暴食 gluttony_05

 新宿は奇妙な街だ。新宿駅を境に東と西でまるで顔が違う。高級ホテルが立ち並び官庁街でもある治安の良い西。歓楽街が広がり猥雑で治安の悪い東。光と闇が隣り合わせに共存している。片や剝き出しの暴力とセックスや違法薬物が溢れ、いまや力を殺がれた伝統的な任侠者を押し退けて国際色豊かな犯罪組織が幅を利かせる魔都であり、片やお堅いエリートが商談に勤しみプライドの高いお役人が我が物顔で闊歩する雲上人の世界である。どちらにも金があり、権力闘争がある。そのくせ決して混じり合わない。曲がりなりにもお役所の新宿署は新宿駅の西側にある。高層ビルが立ち並ぶ清潔な街並み。付近の舗道は整えられた白い石畳で、行き交う人々も身形が良い。そんな場所に建つ十三階建ての庁舎は堅牢な印象だ。九階から上は独身者用の清和寮になっている。実は職場と住居の併設は労働基準法に違反するのだが、待機所という名目でクリアしている。違法行為を取り締まる組織の拠点がそうであるのは奇妙な事だが、矛盾はどこにでもある。

 晴翔の勤務する刑事課は四階にある。机はセクション毎に島になっており、出勤したらまず書類仕事に取り掛かる。刑事の派手なイメージと違い、書類仕事のウェイトは意外と重い。朝から晩まで報告書の作成に追われる日もある。一つの事件が片付き、担当する事件の無い状態で次の事件に備える在丁番、事件番とも言われる時期は特にそうだ。

 晴翔が報告書を作成する為に眉間にしわを寄せながらPCに向かっていると、椅子の背に掛けておいた薄手のモッズコートのポケットで携帯端末が震えた。隣の席で同じように報告書作成に手間取り、眉間に皺を寄せていた但馬篤人がつられて顔を上げる。

「誰から?」

 晴翔は黙ってモッズコートから取り出した携帯端末を但馬の眼前に一瞬だけ翳す。ディスプレイには刑事課の同僚である郷田の名前が表示されていた。事件だと直感し緊張で身を固くした但馬を横目に、晴翔は飄々とした様子で電話に出る。

「何かあったんですか?」

「コロシだ。歌舞伎町のラブホテルで男性の遺体が発見された」

 単刀直入に郷田は切り出した。下町訛りの不愛想な声が常より険を帯びている。大声で喋るので、隣にいた但馬にも電話の声は漏れ聞こえた。

「コロシ?」

 しっ、と唇に手を当てて但馬を制してから晴翔は郷田に続きを促す。

「どういう事です?」

「野暮用でこの辺りを通りかかった時に非常線が張られてるのを見掛けて、見張りに立ってた若い者に訊いたらコロシだとよ。今頃、上にも報告が行ってるだろうが、事件番の俺達が動員されるハズだ。他の皆にも伝えてくれ。さっさと準備しておけよ」

「分かりました。命令が下り次第すぐ現場に向かいます。ホテルの名前は?」

 晴翔は前年まで歌舞伎町交番に詰めていたので、名前を聞けば場所は分かる。必要な装備を引っ掴みながら、回線の向こうに耳を澄ました。郷田は二度ホテルの名前を繰り返した後、早口に言う。

「例の奴かもしれん。林檎があるらしい」

「林檎って、金色に塗られているやつですか?」

「そうだ」

 通話に耳を澄ましていた但馬は一瞬、息を飲んだ。

 黄金の林檎殺人事件――まさか新宿署管内で類似の事件が起こるとは。やっと事件番になったと肩の荷を下ろした途端に次の捜査本部に動員される事は珍しくない。それにしても、二か月前に発生したあの猟奇殺人に通じる事件か……

 晴翔は、今朝がた祖母と話しながら感じた嫌な予感を思い出し、またご馳走になる約束がお流れになったな、と内心で嘆息した。

「模倣犯の可能性は?」

 気を取り直して晴翔が訊ねると、端的な答えが返って来る。

「来てみれば分かる。マスコミには詳しい現場の状況は知らされていないはずだ。犯人しか知り得えない状況が三鷹の事件と重複していれば、本物オリジナルの犯行だろう」

 無差別連続殺人の可能性に思い至り、背筋が冷えた。但馬が身震いしたその時、新宿署刑事課強行犯捜査第三係の堀田係長が鬼の形相で大部屋に飛び込んで来た。大股でどかどかと歩きながら怒声を張り上げる。

「出るぞ。緊急配備だ!」

「係長、郷田さんから連絡来てます。もう現場にいるそうです」

「なに? あいつ、どうやって……まあ、いい。現場の状況はどうだ?」

「林檎があるそうです」

 一瞬、その場の全員が言葉を飲む気配があった。

「そうか。よし、本庁から赤バッジが出張って来るぞ。急げ!」

 堀田係長が顎で合図をすると、この場にいない郷田以外の三係全員が立ち上がった。取るものもとりあえず、揃って現場へ向かう。捜査は初動が命だ。一分一秒が惜しい。書類の完成はもう目前だが、放り出して現場へ向かう事にする。

