憤怒 wrath_07
何が起こったのか、一瞬では理解できなかった。
呆気なかった。兵藤の一声で動きを止め立ち尽くした枩葉の横に、突然、黒い影がよぎったかと思ったら、晴翔が颯爽と現れ、枩葉龍之介を取り押さえていた。
電光石火の早業でサバイバルナイフを奪い、腕を後ろに回させ、手早く手錠を掛け、突き飛ばして床に寝そべらせ、その背に片足を乗せて制圧する。
「動かないで。動いたら撃ちます」
モッズコートの下に装着したホルダーから銃を抜いて構える晴翔の姿は、まるで刑事ドラマの主人公のようだった。
「誰だ、あんた……」
「春夏秋冬晴翔、新宿署の刑事だ」
名乗りを上げた晴翔に、二階堂は呂律の回らない舌で精一杯の賛辞を述べた。
「おまえ、カッコイイら……そんなに動けるとは知らなかっらろ……」
「能ある鷹は爪隠す、です」
爽やかに笑って、晴翔は片目を瞑った。
「署に行ったんりゃ……」
「埒が明かないから、銃を装備して俺だけ先に戻って来たんですよ。後は堅城さんと郷田さんが説得してくれてます……けど、もう必要ないですね。こうして被疑者は確保出来たわけですし、護送用の警察車輛を一台回してもらえれば……」
そこまで言って、晴翔はだらしなく床に転がっている二階堂をじろりと睨んだ。
「って言うか、何やってんですか、二階堂さん。応援が到着するまで待つって自分で言ってたじゃないですか。なんで先走って暴走してんです。子供か、あんたは!」
「待ってたけろ……悲鳴……聞こえれ……」
「ああっ、もうっ、ドラッグまで仕込まれて。さっさと吐いてください」
乱暴に言い捨て、晴翔は二階堂の手首から手錠を外すと、それも使って、兵藤の執筆用書机の脚に枩葉を繋いだ。相当の重量のある書机だ。引きずって逃げようとしても書机が重石になって難しいだろう。枩葉は諦めてしまったのか、嫌がる素振りも見せず従順に晴翔の指示に従った。
「すいませんが、しばらくそうしていてください。護送用の車輛が到着したら外してあげますから。えぇと、痛くないですか?」
こくん、と枩葉は子供のように頷いた。
「なんらか、美少年を監禁してるみたいらな……」
「不謹慎な事言わないでくださいよ」
「うん、すまんら」
「二階堂さん、薬効いちゃってますね。そういう時って本音が駄々洩れになるから気を付けたほうが……って、無理か……」
「なんらと」
「しょうがないなぁ、もう」
見た目にそぐわぬ剛力で引き起こされ、二階堂は晴翔の肩に腕を回して抱えられる格好になった。足がぐにゃぐにゃして立っていられないのだが、晴翔は構わず二階堂を引きずり始めた。
「すいません、トイレお借りします。どこですか?」
兵藤は不承不承の態で肩を竦め、その場所を指し示した。
「どうぞ、そこの扉です。断るわけにもいかないですからね……」
二階堂は晴翔に荷物のようにズルズルと引きずられ、トイレに連れ込まれて便器に顔を突っ込む姿勢にさせられた。
「吐けますか?」
両手で縁を持って吐こうと努力してみるが、出来ない。
「指突っ込みますけど、噛まないでくださいよ」
「うげっ」
強引に歯列を割って侵入してきた指に、雑に口腔をまさぐられる。ただでさえも気色悪いと言うのに、その指が喉の奥に当たって、急激な嘔吐感に襲われ、二階堂はそのまま吐いてしまった。合図が間に合わず、吐瀉物が指に付いて汚れてしまったのに、晴翔は嫌な顔ひとつせずに二階堂を介抱した。
胃の中の物を、あらかた吐き出して水を飲ませてもらったら幾分か楽になり、二階堂は蒼い顔をしながらも晴翔に礼を言った。石鹸で手を洗いながら晴翔は言う。
「どうです? 少しはマシになったでしょう?」
眩暈と脱力感は相変わらずだが、晴翔の言う通り、かなり楽になっていた。
