嫉妬 envy_03
ホテルのロビーは、外とは打って変わって快適な冷気に満たされていた。
ソファに座って待機していたらしい赤い髪のブルドッグのような男が、八係の面々の足音にパッと顔を上げ、ぺこぺこと頭を下げながら近付いてくる。唐尾係長が軽く挨拶をして名刺を差し出すと、相手も支配人だと名乗り陳腐な名刺を胸ポケットから出した。
一通り紋切り型の事情聴取が済んでから二階堂はおもむろに切り出した。
「防犯カメラの映像を見せて頂けますか」
「え……!?」
支配人は弱り切ったように頭の後ろを掻く。
「それが、その……故障していまして」
「故障? まさか、ずっと故障していたわけではないですよね。それとも、元々防犯カメラは設置していなかったとか……設備投資の節約でそういう事をする宿泊施設も多いんです。こちらのホテルは大丈夫なんでしょうね?」
「いや、それはその、設置はしてあるんですが、修理が間に合わなくて……」
「そんなだらしない管理で大丈夫なんですか。他に条例違反はやってないでしょうね」
責め立てられ身を縮める支配人を庇うように、二階堂の斜め後ろに控えていた堅城が大仰な仕草で割って入る。
「主任、今はそんなコト言ってる場合じゃねえよ」
呆れ声で言われ、二階堂はハッと堅城のほうへ顔を向けた。堅城だけではない、八係全員の冷たい視線が突き刺さっていた。
またやってしまった。
前振りなく本題に入ってしまうのは彼の悪い癖だ。大上段に切り込んでは市民の口は重くなる。喋りたくなるよう上手く仕向けろと教えられても、なかなか言われた通りに出来ない。ただでさえも仲間に反発されているのに、この上、市民にまで嫌われては捜査ミスに繋がる。二階堂は我知らず溜息をついていた。
自分でも、第八係の仲間から「生真面目で融通が利かないお坊ちゃま」と陰口を叩かれていることを重々承知している。三十四歳になるのに「お坊ちゃま」は堪える。
二階堂は学生時代から何でも四角四面に片付けようとして、都度、仲間との間に軋轢を生んで来た。警察組織は結束が命だ。相方と気心が通じていなければ額面以上の仕事はしてもらえない。このままでは孤立して失態を犯すのでは、という危惧がある。
だが生来の気質はどうにもできない。
「もういい。現場を確認しに行こう」
唐尾が手振りで促すと、堅城は嫌味ったらしく肩を竦め、他の全員は黙って従った。
***
遺体が放置されていた部屋に入った瞬間、全員が息を飲んだ。
「酷いな……」
血塗れで凄惨な現場に誰もが嫌悪感を示す。被害者の遺体は、前もって三鷹署の刑事から聞いていた通り、胸部を切り裂かれて胸骨と心臓が取り出され、ぽっかりと空いた穴に金色に塗られた林檎が突っ込まれていた。
ベッドは血の海だ。
無造作にシーツの上に放置された臓器と骨は生々しく、生臭く饐えたような、それでいて微かに甘い、濃密な血の臭いが立ち昇っていて、二階堂は吐き気を覚え思わず口元を押さえた。二階堂が軽く
「吐くなら外で吐いてくれよ。情けない」
二階堂は辛うじて吐き気を堪えた。せめてハンカチを口元に当てたい。感染対策を考えればむしろ周りの態度の方が間違っているのだが、誰もそんな真似はしていない。全員で遺体に手を合わせて現場の見分を始める。
部屋は特に乱されておらず、争った形跡は無い。血が滴っているベッドの脇に、廊下にあったものと似たような赤い筋が見える。血の跡――いや、血塗れの足跡を拭いた跡かもしれない。遺体が横たわり血の海になっているベッドと、血の汚れが残った床の他には目立った異変は無い。壊された備品は無いようだし、カーテンや窓、引き戸にも傷や血の汚れは無く、部屋の端に設置されたテレビも動かされた形跡は無かった。被害者の物とみられる衣服はソファの上に脱ぎ散らかされた様子で放置されていた。自分で脱いだのか、他の誰かが脱がして放り投げたのか、どちらかだろう。念の為に確認したが、サービス品の缶珈琲とミネラルウォーター、それにコンドームにも手は付けられていない。ベッドサイドのゴミ箱の中も覗き込んでみたが何も入っていなかった。
二階堂は顎に指を当て生真面目な文言で推察を述べた。
「情交の前に殺害されたということか……」
ちっ、と堅城は舌打ちする。
「まだるっこしいな。そこは、セックスする前に殺されたでいいんだよ」
