憤怒 wrath_02

 二件目以降の被害者が、いずれも新宿で殺害された事、犯人は新宿二丁目のゲイタウンを狩場にしている事、隠れ家であった自宅は警察に露見し戻れない事、人混みに紛れやすい事などから、犯人は今も新宿に潜んでいるだろうという見方が出され、新宿区内の緊急配備と、目撃情報を求めての周辺住民への聞き込みローラー作戦が実行された。

 そんな硬直した捜査本部の方針に、二階堂は疑問を感じた。

 だから無理を押して早瀬管理官に、自分と晴翔のペアのみローラー作戦を外れての独自捜査の許可をせがんだのだ。全員一丸となって臨まなければならないというムードの中、二階堂の要求はかなりの反感と反発を生む。

 滝川は噛み付きそうな勢いで二階堂を面罵したが、早瀬管理官と唐尾係長、堅城らに説得され、結局は折れた。

「好きにしろ。ただしミスは犯すなよ。もう坊ちゃんの尻拭いはごめんだ」

「肝に銘じます」

 二階堂は、もう一度、園部峰子に会ってみようと心に決めていた。

 最初の被害者、三嶋和臣の祖母ではあったが、枩葉を匿っていそうな人物は他に考えられなかった。枩葉が死ぬ前に会いたいと思うであろう相手も……

 二〇一六年、十一月八日。午後三時。

 以前に訪ねた時と同じように、家政婦の米原に気さくな態度で客間に通され、彼女が紅茶を淹れにキッチンへ立った隙を狙って、部屋の奥の安楽椅子におっとりした様子で腰掛けている峰子に、二階堂は単刀直入に切り出した。

「枩葉龍之介を知りませんか?」

 ぴくり、と峰子は瞼を震わせた。

 二階堂は確信した。

 園部峰子は枩葉を知っている――

 隣に座っている晴翔も視線を合わせて強く頷く。

「彼は現在、ある事件の重要参考人として指名手配されています」

 黄金の林檎連続猟奇殺人事件――ニュースが一斉に報じているので、峰子もとっくに知っているだろうとは思ったが、その下卑た俗称を、この清廉で美しい老婦人の前で口にする事は憚られた。それでも、伝えるべき事は伝えねばならない。

「皮肉なことに、あなたが八月二十一日に和臣さんが訪ねて来たと証言した事が、真犯人に辿り着く突破口になりました」

 峰子の顔色は変わらない。しかし、重い苦悩は感じ取れた。

「推理を聞いてください」

 二階堂が言うと、峰子はふわりと微笑んだ。

「どうぞ。聞かせてごらんなさい」

「最初にあなたに事情聴取をした刑事は、開口一番、最近三嶋和臣は来なかったか、と訊ねたのではありませんか?」

 ほんの僅か、峰子は逡巡する様子で黙り込んだが、吹っ切れた顏で頷いた。

「ええ、そうですよ。よく分かりましたね」

 二階堂は自分の推理が当たっていた事に微かな悲しみを感じた。

「犯罪被害者の遺族に、お身内が亡くなった件を伝えるのは嫌なものです。なるべく先延ばしにしたいと思うのが人情です。ですから、亡くなった事を伝えるより先に、三嶋和臣の訪問の有無を訊ねたとしても不自然ではありません。話の端緒にしようとしたのでしょう。その刑事の気持ちは十分理解できます」

「ええ、理解できますね」

「そして、あなたは事件を知らなかったから、うっかり、八月二十一日に孫が来た、と答えてしまったのですね」

「ええ、それもあなたの言う通りです」

「三嶋和臣が何者かに殺害されたと知らされたのは、三嶋の訪問の有無を訊ねる質問の後だったはずです。あなたはその瞬間、枩葉が和臣さん殺害に関与していると察したのではありませんか。そして枩葉を庇おうと決心した。だから、それ以後は事態を理解していないふりをして、認知症を患っていると我々に思い込ませて、枩葉龍之介に捜査の目が向かないよう偽証していたんですね?」

 息が詰まるような沈黙だった。

「ずっと、枩葉が連続猟奇殺人犯だと知っていたのですね?」

 ガシャンと何かが砕ける音がした。

「刑事さん、何て事をおっしゃるんですか。奥様は何も御存知ありません!」

 米原が客間の入口に立っていた。足元には四人分のティーカップが砕けて、湯気を立てた紅茶が広がって行く。熱い紅茶が足に掛かった事も構わず、米原はぶるぶると震えて、その場に仁王立ちしていた。