「さて、後片付けをしないとですね」
晴翔は携帯端末を取り出して捜査本部に架電した。
今度はさすがに渋られなかったようだ。
「道路が混んでなければ小一時間で到着する予定だそうです」
晴翔は両手を腰に当て、はあ、とあてつけがましく溜息をついた。
「ね? だから言ったでしょう。とにかく、セオリー通り行きましょうって。応援が到着してから声掛けしますよってあんなに念を押したのに、勝手に暴走しちゃって。欲張って手柄を独り占めしようとするからこんな目に遭うんですよ」
「うるさい。説教は聞きたくない」
「はいはい」
晴翔の説教を拒絶してから、ガックリと二階堂は肩を落とした。
「早瀬管理官が、上から圧力をかけられている件をおまえにしか打ち明けなかった理由が分かったよ。俺みたいな情けない男より、おまえの方が良いに決まってる」
呂律はだいぶ回るようになったが、まだドラッグが効いているようだ。普段ならこんな弱音は吐かないところだが、口が勝手に動いて喋ってしまっている。
「うわ、何しおらしく反省してんですか、気持ち悪い」
「傷口に塩を塗るな」
参ったなぁ、と晴翔は頭を掻いた。
「さっきはああ言いましたけど、でも、二階堂さんが先走って暴走していなかったら、人質は手際良く殺されていたかも知れませんよね。そう考えると、やっぱり二階堂さん、お手柄ですよ。うん、早瀬管理官にもそう伝えます!」
「同情するな。益々惨めになるだろうが」
「いや、そうじゃなくて……」
ううむ、と唸り、焦れったそうに晴翔は髪を搔き乱した。
「どうも誤解があるんだよなぁ。あのですね、早瀬管理官が好きなのは二階堂さんなんですよ。女性は好きな男の情報を、どうでもいい男から聞き出そうとするものなんです。まあ、そのついでに、上からの圧力がキツイって愚痴も軽く……って、二階堂さん、話聞いてます?」
呆然としている二階堂の眼前に翳した手を晴翔はブンブンと振った。
「ちょっと待て。意味が分からなかった」
「だ・か・ら、早瀬さんが好きな男」と言って晴翔は二階堂を指差し、「相談しやすい、どうでもいい男」と言って自分を指差した。
「なっ、バ、バカ、おまえ冗談は休み休み言え!」
頑として信じようとしない二階堂に、晴翔は肩を竦め、両手を胸の前で組んで上目遣いで二階堂を見詰めながら、一オクターブ高い声を出す。
「励ましてもらったお礼に二階堂君を食事に誘いたいの。春夏秋冬君なら彼の好みを知ってると思って……良かったら教えてくれない?」
二階堂を揶揄う為──ついでにシンプルに真実を伝える為、しなを作って早瀬あずさの物真似をしたのだ。晴翔は細身でそこそこのイケメンだが、さすがに気色悪い。
「お、おまえ、それ、全っ然、早瀬さんに似てないからなっ!」
「まあ、とにかく、近々お誘いがあると思いますから、楽しみにしていてください」
ポンと気安く肩を叩かれ、二階堂は滅茶苦茶な気分で立ち尽くしていた。
***
枩葉は悄然としていた。手錠を掛けられた手をじっと見詰め、その癖、自分が逮捕された事に気付いていないようにも見えた。
兵藤は同じ部屋に居るが、ただ、じっとソファに座って自分を観察しているだけで、何も言葉は掛けてくれなかった。慰めも、労いも、叱責も、別れの言葉すらも、何も――
温度の無い視線を受けて、枩葉は、それでもこの人を好きだと思う。
ずっと夢を見ていたのかもしれない。
初めて兵頭静香の作品を読んだ時から、ずっと、この冷酷な悪魔に魅入られて、この上なく淫靡で美しい地獄の夢を見ていた。おそらく、これからも、死ぬまで……
***
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