堅城に絡まれ、何と返していいのか戸惑っていると、タイミング良く鑑識課の若手が近付いて来た。二階堂はホッと息をつき、報告を促す。
「被害者の身元はすぐ確認できると思います。おそらくガイシャの所持品と見られるカバンが残されていました。免許証と社員証が入っています」
ふむ、と頷いて唐尾係長は差し出された免許証を白手袋をはめた手で受け取る。
「三嶋和臣、渋谷区在住、二十七歳か」
鑑識課の若手に差し出された免許証が八係の全員に回される。二階堂には最後に回って来た。手に取ってまじまじと見比べる。免許証の写真と、恨めし気に目を剥いた遺体の顔は、同一人物であることは理解できても、まるで印象が違った。免許証の被害者は切れ長の目で少し意地が悪そうに見えるが標準以上の美形だ。生きていた時はさぞ女性にモテたであろうに。
「仏さん、イケメンだな。まあ、二階堂主任ほどじゃないが……」
堅城が妬みを滲ませた声で言う。
「ありがたい。この免許証、偽造ではなさそうだな……」
ぼそり、と聞き取りにくい嗄れ声が聞こえ振り返ると、八係の最年長刑事、五十六歳の大利根が常の苦虫を噛み潰したような顔で額に滴る汗を拭っていた。しわくちゃの官給品のスーツを何日も替えずに着続ける、角張ったガタイに胡麻塩頭を角刈りにした昔ながらの強面デカである。もう少し何か言うかと思ったが、それ以上は何も言わない。裏取りを待つ必要はあるが、ベテランの大利根が言うのだから、十中八九、免許証は本物だろう。
唐尾の指示で、鑑識によってビニール袋に入れられ、テーブルの上に並べられたカバンの中身を八係の全員で一通り検分することになった。
財布、六万三千五百二円の現金、免許証、保険証、総合病院と歯科医院の診察券、革製のケースに入った社員証、交通系ICカード、ハンドタオル、ポケットティッシュ、ボトルガム、手帳とボールペン、数枚のレシート、それから携帯端末が二台。
「端末二台持ちか。何に使い分けていたのやら」
堅城がまたも言わずもがなのことを言った。
「犯人の遺留品は?」
唐尾が監察課の重鎮、
「もっとも際立っているのは、それでしょうな」
指差されて、改めて遺体を見る。
切り裂かれた胸部の暗い穴の奥で、異様な存在感を放つそれ。
黄金の林檎――
なぜここにあるのだろうか、と思わず不思議な気分になる。神話的にも思える黄金に輝く林檎は、凄惨な殺人現場には似つかわしくなかった。
「金色に塗られた林檎か。これは……ペンキですかね?」
疑問を向けられて、百道は渋い顔をして手袋をしたままのゴツイ手で凝った自分の肩を揉んだ。気の張る仕事のせいで疲労とストレスが溜まっているのだろう。
「それが何かは鑑定してみないと分かりませんが、見る限り油性の塗料ですな。筆の跡は無い。おそらくスプレー缶、ラッカーの類。塗りむらがあるから普段から塗料を吹き付け慣れている奴ではないでしょうな」
「塗装工やプラモデルマニアではないと」
「一概には言えませんがな」
「林檎に指紋は残っていますか?」
「分からん。見て分かるものは今のところ無い」
「指紋と毛髪は出ましたか?」
百道は渋い顔を益々渋く顰め、怒ったように息を吐き出した。
「場所がマズイ。そりゃ指紋と毛髪は出るよ、それこそ何十人分も。指紋は新しい物だけ選別出来るが……物証が多いとかえって難航することも有り得るぞ」
どうやら八係は、気を引き締めて仕事に当たれ、と釘を刺されているようだった。
ラブホテルのような宿泊施設で事件が起きた場合、殺人や傷害は犯人が被害者と鑑があれば早急に犯人を逮捕できる一方で、流しの犯行だとホシを割るのに手間取る場合もある。酒を飲ませて被害者が意識を失っている隙に金品やカードを奪う昏睡強盗や、「俺の女に手を出しやがって」と難癖をつけて慰謝料の名目で金を脅し取る美人局などは、ナンパに見せかけて被害者を物色する行き当たりばったりの犯行が多く、ホシが割れにくい。
美人局や昏睡強盗ではないだろうと二階堂は考えていた。被害者の財布は約六万円の現金が入ったまま残されており、高額での転売が可能な携帯端末も二台、カバンに入ったままになっていた。金品目当ての犯行ではないだろう。
怨恨か、快楽殺人を行う異常者か……
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