暴食 gluttony_06
通報は、十月二十二日、土曜日、午前十時二十一分になされていた。
三鷹の事件と同じく、退室時間を過ぎても宿泊客が部屋に留まったままなので、ラブホテルの従業員が様子を見に行き、血塗れの遺体を発見した。
鑑識課員による証拠の採集が進む傍ら、第一発見者であるホテルの清掃員の聴取を終えた新宿署の捜査員二十人に、警邏を中断して急行した機動捜査隊二十人と、本庁からの出向してきた二十人を加え、総勢六十人を投入しての現場周辺聞き込み及び挙動不審者への職務質問のローラー作戦が行われた。
付近に犯人が潜んでいれば、これで大抵はあぶり出せる。潜んでいればの話だが。
三鷹の事件でも逮捕を免れている犯人だ。何時までも犯行現場の近くに残っているわけはないだろうという諦めのような感情も場を支配していた。
それでも、事件発覚直後から昼休みも潰して午後二時近くになるまで、大規模な狩りが行われたのだが、被疑者の確保には至らなかった。
歌舞伎町は人が多過ぎる。スーツ姿のサラリーマンから制服姿の中高校生、外国人、派手な格好のホストやホステス、ポン引き、奇抜なファッションの若者、女装の男、それに一目で筋者と分かる強面の男達まで、多種多様な人間がごまんといる。しかも、彼らは一ヶ所に留まることなく常に流れ続けている。海を泳ぐ魚の群のようなものだ。定位置で商売をしている者達や店舗の従業員もいちいち通行人の顔など覚えているわけがない。
そんな場所で「怪しい人物を見かけなかったか?」と訊ね歩いても、有力な証言を得られるはずもなかった。
犯人が血塗れで歩いているのでもなければ、印象に残りはしないだろう。
挙動不審者は、それこそ掃いて捨てるほど居た。歌舞伎町の複数のゲームセンターは海外組織の息がかかり、違法薬物の取引にも利用されている。店の内外でこそこそしていた後ろ暗そうな奴には片っ端から職質して荷物を検め、大半を違法薬物所持の現行犯で逮捕した。日中にも拘らず売春の為に街に立っていた不法滞在の外国人女性や、援助交際目当ての少女達も、次々に拘束された。殺害場所がラブホテルであり、被害者は男性であっただけに、三鷹の事件当初から犯人は女性であろうと目されていた。ゆえに、平素は取り締まり切れずに放置されていた売春婦達も見逃されなかった。
捜査員たちはとにかく怪しい女を探していた。
そんな中で、新宿署の面子を知らない堅城が、暴力団専門の組織犯罪対策課のデカが張っていた違法薬物の女売人に声を掛けようとして一悶着起こる場面もあった。組対のデカと揉み合った堅城は顔を擦り剥き、堅城を阻止しようとした組対のデカは左肩を脱臼した。
それだけの騒ぎを起こしたというのに、ラブホテルでの殺人を自供する者はおらず、それらしい痕跡を持つ者も皆無で、新宿署の生活安全課が混乱するだけになった。
「場所が悪いな。怪しい奴が多過ぎる」
「もう近くには居ないんじゃないか。事件発覚から四時間以上経ってる」
「発覚から……だからな。発生したのは、もっと前だろう。マトモな脳ミソが詰まった奴なら、とっくにどこかへ逃げてるさ」
「キツイな……」
機捜は初動で犯人を確保できなければ警視庁と新宿署の担当部署に捜査の引き継ぎをし、警邏活動に戻る。二十人が減り、苛立ちが最高潮に達しようとしていた時、無線に希望をもたらす吉報が飛び込んで来た。
「新情報出たぞ!」
「ホシの
ローラー作戦と並行して、防犯カメラの映像の確認が行われていたのだが、例によってその筋絡みで藪蛇が出るのを恐れた経営者が出し渋り、本件以外の怪しいモノは見逃すという灰色の裏取引の末、ようやく被害者がホテルにチェックインした際の映像を抜き出せたのだ。日本でも司法取引がより簡素に執り行えれば、違法に近い灰色の裏取引など無しで、捜査がもっとスムーズに進められるだろうにと一度でも捜査に携わった者ならば忌々しく思わずにはいられない。無線機で一斉に指令が出され、全捜査員は捜査本部の置かれる新宿署に招集される。
