憤怒 wrath_08

 枩葉は一方で清らかな聖女にも思いを馳せた。

 あの日、峰子は白い花が咲くように微笑んだ。

「よく来てくれたわね」

 ああ、来てよかった──と思った瞬間、予想もしなかった言葉が続けて鼓膜を打った。

「和くん」

 和くん……?

 和くんとは、まさか、あの和臣のことか……?

 そんな……俺が、三嶋和臣だと思われている。

「あの、俺……」

 違う――と言いかけた時、家政婦の米原さんが鋭くかぶりを振った。

 ダメだ、本当のことは言うな、と。

 米原さんは悲痛な表情とは裏腹に陽気で軽快な声を出した。

「奥様は坊ちゃんに嫌われていると思い込んでいたんですよ。でも、こうして遊びにいらしてくれたということは、奥様が勘違いをしていたということになりますわね」

「いやだわ、良江ちゃん。そんなこと言わないで。恥ずかしいじゃない」

 峰子さんは本当に嬉しそうに笑っていた。木漏れ日が弾けるように。

「それにしても坊ちゃま、十五年振りですね。中学校へ進学する時に引っ越して行かれてから一度も顔を見せて下さらなかったんですもの。ビックリしましたよ。見違えるように大きくなられて……」

 米原さんの目は必死だった。合わせてくれ、嘘をついてくれ、と。

「ごめんね、お祖母ちゃん。ずっと来られなくて」

 そう言ったら、米原さんはホッとしたように全身の力を抜いて、それから深々とお辞儀をした。ありがとう、と聞こえない声で言われた気がする。峰子さんの視力を失った目には、俺たちの言外のやり取りは見えていなかった。峰子さんの目の前で、俺と米原さんはジェスチャーで「嘘をつく」という打ち合わせをしていた。誰かがあの場に居合わせたら、ずいぶん奇妙な三人だと笑ったか、それとも、目の見えない老婦人を騙すなんてと憤ったのではないだろうか……

 とにかく俺たちは峰子さんをガッカリさせたくなかった。最初は、本当に、ただそれだけの事だったんだ。

 小一時間、他愛の無いお喋りに付き合い、また来ます、と言って席を立った。

 米原さんは手土産を渡し忘れたふりで、林檎の沢山入った紙袋を手に、門の外まで追って来た。そこでやっと腹を割って話し合えた。

 米原さんは、峰子さんの事情を詳しく説明してくれた。実の峰子さんのひとり息子が亡くなってすぐ、冷たい嫁と孫は三鷹の邸を出て行き、以来、一度も、失明しても尚、訪ねて来ずに峰子さんは捨て置かれている。財産があり家政婦の米原もいるから生活には困らないとは言っても、峰子さんの血縁者はもう孫の和臣ただ一人なのに……

 血の繋がった身内が居るのに会えないというのは、どんな気持ちなのだろう。血の繋がった身内との思い出を持たない枩葉でさえも、時々、家族がいたら……と胸が締め付けられるように苦しくなる。ましてや峰子には元気に生きている孫がいるのに、その孫が十年以上一度も顔を見せないのだ。緑内障を患い視力を失っても、ただの一度も、心配して見舞いに来るという事が無い。園部峰子は、それほど蔑ろにされるような人ではない。峰子に非があるわけがない。現に長年仕えた米原には家族以上に慕われ、近所の人達からも尊敬を受けている。穏やかで優しい、本物の善い人だ。ただ、嫁と孫は自分の生活を優先するドライで自分勝手な人間なだけで……

 その孤独を思うと鼻の奥がつんと痛くなった。

「龍ちゃん、こんなことを頼むのは酷だと分かっているけど、それでも、ずっと和臣さんが来てくれるのを待っていた奥様の気持ちを考えると……」

「分かっています。養護施設の子だった龍之介が来るより、孫の和臣が来た方が良いってことですよね」

 精一杯笑って頷いたら、米原さんは申し訳なさそうに顔を歪め、その場に膝を突き両手を揃えて土下座した。

「お願いします。奥様を惨めにさせないでちょうだい」

 惨めにさせたいわけがない。あんな優しい人を惨めにさせたいわけがない。

「やめてください、米原さん。立って。汚れてしまいます」

 米原さんの手を取り、立たたせて、膝の汚れを叩いて払ってあげる。

「米原さんと俺は同志です。峰子さんに笑っていて欲しい。その為なら嘘を付くくらい良いんじゃないでしょうか。和臣は来ないんでしょう?」

 あいつの性格は分かっていた。子供の頃から自分勝手で、得にならない事や、面白いと思えない事は何ひとつしない冷酷な奴だ。

「龍ちゃん……」

「俺、何も言いません。それでいいんですよね」

 米原さんは、わっと泣き出した。

 どれほど悪い結果に終わったことでも、それがはじめられたそもそもの動機は善意によるものであった――

 先生がエッセイで引用していた偉人の言葉を思い出した。確か、カエサルの言葉だったはずだ。内乱記の一節だったか。

 良かれと思って、自分の本当の名前を名乗らなかった。愛され求められている他の人間になり替わろうとしてしまった。あの瞬間に運命は決まったんだと思う。


   ***


「泣くのはやめなさい」

 しばらく後の奇跡の日、先生は穏やかな声で諭すように言った。

「つまり君は、そのご婦人が侮辱されて傷付くことを恐れているというわけだね」

 分からない……と言いかけて思い直した。そうかもしれない。今まで言葉でうまく説明できなかったけれど、先生が言うなら、そうなんだろう。

 峰子さんは侮辱されてはならない。

「最も確実な方法は、三嶋和臣を殺してしまうことだね」

 え、と小さな反駁の声を上げてしまった。そんな事をしたら、孫を殺された峰子さんはショックを受けて悲しむ。ものすごく傷付いてしまう。

 それを伝えたら、先生は黙って目を閉じ、首を横に振った。

「これが最善だ。むしろ、他に方法は無いと言ってもいい」

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