色欲 lust_10

「恋人ですかね?」

「分からん。俺は伊東だと思ってしまっている。二台目の端末から一台目の端末への架電は、すべて吉祥寺三丁目の携帯基地局を経由されているんだ」

「予断ですよ、それ」

 だから参ってるんだ、と二階堂は唸った。

「まあ、でも、確かに奇妙なんですよね。三嶋さんの異常に用心深い生き方……それに、このおかしな携帯端末。被害者自身が犯人を隠しているような感触で、喉に小骨が引っ掛かっているみたいにすごく気持ちが悪いです」

 だろ、と二階堂は目線で肯定した。

「とにかく、最初の被害者、三嶋和臣の身辺に事件解決のヒントがあるはずなんだ」

「じゃあ、二階堂さん、ここ行ってみませんか?」

 晴翔は一枚の捜査資料を差し出し、その中の一文を指差した。

 第一の殺人事件の被害者の鑑取りで不可解な証言が出ている。被害者の三嶋和臣は殺害された二日後――二〇一六年、八月二十一日、日曜日の午後に、三鷹に住む盲目の祖母の面会に訪れていたと当の祖母が証言しているのだ。なお、認知症の疑いあり、と無情な所見も書き込まれている。

「すごいな、おまえ。それが、俺が引っ掛かっていたもうひとつの事だ。当時、三嶋の祖母の証言は無下にされてしまった。俺は、彼女は真実を口にしていると感じた。だが他の者が言ったように認知症老人の妄想かもしれん。もしも、そうだったら、彼女の証言に意味は……」

「認知症を患っているのだろうと一件目の捜査本部が決め付けただけでしょ。そういう決め付けが大事なモノに目隠しをしてしまう場合もありますよ」

「無駄足になるかもしれん。今は時間を浪費している余裕なんか無いぞ」

「現場百編って言いますし、まあ、現場じゃないですけど、気になる場所には何度でも足を運んでみるべきじゃないですかね」

 グズグズと渋る二階堂に、晴翔はさらに言葉を重ねた。

「行ってみましょうよ。二階堂さんだって三嶋さんのお祖母さんの証言には引っ掛かってたんでしょう。無駄かどうか分からないですよ。それに、無駄なら無駄で、ひとつ気掛かりが減りますし、そうやって無駄を潰していく事が事件解決に繋がるはずです」


   ***


 説得を試みなかったわけではない。その頃の自分は、どんなに悪辣に見える人間にでもひとかけらの良心くらいはあるはずだと信じていたから……

 仕事中に、あいつに無理やり持たされている携帯端末が鳴ると、思わずビクッと震えてしまって、客におかしく思われなかったかと怖くなる。普通の仕事に比べれば幾らか自由が利くと言っても、客の応対をしている時はその場を離れる事など出来ない。客の細かい注文を覚えなければ。間違えたら二度手間だ。細かい雑用が多くて勤務中は時間に追われる。急いで折り返しの電話をしなければと思うと絶望的に気が滅入った。

 あいつに見付かってからの俺は、まるで蜘蛛の巣に掛かった蛾のようだ。

 もう二度と飛べない。

 足掻けば足掻くほど糸が絡み付いて、身動き出来なくなる。

 あいつは笑って獲物で遊ぶ。

 生き血を啜られる側がどんなに苦しくても、あいつは眉ひとつ動かさない。捕まった俺が悪いのだ。きっと死ぬまであいつに好きにされる。

 あいつに呼び出される場所は、いつも同じ古いラブホテルだった。最初に連れて行かれた時に、あいつに知った風の口調で言われたから、そこに防犯カメラが無い事は分かっていた。故障して取り外したままなのだ、と。

「証拠が残るの嫌なんだよ。ここ? 友達に調べさせた。おまえと違って、そこそこ使える奴。つうか、俺、ぶっちゃけ、おまえよりバカな奴見たこと無えわ。なんで言いなりになんの? そんなに俺が好き?」

 誰がおまえなんか、と言ってやりたいのを我慢する。代わりに、何度も言った虚しい忠告を口にする。

「彼女に会いに行け。このまま放っておくのは無責任だ」

 あいつは蛇のように温度の低い目で俺を見た。

「嫌だよ、面倒くさい。金でも貢いでくれるならいいけどさ」

「なんでそんなに彼女を蔑ろにするんだよ……」

 めんどくせえな、とあいつは吐き捨てた。上から見下ろす視線は厭らしい粘り気を帯びていて、普段は周到に隠している残虐性を、俺の前ではもう隠す気が無いのだと思い知らされた。俺は絶対にあいつの秘密を漏らせない。そう思われてバカにされている。反抗出来るわけがないと見下されているのだ。

