色欲 lust_09
「辞表が必要になると思って……」
「辞表ですか?」
不謹慎にも幾分か甘い気分でいた二階堂は、話の飛躍に一瞬付いていけなかった。
「分かってるでしょう?」
「なぜです? 辞表なんて……」
この局面で、なぜ、誰かが辞めねばならなくなるのか理解できない。あずさは沈痛な面持ちで視線を伏せた。
「事件を、解決出来ていないからよ」
「まだ鵜辺野の事件は第一期期間内です。捜査員は全員が一丸となって」
「いいえ、それじゃダメなの!」
「早瀬管理官……」
「早期に犯人を逮捕できなかったせいで、猟奇殺人が繰り返されている。異常者が自由に社会を歩き回って罪を犯す事を許してしまっているのよ。その責任を誰かが取らなければ収まらないでしょう。でも、必要な辞表は私のものではないから……」
さすがにピンと来た。早瀬管理官は上層部から圧力をかけられているのだ。
「
「どういう事ですか?」
「また第一期期間内に被疑者を逮捕出来ず捜査本部を解散させたら、馘が必要になるという事。私が責任を取って辞めさせられるならまだしも、新宿署の刑事課長と堀田係長、それに、うちの唐尾係長が……上の言葉を借りれば、詰め腹を切らされます」
「そんな――」
二階堂は思わず声を荒げていた。
「ろくな手掛かりも無いんですよ」
敗北を認めるわけではないが、場所が悪過ぎる。市民の協力も得られない街で、秘密を抱えて黙り込む連中を相手に捜査しているのだ。進捗が遅いのは捜査員の責任ではない。どうする事もできない事情のせいではないか。何か幸運な偶然でも起こらない限り、三人の馘は確定したようなものだ。酷過ぎる。
「まだ時間はあります」
あずさは祈るような声で言った。祈りはたいてい届かない。二階堂はギリッと奥歯を噛み締めた。
「上に抗議します」
「ダメよ、二階堂君。そんな事をしたら、あなたまで処分されるかもしれない」
「しかし、管理官……」
「二階堂君、これは命令です」
当たり前のことだ。警察はそういう組織だ。秩序を乱す事など出来ない。
「ですが、それではあまりにも……」
「二階堂君、動揺しないで」
あずさの決意に満ちた声に、ハッと二階堂は顔を上げる。
「犯人を逮捕しましょう。犯人を逮捕しさえすればすべて解決します」
パンッ、としなやかに両肩を叩かれた。
「しっかりしなさい。あなた刑事でしょう」
二階堂は呆気に取られていた。こんな早瀬管理官は初めて見た。
「はい……」
二階堂は、最初の事件――三嶋和臣が殺害された事件の第一期期間捜査本部が、被疑者の特定にすら至らずに解散になった時期から常にスーツのうちポケットに入れている自らの辞表に思いを至らせ、無意識に胸に手を当てていた。今にして思えばコレは自己憐憫と自己陶酔の混ざった児戯のような行為だった。またも被疑者を挙げられなければ、刑事課長と堀田係長、それに唐尾係長は馘を飛ばされる。彼らだけが辞表を提出せざるを得ない崖っぷちに立たされているのだ。辞表を隠し持つという格好付けに甘えていた自分が恥ずかしくなった。しょせん、プライドを守る為の免罪符程度のモノだったのだ。
「こんなもの、破って捨てよう」
彼らに、詰め腹を切らせるわけにはいかない――
***
「二階堂さん」
背後から肩を叩かれ、ビクッと身を竦めてしまった。
「晴翔か、二度も脅かすな」
「早瀬管理官の感触はどうでした?」
「励まそうとしたら逆に励まされたよ。早瀬管理官はしっかりしてる。男の支えなんか無くてもやっていけそうな強い女性だよ。参った。完全に脈無しだな……」
「そんな事はないと思いますけどね」
まあ、逆に脈ありなんじゃないですか――と言った晴翔の声は、消沈する二階堂の耳には届いていなかった。
「しかし、これからどうする?」
「伊東さんが怪しいんですけど、どう考えても一件目はシロなんですよね」
「二件目と三件目はアリバイが無い」
「一件目をやれたという証拠を出さないと起訴出来ません」
「とにかく証言が出ないのが痛い。誰かが事件当夜に伊東が被害者と一緒に居るところを見たと証言してくれれば……」
「そこが鉄壁なんですよね。もしかして、伊東さんはやってないんじゃ……」
「じゃあ、誰が犯人なんだ?」
