嫉妬 envy_04

 そうこうするうちに、提携する大学から派遣されてきた検死官の医師が、白衣に着替えて遺体の確認を始めた。榊原検死官は来月七十歳を迎える。総白髪で枯れ木のように痩せてはいるが、いまだ矍鑠とした老博士だ。分厚い老眼鏡を何度も押し上げながら、手際よく遺体の状態を検めていく。

「所見は?」

「まあ、殺人なのは間違いないね。角膜はまだ濁っていない。死後七から八時間といったところかな。今、十一時だから、死亡推定時刻は夜中の三時から四時だね。血液が流出しているからさほどではないが関節に死斑が出ているし、死後硬直も進行している」

 榊原医師はラテックスの手袋をはめた手で遺体の右腕を軽く揉み、硬直具合を確認してから、視線を遺体の首回りに移した。

「頸部に索状痕がある。これが死因かな。首を絞めて殺害した後、サバイバルナイフのような刃物で胸を裂いたんだろう。四方のどの壁にも血飛沫が散っていないから、心臓が止まった後でナイフを刺したんだと思うよ」

 なるほど、と誰かが言った。確かに部屋の壁はどこも汚れていない。血の汚れが残っているのは、遺体の損壊場所になったであろうベッドと、床だけだ。

「手首にも紐状の物で縛られた痕があるな。被害者は拘束を外そうともがいたんだろう。擦過傷になっている。足首にも同じような痕があるな。ううむ、どうやったのかな。酒か薬物で酩酊させて、拘束してから扼殺したってところか。息の根を止めてから遺体の損壊に及んでいる、と……」

 榊原医師の解説は続く。

「肋骨との間にある軟骨――この半透明に見えるのが軟骨だ。よく見ておきなさい。ここにナイフを刺して肋骨との連結を外して、それから胸骨を取り外して、最後に心臓だけを選んで取り出している。胸骨の外し方は、ちゃんとした解体の手順だね。鹿狩りでもやったことがあるのかな。いや、でも手並みは悪いな。切り口がずいぶん乱れている。何度も刃物を抜き刺しした証拠だ。解体は初めてかもしれん」

「犯人は返り血を浴びていますよね」

「どうかな。さっきも少し言及したが、心臓が止まってからだと血は勢い良くは噴き出さない。まあ、浴びたかもしれんが、よほどのバカでなければ服は脱いで裸で作業したんじゃないか。服を汚しさえしなければ、例え血を浴びても、ここならシャワーで流して何食わぬ顔で出て行ける」

 二階堂は、血塗れの遺体と現場を見るうちなんとも言えない違和感に囚われた。それで、つい疑問が口を突いて出た。

「場所柄から犯人ホシは女性と考えるのが自然ですが、先生はどう思われます?」

 榊原医師は二階堂の顔を真正面から見て、にやりと笑った。

「こんな場所で男が殺されてるんだ、女に決まってる……と言いたいところだが、よくよく注意しなさい。物証も無いのに決め付けるのは予断になる」

「予断になりますか」

「なるな。細かい事はこれから君たちが捜査するんだ。思い込みに囚われず、無心に探求せねばならん。まあ、これは軽口になるが……」

 新人をたしなめるように、榊原は二階堂の肩をポンと叩いて、続けた。

「女だとしたら、とんでもない鬼女だな」

 ひゃひゃひゃ、と笑ってから、「すまん、不謹慎だった」と榊原は片目を瞑る。

 今はまだ犯人の人体にんてい――外見的特徴は何ひとつ分かっていないのだ。男か女かもわからない。これから捜査が始まる。無心に事実を――犯人を追わねばならない。

 とは言え、やはり犯人は女だろうという感情が場を支配していた。この状況では、どうしても女の犯行としか考えられない。

「あの……予断を注意された直後にはし辛い質問なのですが……」

 二階堂の質問に、榊原医師は心なしか嬉しげな表情を浮かべた。

「言ってみなさい」

「犯人は被害者に特別な感情――例えば恋愛感情などを抱いていたと思いますか?」

 捜査の定石だ。被害者と鑑──交流のあった人物をまず疑う。殺人事件の九割は利害関係や愛憎関係があった顔見知りの犯行なのだ。

 財産目的、怨恨、痴情のもつれ……

 今回は、男女が情交を持つ場所で、男が殺された。二階堂は自然と阿部定事件を思い浮かべていた。見透かしたように榊原医師は言う。

「この事件は阿部定とは毛色が違うぞ。阿部定は切り取った性器を持ち去った。この犯人は逆だ。せっかく取り出した心臓をほっぽり出して捨てて行ってやがる」

「普通は持って行くものですか?」

「バカもん、こんな凶行に普通も糞もあるか」

 榊原医師は手にしていたクリップボードの裏で二階堂の頭を叩いた。痛てっ、と言いつつも、二階堂はほんの少し気分を和らげる。会うのは二度目だが、榊原医師には邪気が無く、多少の乱雑さも心地良い。

