるということを、もうちょっと、気を付けてもらいたいなと思うのだ。

「えーと、日比野佐夜子さんですね。その後、具合はいかがですか?」

まず影浦は、静かに彼女に聞いてみた。

「ええ、状態は、多少薬の副作用とか、そういうものもありますけれども、うちの家族には、迷惑をかけないでいるから、良いのかなと思います。」

と、日比野さんは、小さい声で答える。

「そうですか。それでは、何も大きなことは起こらないで、毎日を過ごせているのでしょうか?」

影浦が聞くと、

「私は、今はやりの伝染病に罹患してはいないし、家族も何もありません。父も母も仕事に言っていますし、でも私思うのです。国立大学に行っていれば、私は、こういうことにはならなかったのかなって。」

日比野さんはそういう風に言うのであった。

「あたし、おわりなんでしょうか。もう、この世から、必要のない存在だって、思われてしまうんでしょうか。だから、あたしは大学にもいけなかったし、働くこともできなくなっちゃったし。もう、この世から出て行けって言われているんでしょうかね。」

確かに、彼女は、高校は卒業式に出たものの、大学の入学式は行くことができなかった。惜しくも高校の卒業式が終了後、彼女教科書やノートを、道路にぶちまけるという奇行を起したのである。その時彼女は、これでやっと、うるさい先生方から卒業できたと大きな声で叫び、その様子が、明らかに普通の女性という感じではなかったので、親が精神科に連れて行ったのである。何か月か入院させてもらって、落ち着いてはいるが、いきなり妄想を語りだすなど、彼女はまだ回復してはいない。影浦も話をしてみて、彼女の住んでいる世界と、現実の世界は違っている、ということを知っている。だから、治療としてはできる限り、彼女のせかいではなく、現実世界に戻ってくれることが重要であるとおもっている。

「いいえ、この世に必要ない人なんていませんよ、必要なかったら、あなたは生きてはいないはずですよ。」

と、影浦が言うと、

「そんなことありません。私、思うんですけど、世の中は、必要な人ほど早く死んで、必要のない人が長生きするんです。其れは、どの世界もそうです。」

と、彼女は答えた。

「誰か、最近お亡くなりになった方でもおられますか?」

影浦が聞くと、

「ええ。父の、お母さん、私の祖母ですが、その方の弟さんのお葬式がありました。私は、精神障碍者だから、お葬式には出席できなかったですけど、でも、私も、子供の時は、お年玉をもらったりした人でしたので、なんかこう、ダメになっていくのがわかるような気がしたんです。やっぱり、私、一人っ子ですし、親しい身内はこうしてなくなっていくわけで、誰も助けてなんかはくれないでしょうね。だから、やっぱり私は、国立の大学へ行くべきだったのかな。そのほうが、親戚縁者からの評判も上がって、より、老後のケアを受けやすくなると、担任の先生はおっしゃっておられました。もう私の回りの人は、ようよう死ぬだけの人ばかりですし、私も、やっぱり、そうするべきだったのかなって、もうにっちもさっちもいかない状態ですよ。私はこれからどうやって生きていけばいいのか。もう生きる手段も何もありません。時間だけあったって、こんなつらい時間が長く続いていくのであれば、私は、正直そんな時間なんていりません。早く死にたいと思います。そうすれば、この年齢であれば、まだ、私の事をかわいそうな人として、みんな見てくれると思います。私は、そうすることが、今の私にできる唯一のできることです。」

と、彼女は長々とそういう話を語り始めた。影浦は、一寸待って、と彼女に言って、

「あなたは、いま時間だけ在ったって効果がないとおっしゃいました。それなら、時間というものはやたら長くあるということでもありますよね?」

と彼女に聞いた。

「ええ、そうです。時間だけがあって、其れでもう私は悲しみを感じることしかできないんです。私は、死ぬしかないのでしょうか。もう時間があると、同じ事ばっかり考えて、いい加減に忘れろと家族は言いますが、其れは私にはわかりません。答えを忘れないように、何十時間も机に向かわせたのは家族なのに、なんで今になって忘れろというんですか。そのやり方はどうしたらいいのかと聞いても、そんなの自分で考えろなんて、そういうことを言うんです。私は、はっきり言ってしまえば、わすれるということがどういうことなのかわかりません。何回も見て、考えて、何回もレポート書いたり、まとめノート作ったりして、一生懸命覚えることしかしてこなかったんです。其れなのになんで忘れろというんですか。もし、そういうのなら、どうしてやり方を教えてくれないでしょうか!」

「まあまあ、落ち着いてください。まずは、あなたが持っているものを整理してみましょうね。あなたには、まず初めに、」

「ええ、学校にも仕事にもいけない、最低なゴキブリと同じようなものです!」

影浦がそういうと、彼女はきつい口調でそういうことを言った。

「ああ、それは今は置いておきましょう。まず初めに、其れについて善悪の判断をつけるのは、いまはやめておきましょうね。仏教にも、分別するなという教えがあるそうです。僕は、宗教というものには詳しくありませんが、仏教でいうところの、事実はただあるだけであり、それについてどう行動するかを考えることだけが、人間にできることだという教えはその通りだと思うんですよ。これは、華厳経に言及されていますけどね。」

