憤怒 wrath_03
うう、と嗚咽を漏らし米原は腕の力を抜いた。
「和臣は人でなしです」
思わずぎくりとするような暗い憎悪の籠った声だった。明るく呑気なイメージだった住み込み家政婦の米原とは、まるで別人のような……
「子供の頃からそうでした。冷たい性根で、思い遣りなんてものは少しも無い、あんな悪魔のような子は他に見た事ありません。母親と二人、勝手に出て行ったきり、旦那様が交通事故で亡くなった時も、お葬式にすら顔を出さず、十五年も奥様を放って置いたんですよ。三年前、奥様が視力を失われた時、私は意を決して広尾の家へ伺いました。奥様は目が不自由になってしまわれたのでお見舞いに来てくださいと、ただそれだけをお願いしたのに、あいつは、自分には関係無いと笑って取り合ってくれなかった」
目に浮かぶような気がした。あの動画の――泣いて許しを請う枩葉を残虐に凌辱する三嶋の姿を知っていれば、さもありなんと思える。
「龍ちゃんが来たのは、それから少し経ったお正月の事でした。あの子が育った養護施設は近所でしたからね。施設長の須貝さんから聞いたと言ってました。奥様に龍ちゃんを引き合わせる時……私が悪いんです……久しぶりに可愛い子が遊びに来てくれましたよ、と言ってしまった。奥様はずっと孫に会いたいと思っていらっしゃったのに。奥様は勘違いなさったんです」
「あなたと枩葉は峰子さんの勘違いを正そうとしなかったという事ですか?」
「あんなに嬉しそうな奥様の顏、十五年前に家族がいなくなってしまって以来、初めて見ました。言えなかった」
二階堂も晴翔も掛ける言葉を失い黙り込んだ。言えないという気持ち、嫌と言うほど理解できる。
「龍ちゃんには私が頼みました。和臣のふりをしてくれ、と。龍ちゃんは快く引き受けてくれました。奥様が悲しむ顔は見たくないと言って……」
米原は過ぎた過去を懐かしみ、悲しく微笑んだ。
「幸せでした。みんな、仲良く笑っていられました」
ぽたりと地面に涙が落ちる。
「あの日、どうして和臣が来たのか分かりません。私は、帰ってください、と土下座してお願いしました。だって、もう龍ちゃんが奥様の孫になっていましたから。龍ちゃんは本物の孫以上に奥様を大切にしてくれていたんです。奥様を捨てた本物の孫が今更現れても奥様は悲しむだけだと思いました。だって、あいつは、奥様の目が見えなくなったと伝えた時、嘲笑ったんですよ」
雨が降り始めたように、ぽつぽつと地面に染みが広がる。
「私が和臣と揉み合っていたら、龍ちゃんが来て、和臣をどこかへ連れて行ってくれました。翌日の夜、龍ちゃんは蒼い顔をしてお邸に来ました。あいつの事は俺が片付けたからもう大丈夫だよって優しく言ってくれました」
手が戦慄く。
「あいつが、龍ちゃんを虐めて……」
米原は両手で顔を覆ってなりふり構わず号泣した。
「悪いのは、あいつです。あいつと、龍ちゃんに嘘をつかせた私なんです」
***
二〇一六年、十一月八日。午後四時半。
駅までの道を歩きながら、二階堂と晴翔はこれからどうするか迷っていた。峰子と米原の告白に動揺していたし、園部邸に枩葉が匿われていると思い込んでいただけに、当てが外れて進退窮まってもいた。我儘を通して収穫無しでは立つ瀬が無い。
「参ったな。絶体絶命だ。こんな窮状におまえまで巻き込んですまん……」
二階堂はほんの少し前に破り捨てた辞表を、かつてないほど強く意識していた。あれはやはり必要だったのではないかと……
「二階堂さん……」
視界の端をかすめた物があり、見るともなしに視線を回すと、赤く色づいた落ち葉が風に吹かれて舗道のアスファルトの上を渡って行く。随分肌寒くなった。最初の被害者、三嶋和臣が殺害された時は、まだ酷暑の八月で、捜査中、ずっと強い日差しに灼かれていたのに……
空が茜色に染まり暮れていく。あっという間に夜になるだろう。
もうグズグズしている余裕は無い。早く枩葉を確保しなければ。彼が自ら命を絶つような事があれば、捜査一課八係の恥になる。延いては早瀬あずさの……
二階堂の煩悶を知ってか知らずか、晴翔は空気に合わない呑気な声を出した。
「まあ、しかし、完敗でしたね、二階堂さん」
「完敗?」
「峰子さんにですよ。ただの綺麗で優しいお婆様かと思っていたら、ああも肝が据わっていらっしゃるとは……二階堂さん、完全に迫力負けしてました」
「まったくだ……」
情けな過ぎて溜息が出る。
「だが、あの家に枩葉は居ないという事だけは確信できたよ」
「ですね。園部峰子が意地悪な刑事にあんなに虐められていたら、黙って隠れていられる性格じゃないですよね、枩葉は」
「おまえね……」
