色欲 lust_08
すみません、と蚊の鳴くような声で言って兵藤は小さくなってしまった。苛立ち混じりの溜息を絵未は辛うじて飲み込んだ。なぜこの人はいつも自分を卑下して小さくなっているのだろう。もっと我を押し出せば、なんなら容姿を武器にしたって良い。もっと傲慢に振る舞っても許される人なのに、控えめ過ぎて口惜しい。
絵未は母親のような気分で現状を確認する為の言葉を継いだ。
「今まで届いた手紙はどうなさったんです?」
「捨ててしまいました。大した内容じゃなかったもので……」
「本当に? 本当に大した内容じゃなかったんですか?」
「ええ、大した内容じゃありません」
兵藤は不意にそれまで不安げに怯えていたのが嘘のように柔らかく微笑んだ。春の陽射しのように甘く。それで絵未は少しだけ安心する。本当にただの悪戯かもしれない。作家におかしな手紙が届くのはよくある事だ。偶々近所に住んでいた意地の悪い人が、最近のニュースを見てこんな悪質な遊びを思いついて、何の気なしに実行してしまっただけかもしれない。ただ、手紙が投げ込まれていただけなのだから……
そこまで考えると、急に自分が大袈裟に騒ぎ立てていただけのような気になった。逆立っていた気分が落ち着くと、こんな風に仁王立ちで声を荒げていた事も恥ずかしくなる。とは言え、勢い込んで立ち上がってしまったので座り直すのも気恥ずかしく、マントルピースの上の嫌味なほど繊細な置時計を眺めるふりで、そちらに歩を向けた。
「とにかく、警察には連絡しましょう。念の為です」
「そんな……お願いします、これ以上、騒ぎにはしないでください」
絵未の背中に兵藤が縋るように言った。騒ぎにするかどうかは先生が決める事……そう思うと、また腹が立ってきて、上手く返事をする事が出来なかった。こんなに心配しているのにどうして、と苛々する。
「放って置くわけにはいきません」
「ですが、これ以上、騒がれたくないんです」
「そうはおっしゃいますけど……」
「とんでもない騒動に巻き込まれてしまって、もちろん不安です。僕はただ小説を書いただけなのに、どうしてこんな目に遭わされるんでしょうか。だいたい、どうやって犯人を唆せるって言うんです? ただ小説を書いているだけの僕にそんな大それた真似が出来るわけがない。僕の書いたものを読んで勝手に妄想を膨らませた異常者がいたとして、それは僕の責任ではないはずです」
不意に兵藤が立ち上がり、マントルピースの方──絵未のもとへ近付いた。そして強引に絵未の手を引く。意外な出来事に驚いて思考が止まり、言葉を発する隙も無く、絵未はされるがまま自然な流れで兵藤の胸に引き寄せられてしまう。抱き締められたのだと理解するまでにたっぷり十秒は必要だった。
「先生……?」
「山名さん、側にいてください。それだけでいいんです」
耳元で縋るように囁かれ甘い痺れを感じた。兵藤は意識していないのか、絵未の耳朶をくすぐる位置で必死に言葉を紡ぎ続ける。
「怖いんです。犯人は僕にも何か危害を加えるつもりなんじゃないか、手紙を送りつけて愉快気に様子を窺っているんじゃないかと考えるとゾッとします。でも、それ以上に世間の目が恐ろしい。僕が騒げば、バッシングがもっと酷くなる気がするんです。こんな状況になってしまって、たった一人でこの空虚な家にいる事に耐えられません。ずっと側にいてくれませんか。今だけではなく、ずっと……」
「先生……」
「山名さん、お願いします……」
「ええ、ええ、大丈夫です。私がついています」
絵未は感極まって兵藤の背に腕を回した。夢見心地で涙が零れそうになる。あの兵頭先生が、まさか自分をそんな風に想ってくれていたなんて……
警察への通報はどうでもよくなっていた。
***
「黄金の林檎連続猟奇殺人事件の続報です。ついに三人目の被害者が出てしまったこの事件ですが……」
ニュースは、黄金の林檎連続猟奇殺人事件という、どうしようもなく陳腐な名称を連呼し、ゲイの連続猟奇殺人事件をセンセーショナルに報じていた。テレビの報道番組に限らず、週刊誌もウェブニュースもSNSでさえも、同性愛とセックスを想起させる煽情的な言葉に塗り尽くされている。事件を茶化す一方で、猟奇殺人犯を崇拝するようなコメントも散見されるようになっていた。被害者のプライベートを粉飾して暴き立てる悪趣味な記事も中には混じるようになり、誹謗中傷に晒され、三嶋の母は弁護士事務所を一時的に閉鎖する羽目に陥り、鵜辺野の妹は学校へ通えなくなっているという。