「鵜辺野さんと高塚さんの親族にも話を聞いてみたいですね」
「被害者の親族捜査は鑑取り班の縄張りだ。鵜辺野の親族には大利根さんや滝川さん達が張り付いて調べているし、高塚英治の身辺は新しく投入される五係が洗う。俺達に優先権があるのは、この間、早瀬管理官が先入観は捨てろと言った伊東の身辺を洗うことくらいだ。もう本筋から外れてるよ……」
手柄を立てるという筋からも、早瀬あずさの力になるという筋からも、完全に外れていると考えると胸の底に鉛が溜まるような気分になった。
「凹まないでくださいよ。そんな顔されたら、最初に伊東さんの件に気付いて進言した俺が、なんか悪い事しちゃったみたいな気分になるじゃないですか。そういう『俺可哀想アピール』やめてください」
ポンッ、と軽々しく肩を叩かれ、二階堂は半眼で晴翔を睨む。
「おまえ、本当に口さがないな」
「まあ、それが取り柄です。なんか憎めないでしょ?」
「いや、憎い。今、殺意が湧いた」
「はいはい、元気出たじゃないですか。ほら、出来る事を考えてみましょう」
二階堂は考えた末、夜は捜査本部の寝所になっている講堂は避け、人の少ない休憩室で腰を据えて捜査資料の読み返しをする事にした。特に調書を重点的に見直す。
一晩中、買い込んだ缶珈琲を片手に硬いパイプ椅子に座って、晴翔と向かい合わせでひたすら書面の文字を追った。
「こうも容疑者が絞れないと参りますね」
「また鑑の線はまだ洗っていない」
直接の知り合いだけでなく、そのまた知り合いまで洗うという事だ。被害者三人、ただでさえも三百人以上の名前がリストに上がっている状況で、それは絶望的な事のように思えた。この事件滑る――そう言った堅城の声が耳に甦る。
「伊東の他に被害者全員と面識があった人物がいれば……」
ともかく、容疑が濃いと言えるのは伊東だけなのだ。
三本目の缶珈琲を飲み干した晴翔は、板に付いた仕草で部屋の隅に空き缶を放り投げ、それが見事にゴミ箱に入った次の瞬間、唐突にガバッと顔を上げた。
「あの、伊東さんを中心に考えてしまっていましたけど、少し切り替えて、三嶋さんを起点にして考えてみませんか?」
刹那、何かがカチリと動いたような気がした。わずかな差だ。だが、そのわずかな視点の差が何かを開く気がする。
「確かに、三嶋が事件のカギを握っている気がするな」
「二件目、三件目も起きてしまった今、どうして捜査本部も解散になった一件目にこだわるのかと言われれば、上手く説明出来ないんですが……」
「三嶋和臣だけが、異質な気がする」
言おうとした言葉を継がれて、晴翔は意外な思いで二階堂を見詰めた。
「なんだよ? 俺だっていつも鈍いわけじゃないぞ」
「ですよね」
フフッ、と疲れた態で笑い、晴翔は奇妙に満足げな表情を浮かべた。
「確かに、三嶋さん、気になりますよね。プライベートの交友関係が、ここまでくっきりと裏と表に分かれてるなんて異常ですよ。まるで犯罪者のような生き方じゃないですか。善良な仮面の下で、人には言えない事をやっていたんじゃないかと勘繰りたくなります」
「そうなんだよな。三嶋は被害者というよりは加害者タイプだ」
二階堂は顎に手を当てて以前から引っ掛かっていた事を口にした。
「最初の事件から気になっていた事が、ふたつある」
引っ掛かってはいたが、最初の事件――三嶋和臣が殺害された当初の捜査本部で、些末な案件として片付けられてしまった事でもある。
「第一の殺害現場には二台の携帯端末が残されており、両方とも指紋が完全に拭き取られていた。しかも、片方の携帯端末に、もう片方から三嶋は度々架電している。普通、自分の端末に、試しで数回なら分かるが、頻繁に電話なんかするか?」
「しませんね。しかも、この謎の端末、ゲームアプリに接続する以外は、三嶋さんの番号にしか架電してないんですよね。要するに、三嶋さんが自分名義で契約して、誰かに持たせていたという事ですよね」
「そうだと思う。そもそも犯人は何の為に指紋を拭いた? 自分の存在を隠す為の偽装に違いない。三嶋の身近に居た人物が犯人なんだ」
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