じとっと恨みがましい半眼で睨んでみるが、晴翔はどこ吹く風で話題を変えた。
「もう一人、枩葉が頼りそうな人、知ってますよ」
「本当かッ!?」
がばっと二階堂は晴翔の両腕を鷲掴みにしてしまった。期待に満ち満ちた目で回答を待つ。だが、晴翔の答えは拍子抜けするものだった。
「兵藤静香です」
たっぷり五秒はアホ面で口を開けてしまう。
「それはさすがに無いんじゃないか……」
昨日、兵藤邸を訪問した際のマスコミの包囲網を思い出す。猛烈なフラッシュ攻撃だった。あんな中を、誰にも見られずに邸に入れるわけがない。不可能だ。
「いえ、それしか無いと思います。枩葉が執着していた人物は二人だけです。園部峰子に対しては純粋な愛情しか向けていなかったようですが、兵藤静香に対してはもっと複雑な感情を抱いている気がします。会ってくれとせがんだり、遺体の写真を郵便受けに投げ込んだり、困らせるような事もしていますから」
「つまり?」
「押し掛けているつもりで、頼っているかも知れません」
押し掛けるつもりで頼る? いまいち腑に落ちないが、そういう心理もあるという事だろうか。迷惑を掛けている相手に対しては、実は無自覚に甘えて頼っているとか……
「だが、マスコミの目がある。隠れて中に入る事は不可能だろ」
「それに関しては思い当たる事があります。時間がありません。後でゆっくり説明しますから、今はともかく、枩葉が兵藤邸に居るという可能性に賭けてみませんか?」
晴翔は目に強い光を宿らせていた。信念の光だ。それでも二階堂は迷う。
「そうは言うが、あの先生が他人を庇うかね?」
「庇わないでしょう。でも、好奇心には逆らえないはずです。サイコパスは徹底して自分の欲望に忠実です。連続猟奇殺人事件の詳細を、犯人が直接語るとしたら?」
二階堂は、しばし眉間に皺を寄せて考えた。
「確かに、あの先生なら涎を垂らして喜びそうだな」
「でしょ?」
「よし、当たって砕けろだ。兵藤静香の邸へ向かおう――」
***
些細な会話だった。
テーブルに並べられた初めて見る料理が綺麗過ぎて、食べ方が分からなかったせいかもしれない。掛け軸が飾られた旅館のような個室で、仲居のような和装の女性が接客をしてくれた。世の中には、静かで清潔な空間で、こんな風に贅沢に食事をする人が居るのだと驚いた。空腹を満たす為ではなく、楽しむ為に。
癖の無い日本酒を初めて飲んだ。香りがほのかで林檎に似ている。
何もかもがあまりに美しくて涙が出そうだった。
先生は、この完璧な絵のような世界の中で、惨めったらしく浮いている俺をどう思っているのだろうか。箸もろくに使えない。躾を受けていないから、立派である為に必要な事は何ひとつ教えられていないから。
なんだか悲しくなって、子供っぽい事を言った。
「先生、少し前に流行った心理テスト、知ってますか?」
「どんなテストかな?」
「貴方は牛・馬・羊・猿・虎を連れて草原を旅しています。しかし、食料が乏しくなってきたので、一頭ずつ手放していくことにしました。どれから手放しますか?」
手放すのが早いほど重視していないもの。後に残すほど大事なもの。
牛は財産。
馬は地位。
羊は恋人。
猿は子供。
虎はプライド。
先生の答えは、猿・羊・馬・虎・牛の順だった。
「先生は財産が一番大事なんですね。意外です」
「僕は普通の人間だからね。思い入れのある宝物を大切にしてしまうんだ。財産の中には二度と手に入らない貴重な物もあるからね」
「俺は違います。どうせ貴重な物なんて持ってないし、どうでもいいです」
失礼な事を言ってしまったのに、先生は気分を害した風でもなく、優しい声で言った。
「じゃあ、君はどういう順番で捨てるの?」
「どういう順番で……捨てる……?」
俺は、その時、すぐには答えられなかった。決められなかった。いつだってそうだ。何もかも、正しい時に決められない。
ずいぶん考えてから、馬・牛・猿・羊・虎の順で捨てるだろうと答えが出た。
でも、その時には先生は「もう会わない」と言った。
どんなに「会って欲しい」と頼んでもダメだった。
俺が先生の望む事を果たしていなかったからだ。
どうしても会いたかったので、先生の望む通りにする事にした。
でも、ただ言いなりになるだけじゃつまらない。
先生を楽しませないと……
それで、自分の答えを殺人事件のニュースにして伝えようと考え付いた。
先生は驚くだろう。楽しんでくれるだろう。
そうしたら、気が変わるかもしれない。
気が変わって、また、俺と会ってくれるかもしれない。
***
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます