【第五章/憤怒 wrath】

憤怒 wrath_01

 二〇一六年、十一月八日。午前十時二十五分。

 四件目の猟奇殺人が発覚した。被害者は大江裕太。新宿区の総合病院で働くレントゲン技師だった。三十一歳。離婚歴があるが子供はいない。十一月五日の遅番から無断欠勤しており、連絡が付かない事を心配した同僚が、被害者の住居を訪ねて異臭に気付き通報した。

 初めて、ラブホテルではない場所で、胸に黄金の林檎を詰め込まれた猟奇殺人が起こったという事だ。胸骨と心臓が取り出され、ベッドは血の海になっていた。

 現場に置かれていたのは水晶の羊。

「どういう事だ? なんでまた林檎の事件が起きてんだよ?」

 一報を聞いた滝川は、犯人を取り逃がした二階堂に詰め寄り、襟首を掴んで殴りつけようとした。晴翔が飛びついて滝川の暴挙を止める。

「滝川さん、八つ当たりなんて無意味でしょ。やめてくださいよ」

「そうだよ、滝川さん。二階堂主任を殴っても、俺達の失態は消えないぜ」

 二階堂に絡む急先鋒だった堅城にまでたしなめられ、滝川は舌打ちをして二階堂の喉元から手を離した。

 遺体発見現場は酷い臭いだった。最初に到着した捜査員は窓を開けて小蠅を追い出す作業をしなければならなかった。鑑識は証拠の採集を終えていたが、殺虫剤の類はまだ撒くなと口を酸っぱくして言われる。換気してもキツイ臭いは和らがず、吐き気を覚えて部屋を出る者は後を絶たなかった。

 さすがに全員に防塵マスクが配られた。腐乱死体の体内で増殖した細菌やウイルスが空気中に漂っており暴露によって感染する危険もあるのだが、旧態依然とした体質の警察組織はそう言った面に無神経で安全対策が徹底されていない。腐臭がキツイから配られたに過ぎないのは問題だと思うが、二階堂はその件を考えるのはやめた。捜査以外の事はもうどうでもいい。二の次だ。

「待ってたよ」

 鑑識課の百道に案内され、遺体の置かれた寝室に向かう。

 遺体は腐乱が始まっており、切り裂かれた胸部の断面は赤黒く変色し、所々は毒々しい緑や灰紫になっていた。それとて小さなクリーム色の蛆がびっしりとたかっていて判別が困難だった。心臓は完全に腐って溶け始めていたが、その横に置かれた胸骨は心臓とは対照的に乾き切っている。こびり付いていた肉片は汚らしい茶色になっていた。シーツの染みも濃い茶褐色に変わってしまっている。寝具は血液と腐液でぐっしょりと湿り、フローリングの床に流れ出た液体の一部は乾いて膜になり縁が薄くめくれあがっていた。

 ラッカーでコーティングされた黄金の林檎だけが原型をとどめている。

 監察医の榊原医師が防塵マスクを着けてしゃがみ込み、ピンセットで蛆を取り除けながら遺体の状態をチェックしていた。

「死後四日は経過しているね。蛆が多くて見え難いが角膜は完全に濁っている。腐敗水泡に見事な血管網。死後硬直は完全に解けているし、内臓の腐敗も進行しているな。まったく酷い腐臭だ」

「死後四日……?」

 フッ、と緊張が軽くなった。死後四日……四日前、それなら……

「死亡推定時刻は十一月四日夜から五日未明にかけて、かな。遅くとも五日の夕方までには死んでる。もっと前になることはあっても、後になる事はない」

「じゃあ、俺達が枩葉を取り逃がす前日までには犯行を終えていたって事ですね」

「ああ、あんた達が犯人を逃がした後の犯行じゃあないよ」

 二階堂は思わずホッと安堵の溜息を零してしまい、不謹慎だと身を引き締めた。

「なんとか警察の面子は保たれたな」

「そうは考えないようにします」

「固いな、君は」

 鑑識課の百道がキッチンを指差して言う。

「アブサンとチョコレートが置いてあったよ。瓶にはべったり指紋が付着していたし、チョコレートの包み紙には、枩葉が勤めていたカフェのロゴがプリントされてる」

 百道が指示した遺留品を見た二階堂は、意外の念に囚われた。

「妙ですね。これまではろくな証拠が出なかったのに」

「もう捕まってもいいと思っていたんじゃないか」

 何気ない調子で呟いた榊原医師に、その場にいた全員が視線を集めた。

「この被害者を殺害した時点では、枩葉は自分が捜査対象になっていた事は、まだ知らなかったはずですよね」

 晴翔はモッズコートのポケットからメモ用の手帳を引っ張り出した。

「犯行が十一月五日の日中ならギリギリだ」

「でも、四日の夜なら、誰も枩葉の存在には気付いていなかった」

 二階堂が養護施設に電話をかけてしまったのは、確か、五日の夕方だったと思う。

「十一月五日、枩葉龍之介は午前十時から午後八時まで例のカフェで勤務しています。仕事中に抜け出して犯行に及ぶのは難しいのでは?」

 ふうむ、と榊原医師は顎を撫でた。

「研究室に持ち帰って詳しく検査してみないと分からんが、ほぼ四日の夜に殺害されたと見て間違いないと思うぞ」

「じゃあ、まだ捜査線上に自分が浮かんだ事は知らなかったという事ですね」

「それでも、この犯人は、この仏さんを殺した後、この部屋を出ていく時には、もう捕まってもいいと思っていたんだろう。だから、証拠を残して行った」

「どうしてでしょうか?」

 腕を組み壁にもたれた百道が面倒臭そうにぼそっと吐き出す。

「四人も殺して疲れたんだろう」

「いや、目的を終えたんじゃないか?」

 榊原医師がすかさず言った言葉に、その場の全員が驚いた。

「目的を終えた――ですか?」

 二階堂の視線を受けて、榊原医師は鷹揚に頷く。

「やり遂げたという事だろう。人間、もうどうなっても良いと思うのは、何かの区切りが付いた時と、絶望して諦めた時だけだよ」

「でも、まだ四人しか殺していませんよ――?」

 やり遂げた――そんなバカな! 五人殺すもつりではなかったのか? 心理テストの動物は五種、枩葉が園部峰子の元から持ち去った水晶の動物は五体。

 まだ一匹残っている――!

 二階堂の剣幕にも動じず、榊原医師は常識を唱えるように言った。

「遺体の様子を見る限り、丁寧に、これまでの三件と同じように過不足なく儀式が施されている。自暴自棄になって投げやりに作業をしたような乱れはないんだ。こんな繊細な仕事が出来る人間が諦めたとは思えない。だから、やり遂げたんだ」

 ドッと血の気が引いた。

「まさか、枩葉は自殺するつもりなんじゃ……」

 それならば計算が合う。最後の犠牲者は自分自身なのではないか?

「冗談じゃねえ!」

 堅城が気色ばんで怒声を上げる。

「逮捕する前に死なれちゃ、うちの恥だ!」

 二階堂も堅城と思いは同じだ。ここまで来て、被疑者死亡で送検する羽目にだけは陥りたくない。

「つくづく、誰かさんが枩葉を仕事場で取り逃がした事が悔やまれるな」

 滝川が陰険な当てつけを言い、堅城が「いい加減にしろ」と応じ、場は一触即発の雰囲気になった。晴翔がやんわりと取り成して、なんとか緊張は解けたが、二階堂は顔を上げられなかった。

 突っ立ってしょぼくれていたら、帰る間際の榊原医師に背中を思い切り叩かれた。

「しっかりせい。おまえさんが気張らんで誰が気張る?」

「すいません……」


   ***


 誰も見ていないテレビ画面には正午から同じニュースが繰り返し流れていた。

「黄金の林檎連続猟奇殺人事件の続報です。遂に四人目の被害者が出てしまいました。警察の発表によりますと、被害者は新宿在住の医療関係者だという事です。死後四日が経過しており、遺体は腐乱が進んだ状態で異臭がしたと近所の方が証言しています」

 何度目の使い回しか、殺害現場になったマンションが画面いっぱいに映し出される。どぎつい化粧の女性リポーターは緊迫した表情でわざとらしく息を切らせる。

「こちら殺害現場です。ブルーシートが張られ、建物の入口が見えないようになっています。遺体の搬出は終了したとのことですが、いまだ物々しい雰囲気に包まれています」

 物々しい雰囲気とは言うが、事件現場が見える歩道に集まっているのは、演技過剰のリポーターと、カメラやマイク等の撮影機材を構えたマスコミ関係者しかいない。

 スタジオでは、一時間毎に顔触れが入れ替わる無責任なコメンテイター達が、我先にと中身の無い意見を言い放ち、メインキャスターはお仕着せの煽りに徹する。

「ちょっと、これ、どういう事ですかね?」

「黄金の林檎連続猟奇殺人事件が、まだ続いているという事でしょう?」

「どうして警察発表が無かったんですか?」

「警察は、同じ手口で殺害されていたとしか発表していません」

「異常者による猟奇殺人事件なんですよ?」

「しかも連続犯ですよね。更に被害者が増えるという可能性は無いのですか?」

「警察が情報を隠していたのでは、と不信感が広がっています」

「容疑者はいったいどんな人物なんですか?」

「少しお待ちください。今、新宿署の記者会見の現場と中継繋がります」

 パッ、と画面は警視庁前の映像に切り替わる。一斉にフラッシュがたかれ、緊張した面持ちの若い女性警察官が捜査本部の発表を読み上げる。

「――されました。今、容疑者の情報が発表されました。容疑者は枩葉龍之介、二十七歳、武蔵市に住むアルバイトの調理師だという事です。犯人は枩葉龍之介です。連続猟奇殺人の犯人が判明しました。犯人は枩葉龍之介です。犯人は――」

 どぎつい化粧の女性リポーターが割り込み、耳障りな声を張り上げた。

「たった今、犯人は枩葉龍之介という男だと発表されました。容疑者は十一月六日の段階で全国に指名手配されていた模様です。なぜ、その時点で警察発表がなかったのでしょうか。現在も情報は錯綜しています。我々善良なる市民は警察の責任を問うべきではないでしょうか!」


   ***


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