色欲 lust_07

「この本、こんな調子で延々と続くんですか?」

 疲れた様子の早瀬管理官に、開いた本のページを指差して訊ねられた大利根は生真面目な顔で頷いた。

「そういう作風です」

「小説は読み慣れていないので辛いです。唐尾さんはもう読み終わりました?」

「まあ、なんとか」

 唐尾係長は眉間を揉みながら頷いた。

「この後、主人公の五百扇いおぎという男は人殺しを始めます。遺体の描写も、美術品の描写と同じトーンで、物語は淡々と進みますよ」

「この主人公、名前が必要ですか。こんなに延々と一人語りが続くのに」

「そこは文学を理解していらっしゃるんですね、早瀬管理官」

 唐尾係長に揶揄われ、早瀬あずさは微かに顔を赤らめる。

「浅学でお恥ずかしいです。結局これはどういう物語なんですか?」

「ネタバラシをしてしまうと、この作品は、五百扇という連続猟奇殺人鬼の告白を聞いた無名の作家が、後に小説に纏めたという態になっているんですよ。作中作をずっと読んでいたのだとラストで分かる構造なんです」

「つまり、この五百扇という作中の人物は、作者の兵藤静香氏の分身ではないという事ですか?」

「そう解釈しろ、という構造ですね」

「ちょっと、意味が分からないんですが……」

「実際のところ、作者の分身かどうかは分かりません。ですが、作者とは別の人格だと受け取るべき構造になっている、と……」

 早瀬あずさは天井を見上げて、今にも卒倒しそうな顔をした。

「その件は捜査とは関係が無いので置いておきましょう」

 唐尾係長は軽く咳払いした。

「それよりも、作中に描かれている殺害方法なんですが、遺体の損壊の仕方以外に幾つか差異が見られますね」

「小説では、睡眠薬を混ぜたアブサンを飲ませ、昏睡した美女の首をロープで絞め、生きているうちに胸を裂き、胸骨と罪深い魂の象徴である心臓を取り出し、静かな魂の象徴である黄金の林檎を詰め込むという表現になっていますね」

 優等生らしい正確さであずさが答えると、唐尾係長は良い生徒を見るように軽く口角を上げた。

「異なる点は幾つかありますが、特に気になるのは――」

「麻薬の使用と、男性の犠牲者、それから、水晶の動物ですね。他は実行面での問題で小説を忠実に再現出来なかっただけのように見えますが、この三つは意図的に加えられた差異ですよね。何か重要な意味があるのでしょうか?」

「さあ、分かりません」

 ところで、と唐尾係長は話題を転じた。

「MDMAの購入ルートから被疑者を割り出すのは難しいでしょうね。売人が顧客リストを作っていれば別ですが、末端の売人は口コミの立ち売りがメインですから、そんなモノは作らなくなっています。売人を検挙すれば芋づる式にというわけにはいきません」

「そうなんですか」

「ええ。伊東美津留が犯人ならともかく」

 唐尾係長は一旦そこで言葉を切り、何かを見据えるように鋭く目を細めた。

「我々の関知しない誰か――快楽殺人を行う異常者が、無作為に狩りを行っているとしたら、事件の直前に被害者と一緒にいるところを目撃したという情報でも出ない限り、容疑者は浮かばないという事です」


   ***


「報道、過激になっていますね」

 山名絵未はリビングのテレビを睨み付けながら怒った声音で呟いた。

 第三の殺人が発覚してから五日が経ったが、今もまだ邸の周りにはガラの悪いカメラマンと記者が張り込んでいる。黄金の林檎連続猟奇殺人事件を使嗾したと勝手に取り沙汰されている作家の写真を撮ろうと狙っているのだ。事件が発生した翌日に比べたら数は減ったものの、いまだにしつこい奴らが数人残っている。作家の様子を伺いに来た担当編集者の絵未も不躾なフラッシュに曝された。本当に腹が立つ。

 向かいのソファに掛けた作家――兵藤静香は両手を顔の前で組み、その陰から怯えたような上目遣いで絵未の強い視線を放つ目を見詰め返していた。いや、見詰め返すという表現は正しくない。小心な子供がするようにチラチラと盗み見ていた。