「人間は目的がなければ面倒なコトはしない。バラバラ遺体だって隠蔽し易くする為に持ち運べる重さと大きさにしようと切り刻んでいるんだ。ちなみに、その場合は大抵、最初に首を切り落とす。死者が甦るかもしれないという強迫観念が働くらしい。憎くて傷付けたいならもっと乱雑に、それこそめった刺しにするだろう。こんな風に胸を開くのは見たいからだ。あるいは、欲しい臓器を取り出す為――なのに、せっかく取り出した心臓を置いて行っている。理屈に合わない。つまり、別の目的があってやったと推察できる」

「どういう意味です?」

「胸骨と心臓が取り出されているが、目当ては心臓を取り出す行為そのものだったと考えられる。胸骨は心臓を取り出す際に邪魔だっただけだろう。損壊の目的は心臓と黄金の林檎を入れ替える事だった。そんなところじゃないかね……」

 榊原医師は、ふう、と息を吐き、奇妙な事を言い足した。

「犯人は、この遺体に愛着が無い」

 その言葉を聞いた途端、ぞわっ、と鳥肌が立った。

 遺体に愛着が無い。それは、無機質で、どことなく人外の冷たさを思わせる。

 犯人は、いったいどんな人物なのか――

 唐突に榊原医師は今まで一度も見たことの無い渋面で言った。

「予断を注意した後に直感で言うのもなんだが、この事件は続くぞ」

「何故です?」

「猟奇的だからだ」

 怪訝に思い、二階堂は榊原医師の表情を探ったが、特別な色は見い出せなかった。

「それだけ……ですか?」

「FBIプロファイリングの創始者ロバート・レスラーは、一九七八年にリチャード・チェイスが起こした俗称バンパイア・キラー事件で、テリー・ウォリンという女性の惨殺死体を見て『事件は続く』と予言した。こんな真似をする犯人は異常だからだ。妄想性サイコティックあるいは妄想性統合失調症の疑いもある。そうでなければ、暴力的かつ破滅的なカルトの教条ドグマに盲目的に従う狂信者か。とにかく、内なる声に突き動かされて儀式的に猟奇殺人を行っている可能性が高い」

 思わず二階堂は期待を込めて榊原医師の目を覗き込んだ。

「そのプロファイリングで犯人像が分かりませんか?」

「難しいな」

 榊原医師は曖昧な渋面で皮肉な微笑を作った。

「プロファイリングは透視のような超能力ではない。過去のデータから類似性の高い犯人像を導き出すシステムだ。残念ながらと言うべきか、幸いと言うべきか、日本には猟奇殺人の十分なデータの蓄積が無い。FBIのプロファイリングシステムが構築される以前に、クレッチマーの一万人分の精神病患者のデータから、マッド・ボマーことジョージ・メテスキーの人体を言い当てた、精神科医のブラッセル博士という人物もいたが……誰もがブラッセル博士になれるわけではない」

 煙草を吸いたそうに榊原医師は白衣の下の胸ポケットに手をやりかけたが、その手を二階堂に押し止められ、現場を煙草の灰で汚染できないことに気付いてうんざり顔で首を横に振った。溜息と共に言葉を続ける。

「遺体を損壊し殺害現場に乱雑に放置していく手口は精神疾患か低い知能で思考の混乱した無秩序型に見えるが、整然とした知性に立脚した計画性も伺える。わざわざ金色に塗った林檎を用意して来ているし、おそらく凶器も持参していて、しかも持ち去っている。それは秩序型の特徴だ。つまり混合型ということになるが……まあ、定型的な無秩序型も秩序型もほとんどおらず、多くの猟奇殺人犯が混合型に分類されてしまうんだよな。その点ではFBIのプロファイリングシステムは批判されている」

「はあ、そうなんですか……」

 期待通りには行かないらしい……

 榊原医師の語るプロファイリング関連の説明に出て来る用語や人物名はさっぱり分からない。ピンと来ないまま、二階堂は遺体を凝視する。

 司法解剖に回すので、必要以上に遺体には触れてはいない。したがって胸部に突っ込まれた異物の林檎は、そのままにされている。血の海に浮かぶ遺体。蠟のような色になった肌は、あまりにも強く死を意識させ、本能的な恐怖を呼び覚ます。その生命の抜けた人形のような遺体の胸元――薄い脂肪と筋肉が鮮やかな層になった断面と、相反する人工的な黄金の林檎とが目に付き、クラクラと目眩がした。

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