憤怒 wrath_06

 何か話して時間稼ぎをしようと思った。だが、混乱している頭ではろくな話題を思い付かない。薬のせいで理性の境界が曖昧になっているのか、唐突に脳裏に浮かんだ、それまでずっと気になっていた事を、そのまま口にしてしまった。

「榊原先生が、四人でやり遂げたと言っていたが、あれは何だ?」

「え?」

「四人目の殺害現場を見た監察医が言ったんだ。四人殺してやり遂げたから、犯人はもう捕まってもいいと思っている――と。目的は果たしたのか?」

 枩葉は手品でも見た子供のように、驚きに目を見開いた。

「その先生スゴイですね。アタリです。四人で十分だったんです」

 アタリ? 考えが上手く回らない。視界がぐらぐらと揺れて、自分がきちんとソファに座っているのかどうかも分からなくなって来ていた。

「つまり、どういう事……だ……?」

「水晶の動物を死体の側に置いたんですけど、警察は気付いてなかったんですか? 手紙も送ったのに、ニュースにしてくれなかった」

「ニュース?」

「本当は、先生を驚かせる為ニュースで伝えたかったんですけど、警察が発表してくれなかったから、自分で伝えに来なきゃならなかった」

 分からない。枩葉は何の話をしている――?

「水晶の動物は心理テストの答えです。五匹の動物のテスト、知ってますか? 少し前にネットで流行ってたんです」

「知って……る……」

「四匹目までが分かれば、最後の一匹も分かりますよね。それに、最後の動物は捨てないんですよ。だって、一番大切な物だから」

 あっ、と二階堂は声を上げた。

 そうか、そういう事か。五匹という表面上の数字に囚われていた。枩葉は五人殺すつもりではなかった。最初から生贄は四人のつもりだったのだ。

 理解出来た――

 脳裏で納得が弾けたと同時に、もう一つ、ずっと心に引っ掛かっていた榊原医師の言った事も自ずと理解に至った。猟奇殺人犯はたいてい遺体に恋着する。それなのに枩葉の場合は遺体には愛着が無いと医師は言った。それはそうだ。あの場にあった物はすべて枩葉が捨てた物だったのだ。儀式に利用した生贄も、道具も、それぞれの事柄を象徴する水晶の動物も、すべて……

「僕が何を大切にしているのか、どうしても先生に伝えたかったんです」

 三嶋和臣の側には馬が、鵜辺野遼の側には牛が、高塚栄治の側には猿が、大江裕太の側には羊が捨てられていた。地位、財産、子供、恋人の順だ。

 枩葉が最後に残したのは虎。

 一番大切なのはプライドか――

「君が、三嶋にされた事を知っている」

 びくっ、と枩葉は全身を震わせた。レイプされた事を知っている――そう言われて冷静でいられる人間なんていないだろう。枩葉も当たり前に動揺しているようだった。呼吸が浅くなり、手が小刻みに震えている。

「三嶋を殺した気持ちは分かる。君は酷い目に遭わされていた。同情する。俺だって、あんな目に遭わされたら相手を殺すかもしれない」

「やめろ!」

「だが、どうして三嶋以外の無関係の人も殺したんだ。彼らに罪は無いだろう?」

「やめろって言ってるだろう!」

 激高して枩葉は立ち上がりかけたが、必死に自分を抑え込もうとしていた。

「別に、殺すのは誰でも良かったんだ。最初の被害者に和臣を選んだのは、俺があいつにされた事が理由じゃない。あいつが峰子さんを侮辱したからだ」

「峰子さん? 園部峰子さんの事か?」

 ハッ、と言わねばならない事に気が付く。

「峰子さんはおまえが本物の孫じゃない事を知っていたぞ」

 え、と枩葉は身を固くした。

「どうして……?」

 米原さんが言ったんですか、と口籠り、枩葉はおどおどと視線を巡らせた。

「違う。そうじゃない。米原さんは最後まで秘密を守っていた。峰子さんは、おまえと米原さん、二人の優しい嘘に気付いていて騙されたふりをしていたんだよ。それが峰子さんの優しさだったんだ。峰子さんは、何時からかは分からないが、おまえが和臣を殺した事にも気付いていた。気付いていて、それでも尚、何があろうとあの子は自分の孫だと言った。優しい子が人殺しをするまでに追い詰められた理由があるはずだ、あの子も苦しかったはずだとまで彼女は言ったんだ。分かるか? 峰子さんは、おまえを本当の孫よりも大切に思っていた。おまえを無条件に受け入れ、愛していたんだ」

 枩葉の唇が震える。

「そんな事、嘘だ……」

「嘘じゃない。和臣を殺しさえしなければ、手を汚す前に峰子さんに相談していれば、助けを求めていれば、おまえはずっと峰子さんの孫でいられたんだよ」

「嘘だ――ッ!」

 バッ、と枩葉は救いを求めるように兵藤の方へ顔を向けた。兵藤は黙っていた。無表情で、縛られた姿で、ただじっとしているだけだった。瞬きすらしない。だが、それで充分だった。まるで水面が凍るように、枩葉は冷静さを取り戻した。

「やっぱり嘘だ。あなたは嘘を付いている。味方は誰もいない。峰子さんは俺を助けてはくれない。俺は四人も殺した。もう逃げられない。捕まったら死刑になる。どうしようもない。何もかも独りで片付けるしかない。独りで背負うしかない」

 枩葉はロープとサバイバルナイフを取り出した。

「ごめんなさい。もう、死んで頂いても良いですか?」

「良いわけ……あるかっ……」

 ドラッグでほとんど意識が飛んでいた。だから理性の箍が緩んでいたのだと思う。二階堂は、逃げれば山名を殺すと脅されていた事を忘れて、逃げようとした。

 冗談じゃない。こんな場所で、こんな風に殺されるなんてバカバカしい。だいたい四人で十分だったはずだろう。俺を殺す必要なんか無いじゃないか。

 ふらつく体で必死に立ち上がり、悪態を付きながら歩く。

「しょうがないな。お姉さん、立ってください。人質に一緒に来てもらわなきゃダメだ。刑事さん、思い出してください。逃げたら女を殺すって言っただろう?」

「い、嫌……」

 枩葉は山名の腕を掴んで立たせ、さっきロープと一緒にカバンから取り出したサバイバルナイフで脅して歩かせた。彼女を盾にするような格好で二階堂の後を追って来る。

 最悪だった。

 視界がグラグラと揺れて、歪み、うねり始める。

「ねえ、刑事さん、そんなフラフラで、逃げられると思ってるんですか?」

 何度もよろめき、躓き、崩れ落ちた。

 平衡感覚が無い。

 ズルズルと壁に体を押し付けながら廊下を進み、襖を見付け、指を掛け、引っ搔くようにして開き、その部屋に転がり込んだ。文字通り転がってしまい、芋虫のように這って奥へ進む。何も無い駄々っ広い和室だった。畳の上に絨毯が敷かれている以外は、一切の家具が無い。昨日、兵藤が言っていた使っていない部屋なのだろう。埃が無いのが奇妙だったが、特に気に留めず、部屋の最奥の一段高くなった場所まで逃げる。まったく無駄に豪華な邸だ。まるで、江戸時代のお殿様が座る場所のようだ。

 二階堂は喘いで仰向けに倒れた。

 襖が乱暴に全開にされ、山名の背中を押した枩葉も部屋に入って来た。照明のスイッチが入れられ、強烈な眩しさで、眼球の奥に焼かれるような痛みが走る。二階堂は両目を押さえて酷い呻き声を上げた。

「刑事さんが言う事を聞いてくれなかったので、この人を殺します」

「待て……枩葉……やめ……」

 四人でやり遂げたんじゃなかったのか。五人目以降は殺す必要が無いはずだ。彼女も俺も殺される意味が無い。やめろ――と怒鳴りたかったが、もう体が動かなかった。

「もう、殺す必要、無い……」

「すいません」

 枩葉は丁寧に山名に謝った。ぶつかってしまってごめんなさい、とでも言うように。

「本当は女の人は殺したくなかったんですけど、あなたを殺して、命令に逆らった悪い刑事さんを懲らしめなきゃ。すぐに刑事さんも殺しますから許してくださいね」

「やめてっ! お願い殺さないで――っ!」

「ま、待て……分か……逃げて悪か……」

 山名を助けようと手を伸ばそうとしたが、ピクリとも腕が動かなかった。

 枩葉は山名の首筋にサバイバルナイフを当てる。

 もうダメだ――と観念しかけた時、いつの間にか部屋の入口に立っていた兵藤が、支配者然とした鋭い声で枩葉を叱責した。

「龍之介――!」

 枩葉は鞭で打たれたように動きを止める。

「私に迷惑をかけるな」

 飼い主に叱られて尻尾を垂れる犬のように、枩葉は全身の力を抜いた。兵藤は戒められてはいなかった。彼の手足を縛っていたはずのロープはどこにも無く、超然と、絶対君主のような威厳を纏って立っていた。

「先生……」

 惚けたように呟いて、枩葉は初めて自分の居る部屋を見回した。

 豪華な和室だ。壁が青い。ああ、そうか。漆喰に藍が混ぜられているのだ。

 視線を床に向けた。世界を閉じ込めたような青い絨毯が敷かれていた。

 藍色の部屋だ。

 何度も読んだ『黄金の林檎』に出て来た藍色の部屋――

 ここが、そうだったのだ。


   ***


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