 そんな俺の考えを読んだように、あいつは例の件を持ち出す。

「なあ、本当のことをバラしたら、あのババアどう思うだろうな? おまえがしてる事をよく考えてみろよ。普通の奴なら財産目当ての詐欺だと思うんじゃないか。もし、おまえがあの家で何をしてるのかバラしてやったら、あのババア、おまえのことマジで信じてるみたいだし、すげえ傷付くんじゃないか。ショックで自殺したりして」

 下卑た台詞に、ゲラゲラと不快な笑いが続く。

「葬式になら行ってやっても良いぜ?」

 葬式……息が止まる。信じられない。許せない。

 彼女が死んでもいいと思っているのか――?

「おまえ……そこまで」

 怒りのあまりドッと血の気が下がって、目の前が暗くなる。抵抗できない状況で許しがたい暴言を吐かれると、人間は激高するか、気が遠くなるらしい。自分は後者なのだと理解して、弱い性質に失望する。これでは骨の髄まで奴隷だ。捕縛され、凌辱されて、戦う気力すら奪われてしまうなら、とことん食い物にされる側だ。

「まあまあ、そんな顔するなよ。萎えるだろ」

 気分出してしゃぶれ、と髪を掴まれた。

「おまえが俺を楽しませてくれれば、ババアの事は放って置いてやるよ」

 舌絡めろよ、教えただろ、出来ないとババアに言いつけるぞ、頭上からそんな言葉が降ってくる。目を閉じて何も考えないようにしながら必死に頭を動かす。顎が疲れて感覚が鈍くなっていく。足でジーンズと下着の布越しに性器をまさぐられた。気色が悪い。心底嫌いな奴に触られて、ただ鳥肌が立つ。

「なあ、そろそろアレ効いて来たんじゃないのか? 反応が良くなった。なんだかんだ言って、おまえはマゾなんだよ。酷いのが良いんだろ。このド変態」

 言われて反発するが、自覚もする。さっき飲んだ薬が効き始めている。少しぼんやりしてきたような気がする。冷や汗が出て、暑いのか寒いのか分からなくなる。

 ドラッグを飲まされる事にも慣れていた。

 初めてレイプされた時、反応が悪いと飲まされて、残りはおまえが持っていろと押し付けられた。以来、俺の部屋に隠してある。会う前に飲んで来いと命令されていた。警察に職務質問でもされれば、所持していただけで逮捕される薬をだ。だから俺に預けているんだろうし、自分は飲まないのだろう。危ない橋は渡らない――が奴の口癖だった。

 じゃあ、俺は逮捕されてもいいのか、と堪らない気分になる。

 どこまで自分勝手なんだ。

 だけど、アレを飲むと気分が楽になる。淡いブルーの錠剤でXの刻印がなされていた。合成麻薬MDMA、エクスタシー、バツ、呼び方なんて何でもいい。意識が朦朧とする代わりに嫌なモノをぜんぶ薄めてくれる。無いよりはあったほうがいい。ほんの少しの間だけ現実から切り離してくれるから。死んだ方がマシな時間に薬は些細な救いになる。

 でも効果が切れた後は地獄だ。半日は全身の不快感にのたうちまわる。

「なあ、気持ち良くなってんの? ここ撫でると良い反応するよな」

 良いわけない、と揺らぎ始めた意識で文句を言おうとしたが、口腔はしゃぶらされているモノでいっぱいで、もごもごと舌を動かしてあいつを喜ばせただけだった。

「睨むなって。淫乱な方がいいよ。その方が俺も楽しめる」

 頭を掴まれ揺さぶられて激しく噎せる。吐き気がする。苦しい。泣きたくもないのに涙が出る。疲れた。もう動けない。死にたい。いや、殺してやりたい――

 目の前に光が広がる。記憶が飛ぶ前兆だ。何をしたのか、されたのか、混濁して、ろくに覚えていられない。でも、その方がいい。覚えていたくない。何もかも自分の意思ではない、自分の身に起きている事ではないと思いたかった。

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