「あたしは、神様も信じません。だって、あたしの事、幸せにしてくれなかったじゃないですか!」

そういう彼女に影浦は、

「ええ、そうかもしれませんよ。でもそれは、あなたがそうなってしまったと分別しているからそういことになるんでしょ。其れをやめて、今ある事実について考えてみましょう。あなたは、膨大な時間があってつらいのだとおっしゃいました。それを、何か有効に使うということを考えてみませんか?」

と彼女のなだめるように言った。

「有効って、なにに使うというんですか?」

日比野さんが聞くと、

「何に使うのかは、僕が決めることじゃありません。ただ、あなたは、まとめノートをつくったりするなど、非常に勤勉なところがあるようですね。其れを利用して、何か資格試験の勉強でもしてみたらいかがですか?もし、誰かが時間を無駄にしているというようであれば、資格を取るために勉強をしているのだと言ってしまえばよいのです。」

と、影浦はできるだけ善悪を持ち出さない言い方を使って、そういうことを言った。

「きっと今は数えきれないほどの資格があると思うし、それを使って何かすることも可能な世の中だと思います。だから、其れを生かした生活をするということをやってみてはどうですか?」

「でも、私にとれる資格なんてあるのでしょうか。私はもう30を越してしまっているし、もう無理だと思うんです。」

という彼女。これだけは彼女の行動力というか運に賭けるしかない問題だった。いくら影浦が指示を出しても、彼女の行動力がなければ、出来ないということだ。

「ええ、あると思いますよ。僕が知らない資格だって、この世にはたくさんあると思いますよ。あの資格の本に書かれていない資格だって、いろんなものがあると思いますよ。」

影浦はできるだけ軽い口調でいうつもりだった。重い口調で言ってしまえば、其れは非常に難しいという印象を与えてしまう。そうではなくて、資格を取って、それを生かして生きるということは、難しいものではないということを、教えたかった。

「そうですか。わかりました。」

「ええ、そのためには、死のうではなくて生きようと思う姿勢が大切です。其れをしなければ、何も手に入りませんから。ですから、あなたも、生きようという意識を持って下さい。」

そういう言葉を聞いて、影浦は、やっと結論を言うことができた。影浦は、今回は鬱の薬のみだしておいて、そのほかの薬品は出さないことに決めた。

「もし、本当につらくなってしまったら、これを飲んでください。でも、乱用はいけませんよ。ちゃんと、用法用量は守ってくださいね。」

と、影浦は彼女に、もう帰ってよいと促した。彼女はまだ自信はないけれど、やってみますと言って、診察室を出ていった。彼女は少し、薬に頼りすぎているようなところがあった。なので、影浦も一緒に診察室を出て、付属の薬局で薬をもらうところまで、ちゃんと確認しておくようにしていた。

待合室に行くと、とっくに診察が終わって、もう帰るはずの立花さんが、病院の入り口に鉢植えとして置いてある、柚の木を気になるように観察している。

「立花さんどうしたんですか。何か気になる事でもあったんですか?」

影浦は、立花さんに聞いた。

「ええ、この柚の木なんですが、どうも元気がないと思いましたので、何か異常がないか見させていただいています。」

と、立花さんは言った。影浦も、其れは気が付かなかった。庭に植えてあるカラタチの木を立花さんに治してもらったことが在るけれど。

「一寸、この鉢が小さすぎるんじゃないかな。一回り大きな鉢に植え変えるか庭にじか植えにするようにしないと。やっぱり人間と同じように、狭いところにずっと閉じこもってちゃだめですよ。広いところへ出してやらなきゃ。」

と、立花さんは、樹木医らしく、しっかりといった。

「ええ、そうですね、人間も柚の木も同じようなものです。いつまでも狭い世界に閉じこもっていないで、広い世の中へ出ていくこと。其れをしないと、人間も木も苦しくなってしまうんですね。」

影浦は、先ほどの立花さんの態度とは全然違うということをかみしめながら、そういった。

「だから先生、この柚の木、植え替えてやってください。そうすればもっと、この木も楽になってくれると思います。」

「ええ、わかりました。やっぱり立花さんは、樹木医です。其れは、ほかの誰にも代えられないことです。」

影浦と立花さんがそんな話をしているのを見て、日比野さんの心の中でなにか動いたらしい。彼女のつらそうな、鬱の目つきから、何かしてみたいという、好奇心に満ちた目つきに変わった。

「それでは、この柚の木、大事にしてくださいますね。」

「ええ、しっかり、植え替えておきます。」

立花さんが言うと、影浦は、わかりました、とにこやかに笑って言った。立花さんがそんな顔をして帰っていくのを、日比野さんは、何かが変わったような目つきをして見送った。


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柚の木 増田朋美 @masubuchi4996

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