 マントルピースのアンティークの置時計は午後八時を指している。その置時計に限らず、呆れるほど金のかかった室内だった。時代錯誤な豪華さは邸全体に及ぶ。

 広壮な敷地を持つ邸宅は兵藤の母が残したものだ。地価の高い三鷹にあるので相続税はかなりの負担だった──と以前、兵藤から聞いていた。本宅を相続する為に別邸は売り払ったらしい。その別邸なるものがどこにあったのかまでは知らなかったが、兵藤の母が常識外れの資産家であった事は想像に難くない。実のところ兵藤は小説など書かなくても、一生、暮らしには困らないだろうと察しも付いている。本来なら別世界の人間だ。

 だからと言うわけではないが、兵藤静香の担当編集者に推挙された時、正直、気乗りはしなかった。前任者から聞かされていた兵藤の贅沢な暮らしぶりと、幻想的で豪奢な作風から、人間嫌いで気難しく苛烈な性格の扱い難い作家だと思い込んでいたのだ。前世紀に滅んだはずなのに間違って現代にまで残ってしまった貴族――そんな印象だった。

 実際はまるで違った。

 確かに、昨今勝手にテレビで報道されている兵藤の姿は傲然としているように見えてしまうが、あれは人見知りが過ぎて大勢の前では声が出せないだけで、先生は決して不遜に振る舞っているわけではない。絵未は自分だけがそれを理解している事を歯痒く思う一方で誇らしくも思っていた。自分だけが兵藤の真の姿を知っている……

 本当の兵藤静香は穏やかで優しく、控えめで、年下の絵未を立ててくれ、気弱ですらあった。見た目とは真逆の性格なのだ。私が先生を守ってあげなければ、と心の深いところで熱く思う。

 だから、リビングのテーブルの端にその封書を見付けて、つい手に取ってしまった。ペーパーナイフで封が切られていたにも関わらず、リターンアドレスも無く、切手すら貼られていなかった。

「おかしな手紙ですね。謎の香りがしますよ」

 冗談めかして片目を瞑ったら、兵藤は笑うどころか蒼褪めた。様子がおかしかったので問い詰めると、いつの間にか門の横の郵便受けに投函されていたのだと白状された。

 内容に目を通させてもらい愕然とした。今まさにニュースで取り沙汰されている猟奇殺人事件、それを自分が犯したと自慢げに吹聴する文面だったのだ。しかも、何度も何度も執拗に「先生を愛しています。先生の為にした事です」と書き連ねられている。

「先生、これストーカーじゃないですか。どうして仰って下さらなかったんです」

 兵藤は目に見えて狼狽えた。

「心配をかけたくなかったんです。それに、本物かどうか分かりませんし……」

「本物って?」

 我知らず、ごくりと喉が鳴る。

「本物の連続猟奇殺人鬼――」

 ハッと絵未は口元に手を当てた。

「警察に……」

「いや、警察に届け出るのはやめてください。ただでさえマスコミが例の猟奇殺人は僕の作品を模倣した犯罪ではないかと取り沙汰している状況です。世間から僕が犯罪を使嗾したと非難されて精神的に参っているんですよ。これ以上騒ぎになるのは……」

「お気持ちは分かりますけど」

「ただの悪戯かもしれません。僕は本名で執筆していますし、どうにかして住所を探り当て手紙を投げ込んで行っているのではないでしょうか」

「そんなっ――」

 絵未は思わず叫んで立ち上がってしまっていた。

「これって、ご自宅の周りを連続殺人犯がうろついてるかもしれないって事じゃないですか。しかも、先生を狙って! 危険過ぎます!」

 勢いのせいで足が当たり、ガタンとローテーブルが揺れる。

「でも、きっと愉快犯ですよ。手紙に書かれているのは漠然としていて、インターネットで調べればわかるような内容ばかりです」

「でも……」

 兵藤は眼鏡のブリッジに指をかけ、何かを誤魔化すように絵未から顔を背けて掛け位置を直した。視線を逸らされ、絵未はそれ以上追及してはいけないと突き放されたような寂しい気分になった。それでも、確認すべき事だけは問い質さなければ……

「この手紙だけですか?」

「え?」

「今までストーカーにやられた事はこの手紙だけですか?」

「あ、はい、いえ、今までも何通か同じように郵便受けに投げ込まれていました」

「そんな……どうしてもっと早く相談して下さらなかったんです。先生の身に何かあったら、私……」

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