嫉妬 envy_05

「もう、遺体を動かしてもよろしいですかな?」

 遺体を搬出する際に野次馬からの目隠しになるブルーシートの設置が済んだ、と三鷹署の刑事が報せに来た。榊原医師はカラカラと笑って応じた。

「どうぞ、どうぞ。あらかたここで見れるもんは見たよ。後は研究室で解剖してみて、何が出るかだな。眠剤と違法薬物のスクリーニングはやるんだろう?」

「ええ、よろしくお願いします」

 唐尾係長は食えない顔で頭を下げた。

 遺体を運び出す段になり、二階堂が改めて現場を見渡すと、ベッドのヘッドボード、内線用の電話機の横に、掌サイズのガラスか水晶の馬が置かれていた。先刻、現場を見聞した時には気付かなかった。見落としていたのだ。鑑識の若手を呼び寄せて確かめる。

「これはホテルの備品ですか?」

「いや、支配人に確認したところ、こんなものは無かったそうです。まあ、転売できそうなものなんて下手に置いたら、たちの悪い客は盗んで行っちゃいますよ」

 なるほど、外部から持ち込まれた品というか。

 いつの間にか大利根がすぐ側に来ていた。厳つい顔でベッドボードを凝視しながら、常の聞き取りにくい嗄れ声でぼそぼそと独り言めいた呟きを漏らす。

「黄金の林檎と、水晶の馬か……」

「なんの符牒でしょうね?」

 大儀そうに顔を上げ、大利根は珍しく二階堂と視線を合わせた。

「さあ。異常者の思考なんか読めん……」

 猟奇殺人犯のメッセージがふたつ。

 自分の存在を誇示する為なら、ひとつで足りる。何か意味があるのではないか。

 二階堂が一人黙然と思案していると、すぐ横で、唐尾係長を差し置いて堅城が声を張り上げた。こんな時ばかりはよく通る声が役に立つ。

「緘口令をしけ。黄金の林檎と水晶の馬の件はマスコミに勘付かれるな」

「秘密の暴露に利用するんですね?」

 二階堂は側にいた大利根に確認し、大利根は振り向かず無言で頷いた。

 捜査の都合上、現場の特殊な状況は伏せられる。犯人しか知らない情報は、やってもいないのに自首してくる偽犯人を見分ける為と、自供が信頼できると証明する為に利用されるからだ。犯人しか知り得ない情報の自供は「秘密の暴露」と呼ばれる。

「どうも、この事件は手口がというだけではなく、異常だ……」

「手間取るでしょうか?」

「分からん……」

 大利根は、うんざりした様子で首を回した。グキッと良い音が響く。

「考えたくはないが嫌な予感がする。もしも捜査が難航したら、しばらく家に帰れなくなるな……」

 嫌な予感――

 榊原医師の「この事件は続く」という不吉な予言が脳内で反響する。

 それに流しの犯行の場合、犯人の絞り込みが難しい。被害者の交友関係を洗い物証をいちいち割っているうちに、当の犯人は足のつかない場所に消えてしまう。事件発生から四十八時間以内でホシが割れない場合、事件が未解決になる可能性が跳ね上がるのだ。


   ***


 芋虫のように蠢く影があった。琥珀色の照明が淡く部屋を照らしているが、隅には闇が凝っている。長い間、そいつは横暴な看守だった。やっと頸木から解き放たれる時が来たのだ。ずっと鬱陶しかった。自分を奴隷のように扱い、肉体と精神の自由を奪い、暴力を振るい、搾取し、好きなように凌辱した。与えられた屈辱と痛みは決して忘れない。

 こいつは殺されて当然の男だ。先生もそうしろと言った。だから、こいつが泣いて許ししを請おうが、床に頭を擦り付けて謝罪しようが、許さずやり遂げねばならない。

「彼女を侮辱する奴は許せない」

 そう口に出した瞬間、不意に自分に優しくしてくれた人の顔を思い出して、言いようのない罪悪感が込み上げた。

 自分は、あの人が悲しむ事をしようとしている……

 だけど、もう抜き差しならないところまで来てしまった。ここで中断するわけにはいかない。そんな事は出来ない。もしも許せば、こいつはまた横暴な看守に逆戻りする。以前よりも一層酷く自分と彼女を痛めつけ凌辱するだろう。

