色欲 lust_06

「稀に、人をコントロールする事に異常に長けた人間も存在します」

 晴翔が何を言わんとしているのか、やっと二階堂にも分かった。

「三嶋和臣か。確か、母親がそんな事を言ってたな。和臣は直接命じるわけではなく、遠回しな言葉で、それと知られないよう他人を操っていた、とかなんとか……」

「三嶋さんはサイコパスっぽいんですよね。詐欺師や宗教家、DV男に多いパターンですね。社会的には善人で通ってますが、陰で誰かが犠牲になってるはずですよ。犠牲になってる当人は、精神的に支配されてしまっていて、その関係に積極的に加担し、あまつさえ隠蔽を計ろうとさえするので、異常性が発覚しない事も多いらしいです」

「三嶋は人間の心を支配できたって事か?」

「分かりません。でも伊東さんも、傍から見れば都合良く使われていたようなのに、三嶋さんを悪く言わないですし、精神的に支配されてたんじゃないでしょうか?」

 学生時代に齧った心理学の知識を呼び覚まそうとしてみるが、あまり上手くはいかなかった。サイコパス、反社会性パーソナリティ障害だったか……いや、厳密にはその二つは別物だ。類似性は多く見られるが、分類の仕方が違ったのだったか。

「まあ、人の心を動かすテクニックは、今の二階堂さんにこそ必要ですけどね」

「どういう意味だ?」

「一度も早瀬管理官を誘った事無いでしょう?」

 急に話が元に戻り、二階堂は動揺でテーブルに足をぶつけてしまった。

「あ、当たり前じゃないか。な、何を言うんだ、おまえっ。相手は上司だぞ。いずれは警察庁に戻ってエリート官僚の道を歩む女性だ。身分が違うし、生きる世界も違う。軽々しくデートに誘ったりできるわけないだろうが」

「デートって思うからダメなんじゃないですか。ちょっと食事に行くだけとか」

「完全にデートだろうが。そんなの、俺が誘ったら迷惑だろ……」

「そういうところがダメなんですよ。相手の表情とか仕草を見て、毛嫌いされてさえいなければ、とりあえず声を掛け続けたらそのうちなんとかなるもんですよ」

「バ、バカ、おまえ。そんな、何度もしつこく誘ったらストーカーじゃないか」

 ああ、と晴翔は呻いた。そこから説明しないとダメですか、と。

「誘い方次第です」

「難易度が高過ぎる……」

「今は深く考えなくていいですよ」

 そろそろ行きますか、と晴翔は立ち上がった。

「言葉で他人を都合の良い方向へ誘導する事は難しくない――という事だけ、覚えておいてください」


   ***


 殺人事件の場合、九割は顔見知りが犯人だ。うち五割以上は親族、四割は顔見知りによる犯行で、無関係の相手に殺害されるというケースは全体の一割しかない。金銭や権利などを含む利欲関係、怨恨、恋愛関係、ストーカー、概ねこれらの関係性を持つ者が犯行を行う場合がほとんどなのだ。だから警察は、殺人事件が起きた場合、被害者と関わりのあった人間を徹底的に捜査する。

 被害者と面識がある者を「敷鑑」があると言い、関係の濃い者を「濃鑑」、薄い者を「薄鑑」と言う。濃鑑から薄鑑へ順に捜査していくのだが、敷鑑のある者全員を洗っても被疑者が浮かび上がらなければ、間接的に被害者を知っている者「また鑑」を洗う。

 黄金の林檎連続猟奇殺人事件の場合、被害者三人、全員と関わりのあった伊東美津留が疑われるのは当然の成り行きだ。

 しかも、伊東には三嶋を殺す動機があると見られる。本人は言及していないが恋愛関係にあったと見做すのが妥当だろう。それが、三嶋の男漁りに都合良く利用されていた。可愛さ余って……という心理は容易に想像が付く。

 鵜辺野と高塚を殺害した動機は見当たらないが、案外三嶋が他二人と肉体関係を持っていたのかもしれない。それならば、嫉妬という動機が浮かぶ。

 伊東が怪しい。

 だが、三嶋和臣が殺害された当夜、伊東は山梨にいて犯行は不可能だった。しかし、伊東の代わりに、いや、伊東の依頼で三嶋を殺害した共犯者がいたとしたら……

 そこまで考えて、それは成り立たないと気付く。

 問題は殺害方法だ。直感だが、あれは特定の人物が独りで行ったのだと思う。複数の人間が犯行に関わったとして、わざわざあんな手の込んだ真似をするわけがない。もっと合理的に無駄無く殺害のみを目的として行動するだろう。

 あれは儀式だ――

 心臓を取り出し、黄金の林檎を詰め込む事に、いったい何の意味がある?