二〇一六年、十月三日。夜八時を過ぎた頃。
早瀬あずさは、たった一人で、禁煙の文字が貼られた休憩室の椅子に、酷く疲れた様子で何をするでもなくぼんやりと座っていた。報告書の作成の為に新宿署に戻って来ていた二階堂は、そんな彼女の姿を目にし、励ましてあげたいという気持ちに駆られた。
しかし、何と声を掛ければ良いのか分からない。
声を掛けあぐねて、入口の横をうろうろしていると、いきなりペットボトル飲料が目の前に突き出され、二階堂は狼狽えて妙な声を上げてしまった。
「うおっ、な、なんだ、晴翔か!」
「はい、どうぞ」
「は? なんだ、これ?」
「練乳入り苺カフェラテ、脳が痺れる凶悪極甘飲料です。早瀬管理官がこれを買っている姿を二度ほど目撃しまして、たぶんお好きだと思いますよ。はい、行って、行って」
「な、な、なに言ってんだ、おまえ。こ、こんな時間に余裕の無い時に」
「五分くらいは事件も待っていてくれると思いますよ。不謹慎ですが、もう発生直後じゃないですし」
「いや、しかし……」
「二階堂さん、たった五分で人生が変わる事もあるんですよ。分かりませんか? 今がまさにその時です。運命の分岐点です」
「い、意味が分からんっ」
「ふうん、二階堂さんが行かないなら、俺が人生変えて来ちゃおうかな。もし成功したら早瀬さんとの結婚式には職場同僚として出席してください」
がしっ、と二階堂は、今にも休憩室に入って行こうする素振りを見せた晴翔の肩を鷲掴みにした。
「待て、俺が行く」
秘めた思いがバレても構わん。今、彼女を慰める役はコイツにだけは譲りたくない。
晴翔は、良く出来ましたと言わんばかりのこの上なく爽やかな笑みを浮かべ、二階堂の手を肩から外し練乳入り苺カフェラテを押し付けた。
「頑張ってください。これ、奢りです」
ありがとうと言うのも小憎らしく、二階堂は乱暴に息を吐き、くるりと体の向きを変えた。練乳入り苺カフェラテを握りしめたまま。
「失礼します」
開いたままのドアを軽くノックして、休憩室に入って行くと、心ここにあらずといった態でテレビを見ていた早瀬あずさは夢から醒めるようにゆっくりと振り返った。
「二階堂君……」
「よかったら、これ」
「ありがとう。あ、これ気に入ってるのよ。よく分かったわね」
はあ、まあ、なんとなく、と曖昧に言いながら、二階堂は思い切ってあずさの隣の椅子に座った。しかし早速、言葉に詰まってしまう。何も話す事が無い。ヤバイ、何か言わねば、不審だ……
「あ、あのッ、早瀬管理官、何かあったんですか?」
焦っていきなり本題を切り出してしまった。
「え? ううん、何もないけど」
自然な調子でそう返されて、二階堂は益々焦ってしまう。
「す、すいません、落ち込んでいるのかと……」
慌てて謝罪したら、ぴくっ、と瞼を震わせて、あずさは身を固くしてしまった。
失敗した。言うべき言葉を間違えたか――?
二階堂はこの場から走って逃げだしたい衝動に駆られた。後悔先に立たずだ。何を話していいのか分からず、芸の無い台詞を口にしてしまった。挽回できないものかと入り口付近にいるはずの晴翔を探すが、影すら無かった。
ふう、とあずさが溜息をつく。
終わった。始まる前に、試合終了だ……
「やっぱり分かっちゃうわよね」
え……?
あずさは困ったように肩眉を上げて微笑んだ。
「ええ、そう……そうなの。落ち込んでたの。気を遣わせてごめんなさい……」
あああああああっ、と二階堂は思わず内心で安堵の溜息をついた。
良かった。
この状況で良かったなどと一瞬でも思うのは不謹慎だが、今だけは許して欲しい。
良かった。まだ、この試合は終わっていなかった。
動揺が顔に出ないよう必死で態度を取り繕い、二階堂は一世一代のさりげなさで問い掛けた。
「どうしてですか?」
あずさは少し逡巡し、意外な話を始めた。
***
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