新宿署七階の講堂に捜査員四十人が集められた。廊下では、新宿署長、警視庁捜査一課長、同じく本庁の管理官、新宿署刑事課長の簡単な挨拶がなされ、捜査本部の立ち上げと、メンバーの顔合わせを兼ねた最初の捜査会議が始まる。
三鷹の歌舞伎町の現場の状況を突き合わせ、連続猟奇殺人事件とほぼ断定された。
相当の緊張を持って臨まねばならないはずであったが、場は落ち着きなくざわついていた。
「犯人の人着が割れたって?」
「今さらか?」
「何時間聞き込みしたと思ってるんだ」
「ったく、ふざけんなよ……」
四時間ものローラー作戦が不首尾に終わった事と、その後で犯人の人着が判明した事で、拭い難い徒労感に新しい期待も綯い交ぜになって気分が不安定になっていた。
それだけでなく、現れた管理官に新宿署の面々は驚きを隠せなかったのだ。
「全員注目」
パンパンと新宿署捜一課長が手のひらを打ち合わせる乾いた音が響く。総勢四十人が注目する中、ホワイトボードの前に進み出たのは、なんと、若い女性だった。
「警視庁捜査一課の早瀬あずさ管理官だ。本捜査の指揮を執る」
信じ難いことに、この連続猟奇殺人事件を指揮する管理官は若い女性だという事だ。
新宿署の彼らは、赤バッチの若い女性など一度も見たことが無かった。ましてや超の付くエリート管理官の女性などは。本庁の捜一課長が彼女を紹介した時には、軽いどよめきすら起こった。
女性としては長身で、警察官としての体術訓練の為に体躯は引き締まっているが、充分に女らしい。背筋を伸ばして真っ直ぐ前を向いて立つ姿は健気にすら見える。黒い髪は顎のラインで切り揃えられ、色白で、黒曜石のようなつぶらな瞳をしていた。美人といっても差し支えないだろう。
「早瀬です。新宿署の皆さんとは初めて顔を合わせるはずです。本庁八係の皆さんには挨拶は不要でしょう。若輩者ですが、よろしくお願いします」
女性であることについて何も言及は無い。何を言っても向後の言い訳のように聞こえると本人が自覚し自戒しているのだ。早瀬管理官はすぐに捜査の話に移った。
「滝川主任から被害者について報告があります」
被害者遺族への連絡の役を担い、本庁を代表して遺族の遺体への面通しに付き添った滝川が立って報告を始める。それらの情報は被害者の母親からもたらされていた。
***
「被害者の身元が確認されました。
「信号無視というと……?」
「集団暴走行為などの犯罪歴はありません。うっかり赤信号を見落として、ネズミ捕りに引っ掛かった口でしょう」
捜査資料が配られる。カラーで印刷された全裸の遺体写真も添付されていて、切り裂かれた胸部に埋め込まれた林檎や、取り出された胸骨と心臓、恨めし気に目を見開いた被害者の顏のアップも写っていた。それとは別に、生前の被害者が仲間と楽し気に笑う姿を写した一枚もある。
二階堂は複雑な思いで配られた被害者の写真を見詰めた。
明るい茶色に染めた髪、モデルのような服、一見すると遊び人のようにもみえるが、目元は穏やかだった。身長百七十五センチ。瘦せ型だが筋肉質で健康的な体型だ。両親と妹一人との四人暮らし。家族思いの優しい兄で、地域の慈善活動にも従事していた。交際をしていたと見られる特定の女性はいない。これらは遺体確認をした母親の言で、まだ裏は取れていないが、評判の良さと身辺のクリーンさが三鷹の被害者、三嶋和臣と似ているような気がした。
「昨夜は勤務先のレストランが休業で、友人に会うと言って夕方に出掛けたそうです。誰と会うかは家族には伝えておらず、その後の足取りは掴めていません。通話履歴は調査中です。交友関係は広くなかったと、母親は話しています」
「ちょっと映像を見てくれ」
おもむろに唐尾係長が立ち上がり、投影機のスイッチを入れた。パッと講堂の正面スクリーンに映像が映し出される。
「現場ラブホテルの防犯カメラの映像だ」
「あ……」
その映像を見た瞬間、全員が息を飲んで黙り込んだ。予想外のモノが映し出されていたのだ。早瀬管理官が紹介された時以上のどよめきが広がる。
「これ、マジですか?」
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