 本当に小説を模倣しているのか?

 分からない。だが、あの林檎はメッセージだ。メッセージであるはずなのだ。

 では、誰に向けての?

 動機は被害者への怨恨ではないという事だろうか。ならば、殺害された三嶋も、鵜辺野も、高塚もただの生贄という事になる。無作為に選出された犠牲者だとしたら、犯人は被害者とは鑑が無いという事になる。つまり、強盗、通り魔、快楽殺人など、被害者との間に特別な関係の無い犯行に分類され、その場合、犯人は異常者で、上手く人目を避けて身を潜められたら捜索は難しい。

 犯人はどこの誰とも知れず、いつどこで誰が殺害されるか予想も付かない。

 動機無き猟奇殺人の恐ろしさはそこにある。

 犯人は伊東であって欲しいという願望が捜査本部内にあるのは事実だ。伊東であってくれれば、理由も無く無差別に人を毒牙にかける猟奇殺人鬼が、世の中を闊歩しているという恐怖に向き合わずに済む。まあ、林檎の殺人鬼に狙われているのはゲイの男性のみだという認識がある為、それ以外の者が標的にされるという恐怖からは逃れていられるが、しかし、顔の見えない犯人よりは、当たりの付く相手の方が良い。伊東であってくれ、と望むあまり、伊東を必要以上に疑っているのかもしれない……

 犯人は、他にいるのだろうか。

 考え込んでいるうちに、迷路に入り込んでいるような暗澹たる気分になった。


   ***


 静謐は黄金よりも貴重な宝だ。

 祖母が大切にしていた北の奥の間は常に静謐に満たされていた。邸は増改築が繰り返され、ほとんどの部屋が近代的で便利な洋間に改装されていたが、その奥の間だけは明治初期の古い拵えをそのまま残してあり、壁の漆喰には藍が混ぜられていた。

 藍色の壁は富と地位の証だ。

 昔の豪農は虫除けの効果がある藍を漆喰に混ぜて、一族の位の高い者の部屋の壁にだけ塗った。藍色の部屋には召使が入る事は禁じられていたという。言葉だけを聞けば、掃除はどうしたのかと些細な笑いが込み上げるが、つまるところ、一族の身分の下の者が手ずから世話を行ったという事であろう。藍の漆喰は、同じ血を引く者達の上に君臨した家長だけに許された贅沢だ。

 祖母は世が世なら地域一帯の姫君だった。私に対してもそのように振る舞った。祖母の世話は私がした。そうは言っても、大した世話ではない。ただ、祖母の好む濃い紅茶を淹れて、それを飲みながら話を聞いてやっただけだ。祖母には、たったそれだけが必要だった。祖母は私しか信用しなかった。祖母の命令を一族の他の者に伝える役を任されるようになり、私は自分の意思を祖母の言葉に織り交ぜるようになった。追放すべき者を追放し、弾圧すべき者は弾圧した。小さな国家が我が家にはあった。祖母は独裁権を持つ女王で、私は祖母を傀儡にした宰相のようなものだった。

 母は、そんな私を否定した。

 だからと言って何が出来るわけでもなく、二人の叔父と、母の夫、つまり私の父が放逐されるのを黙って見ているしかなかった。離婚届にサインし判も押したのだから、結局のところ母も共犯者だ。

 広い邸に残ったのは、祖母と私と母だけだった。

 祖母の死後、私にはすべての財産が遺された。

 藍色の部屋も私のものになった。

 元々その部屋には一枚の絨毯の他には何も置かれていなかった。祖母の日用品、箪笥や屏風、文机、椅子、脇息、螺鈿細工の煙草入れ、羽二重の寝具などは別の部屋に置かれていた。そもそも使用する目的で作られた部屋ではなかったからだ。

 祖母が生きていた頃から空だった藍色の部屋は、祖母が死んで、益々空虚になり、清潔に、静かに、愛おしくなった。

 何も無い部屋に横たわって、空想を巡らすのが好きだった。

 祖母が金に糸目をつけずに買い求めた青いペルシャ絨毯は、私のお気に入りの品のひとつだ。緻密な織物の中には宇宙がある。太陽が昇り、月が満ち、星が巡り、白い魂の樹が枝を広げる。静謐だけがそこにはあった。

 誰もいない世界は美しい。


   ***

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