「あの林檎の事件と同一犯ですかね?」

「課長が三鷹署に応援要請の電話をかけている。本庁にもデータはある。一件目の捜査資料が届けば現場状況の比較が出来る。本物なら本物の徴しサインがあるだろう」


   ***


 警視庁にも即時報告が行く。

「おい、例の未解決猟奇殺人、続いたぞ。今度は新宿署管内だ」

 ルーティンワークの捜査書類作成をしていた二階堂は、堅城が張り上げた声に打たれたように顔を上げた。目の前のデスクでは、堅城と仲の良い滝川がバリバリと煎餅を噛み砕きながら茶化すようにひらひら手を振る。

「猟奇殺人ってどの猟奇殺人だ?」

「八係が担当した猟奇殺人っつったら林檎に決まってんだろ!」

「前の犯行現場は三鷹だったよな。新宿にヤサ替えでもしたのか?」

「猟奇殺人ってだけじゃなく連続殺人だってのか?」

「あれから二ヶ月経ってる。今さら続きか?」

「ほとぼりが冷めたとでも思ってるんじゃないのか?」

 次々に軽口が飛び出す。ふざけた態度とは裏腹に、本心では全員が緊張しピリピリし始めている。八係の手綱役である大利根が落ち着いた声で場を牽制した。

「んなもん知るか。新宿署の連中が同一犯か確認してくれと言って来てるぞ」

 思わず二階堂も声を上げていた。

「林檎って、例の黄金の林檎殺人事件ですか?」

「聞いてたなら分かるだろ。その林檎だよ!」

 興奮して息巻く堅城を横目で見やって、ふむ、と唐尾係長は方眉を上げた。

「早瀬管理官に掛け合ってきます。八係が担当すべき事案でしょう」

 書類から目を離さず事務処理を続けていた大利根はうんざりしたように重い溜息をついた。また、あの損壊遺体を見なければならないのか。

 部屋から出て行く唐尾係長を見送って、二階堂は自分の手がわずかに震えている事に気付いた。武者震いだ。

 実のところ、黄金の林檎殺人事件の捜査に行き詰っていたこの二ヶ月、ずっと、こうなるような予感がしていた。

 あの事件は異常だ。遺体を持ち運んで隠蔽する為でも、被害者の身元を隠す為でも、強い恨みを晴らす為でもなく、まるで虫の死骸に悪戯して遊ぶ子供のように、絶命している被害者の身体を傷付け、侮辱した。芸術作品でも作るかのように、胸を切り裂き、胸骨と心臓を取り出して、黄金の林檎を埋め込んだのだ。

 それに飽き足らず、自分の身を明かす名刺のように水晶の馬を置いて行った。

 残虐性のみならず自己顕示欲の発露も見られる。

 捜査本部では犯人は女性と目されていた。

 鬼女だと言う者もいた。

 鬼女――鬼、寄る辺を失った魂、正気を欠いた殺人鬼。

 あんな真似をする奴が、まともな人間のはずがない。殺人に快感を覚える倒錯した異常者だ。犯罪心理学は二階堂も大学で履修した。快楽殺人者なら、一人殺して満足するという事はないだろう。欲求不満になって、おぞましい犯行を繰り返す――容疑者すら絞り込めない悔しさに苛まれながら、日々そう思って過ごしていた。

 そして遂に、歌舞伎町のラブホテルで新たに類似の殺人事件が発生した。

 決して待ち望んでいたわけではない。被害者が出てしまった事は本当に痛ましい。犯人を逮捕するに至らず、結果的に危険な殺戮者を野放しにした警察の責任だ。失態だ。実力不足は恥じねばならない。

 だが、これは犯人を逮捕する又と無いチャンスでもある。

 先に現場に入った新宿署の鑑識班から、すぐに簡単な概要を報告するメールが届いた。

 被害者は二十代男性。首には索状痕。胸部がなんらかの刃物で切り裂かれており、胸骨と心臓が取り出され、金色に塗られた林檎が詰め込まれていたらしい。例によって、ベッドは血の海だったと報告書には書かれている。殺害方法、遺体の損壊状態は三鷹の事件と酷似しており、水晶の馬ではなく同質のデザインの牛が置かれていたそうだ。

 同一犯だ――

 前回は水晶の馬だったが、今度は牛。そこに何か重大な意味があるのか?

 水晶の動物の件は秘匿情報のひとつだ。犯人しか知り得ない。つまり、三鷹のラブホテル「アレキサンドライト」での殺人・死体損壊事件を起こした人物の犯行という予想が成り立つ。

 二ヶ月の休眠を経て、殺人鬼が活動を再開したと見るのが妥当だ。

 ひっそりと息をひそめ、隠れ続けていれば、もしかしたら手掛かりが掴めずこのままお蔵入りになったかもしれない。殺人事件の時効は廃止されたが、殺人や強盗などの凶悪事件のみならず厄介な事件は次々と起こる。他の事件に追われて捜査に人員を割けなければ、時効が廃止されたと言えども事実上のお蔵入りは避けられない。

 手がかりの乏しい本件なら、息を潜め二度と犯行を起こさなければ、もしかしたら逃げおおせたかもしれないのに、犯人は狂った欲望を我慢できずに巣穴から出て来た。

 今度こそ必ず逮捕してみせる――

 二階堂は我知らず両の拳を強く握りしめていた。


   ***

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