 それに、怖気づいたら先生に軽蔑される。それだけは嫌だ。耐えられない。

 感情が高ぶっているのか、泣きたくもないのに涙が零れた。

「最初から、何もしなければ良かった」

 引いては寄せる波のように、透き通った後悔が足元を濡らす。

 好きだったからした事なのに、こんな恐ろしい真似をする羽目になるなんて、思ってもみなかった。

「どうしてこうなってしまったんだろう?」

 あの人は、きっと、すごく泣くと思う。可哀想に。でも、やらなきゃ……

 袖で涙をぬぐい、目の前の芋虫を睨み付ける。

 芋虫は怯え、喉の奥で微かな悲鳴をくぐもらせた。口いっぱいに布が詰められているので、言葉を発しようにも舌が動かないらしい。暗がりでも明るい色だと分かる髪を振り乱して、芋虫――青年は、みっともなく涙と鼻水を垂れ流しながら泣いていた。後ろ手に縛られ、両足もビニール紐で一纏めにされている。助けを求めて後ずさりするがすぐに壁に阻まれる。壁いっぱいにボッティチェリのビーナスの誕生が描かれている。印刷された大量生産品。ラブホテルらしい安っぽい装飾だ。

「彼女を侮辱する奴は許せない」

 復讐者はもう一度同じ言葉を繰り返す。まるで、それさえ唱えていれば他には何も考える必要はないと妄信している狂信者のように。

「大事にしてもらって、何が気に入らなかったんだよ。愛されてるのに、なんで裏切れるんだ。調子に乗りやがって。自分は特別だと思ってたんだろう。だから何をしても許されると思ってたんだろう。ふざけるな。なんで、おまえなんかを……ッ!」

 目の前の芋虫が、この期に及んで命乞いの土下座をする。手足の自由を奪われて不格好な土下座になっているが、それでも額を床に擦り付けて、必死で許しを請う。

 まったく、つくづく救いようのない奴だ。

 復讐者は両手を握りしめて荒い息をつき、それから、諦めたように力を抜いた。

「罪は償われねばならない」

 首を締める為に用意した短いロープを手に取ると、ひっ、と芋虫は喉の奥で惨めったらしい悲鳴を上げた。

 どうしようもなく自分本位な奴だ――

 今や復讐者となった自分が、かつて同じように怯えて、同じように喉の奥でくぐもる悲鳴を上げた時、こいつは笑って取り合わなかった。それどころか、嗜虐心を刺激されでもしたのか、興奮したよ、と嘯き、やめてくれと哀願する獲物をより一層乱暴に嬲り、痛めつけた。頭を押さえ付けられ、背後からいいように弄ばれる絶望を、こいつにも味わわせてやりたい衝動に駆られたが、復讐者はその衝動を飲み込んだ。どのみち、それは出来ない事だ。

 思いのままに振る舞えない腹いせに、芋虫の横腹を思い切り蹴りつけてやった。ぐっ、と呻いて芋虫はみっともなく体を痙攣させる。

「いいかげん、自分が悪かったって分かれよ。自業自得だろ、クズ野郎」

 これから偉大な業を為そうというのに陳腐な台詞が鼓膜を打ち、復讐者はハッと目を見開いて首を横に振った。

 ああ、違う。彼が口にしたのは、こんなつまらない台詞ではなかった。きちんと彼のように振る舞わなければならない。

 なぜなら、自分は彼になり替わるのだから……

 彼になり替わる。

 完璧に彼を再現して見せる。

 そうでなければ、先生に合わせる顔が無い。

 少し記憶を探らなければならなかったが、何度も読んで魂に馴染ませた言葉なのですぐに思い出せた。

 確か、彼は、解体される被害者を前に、こう言った。

「為すべきことは、粛々と為されねばならない」

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