 状況を察したのか、峰子は米原の方へ顔を向け、穏やかな声で言った。

「いいのよ、良江ちゃん。わたくし、本当はみんな知っていたのよ。だから良いの。もう無理しなくて良いのよ。ずっと我慢させてごめんなさいね」

「奥様……」

「それより、ティーカップを割ってしまったのね。怪我はしなかった?」

「怪我なんて……ええ、ええ、大丈夫です」

「そう、良かった。わたくしの事は構いませんから、そこを片付けて頂戴」

 米原は今にも倒れそうな様子で身を震わせていたが、やがて諦めたように頷いた。

「はい、奥様……」

 しおらしく頭を下げた米原は、キッチンから掃除道具を持って来て、陶器の欠片を拾い集め、濡れた床を拭き始める。黙々と作業する彼女を横目に、二階堂は自分が酷く残酷な男になったような気分で、峰子への尋問を続けた。

「どうして最初に捜査員に聞かれた時、孫は来なかったと答えなかったんですか? 毎週のように訪ねてくる孫が偽物だと知らなかったわけではなさそうですよね。正体は枩葉だと知っていたのでしょう? あなたが、もしも最初に、孫は来なかった、と答えていたら、我々は枩葉には辿り着けませんでした。どうして一番最初に嘘をついたんです?」

 二階堂は分かっていて敢えて訪ねた。園部峰子は、おそらく、枩葉がこの邸を訪れ続けた二年うち、早い段階から、訪ねて来ている人物が孫の三嶋和臣のふりをした枩葉龍之介だと気付いていたのではないか。和臣が殺害された事を伝えに捜査員が峰子のもとを訪れた際には、すでに彼が本物の孫ではないと分かっていたはずだ。

 状況から察するに、たぶん、孤独な境遇で視力まで失ってしまった気の毒な峰子を慰める為に、枩葉と米原が最初に「孫が訪ねて来た」と嘘をついたのであろう。峰子は優しい嘘に騙されているふりをしなければならなかった。だから峰子は、捜査員が訪ねてきた時も、米原の前では「孫は来た」と言わざるを得なかった。

 思い遣りが嘘つかせたのだ。

 もしかしたら、警察が来た事で何か拙い事態が起こっていると直感し、咄嗟に枩葉を庇おうとしたのかもしれない。「あの子はうちに居た」と。それが、裏目に出た──

 愛情深い老いた聖女は、最初の一手でミスを犯したのだ。

 ああ、と峰子は花が零れるような溜息をついた。

「わたくしは本当の事を言っただけですよ。わたくしには、美味しいタルト・タタンを持って毎週のように訪ねて来てくれる優しい孫がいたんです」

 ああ、とまた花が散る。

「枩葉龍之介なんて知りません。あの子は私の孫ですよ。他の何者でもありません」

 透明な儚い花が散って、悲しみだけがキラキラと輝く。

「コップに汲んだ綺麗な水に墨汁を一滴垂らしたら、もうその水は飲めないと思う?」

 園部峰子は潔く顔を上げた。

「わたくしは飲みますよ」

 キッ、と盲いた瞳で射抜かれて、二階堂は敗北する。

「あの子が差し出すのなら、たとえ真っ黒な墨汁でも、わたくしは飲みます」

「それほど松葉のことを……」

「事情は知りません。でもね、何も聞かなくても分かります。そこまで追い詰められたなりの事情があったのでしょう。わたくしはあの子の優しさを知っています。何の理由も無く人殺しなんてするわけはないのよ。死ぬほど苦しかったはずですよ。あの子は、わたくしの孫です。苦しいのを我慢して、ずっとそう接してくれていたのだから、今さら孫でなくなるわけがないのよ。何があろうと、あの子は、わたくしの孫です」

 すべて分かっていてこその、今までの言動だったのだ。

 園部峰子は認知症を患った狂女ではなかった。慈悲深い聖女だった。

「わたくしを逮捕するならなさい。あの子を庇って罪に問われるなら本望です」


   ***


 玄関を出たところで晴翔がぴたりと歩を止めた。何事かと晴翔の視線の先を見ると、西洋風の頑丈な鉄門の前で、家政婦の米原が両手を広げ二人の行く手を塞いでいた。

 鬼のような形相でこちらを睨み付けている。

「奥様を逮捕するんですか?」

「米原さん、誤解です」

「私が悪いんです。奥様は悪くない。私がバカだったんです。何も考えずに、あの子に嘘を付くよう頼んだから、和臣さんに知られて、それで、こんな恐ろしい事になってしまったんです。逮捕するなら私を逮捕してください」

 興奮する米原の両腕を取り押さえ、落ち着かせようと二階堂は汗をかいた。

「米原さん、どういう事ですか? 詳しく話してください!」

「私が悪いんです。私が……だから、奥様ではなく私を逮捕して頂戴!」

「米原さん、しっかりしてください。峰子さんも、あなたも、逮捕なんてしません。だから気をしっかり持って、きちんと話してください」

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