嫉妬 envy_02

 え、と若い巡査二人は顔を見合せた。初めての事態で理解が追い付かない。

 殺人? 本当に、ここで――?

「血の海ってどういうことですか?」

「胸を切り裂かれてるんだよ!」

「本当ですか?」

「ああ、本当だっ!」

「そりゃぁ……大事件じゃないですか……?」

 胸を切り裂かれていると言うなら、損壊死体だ。猟奇殺人――?

 どんな反応をすべきか分からず、ぼんやりとした反応になる。二人の若い巡査は血塗れの部屋と無残な死体を見ていないので実感が湧かないのだ。

「ちょっと、現場を確認してきます」

「よせ! やめておけっ!」

「どうしてですか?」

「見なくて済むなら見ないほうが良い。俺はしばらく悪夢を見そうだ」

 巡査長は再び嘔吐えずき、手袋をはめたままの手で口元を押さえた。冷房が利いていて寒いほどなのに、額と背中にはびっしょりと汗をかいていた。

「参った。こりゃあ本庁が出張って来るな……」

 殺人などの凶悪事件が発生した場合、その地域を管轄している警察署だけではなく、警視庁の凶悪事件を専門にしている「刑事部捜査一課」が主導して数十人規模の捜査本部(特に重大な事件はより捜査員の数を増やして特別捜査本部になる)を立ち上げ、捜査を担当することになっている。捜査本部は帳場と呼ばれる。

 帳場が立てば新宿署の捜査員は道案内のサポート扱いされ、捜査は強行犯係と呼ばれる捜一エリートの独壇場になる。年配の巡査長は、交番勤務の地域課に異動する以前、三鷹署の刑事課に席を置いていたこともある。その間にも管轄地域で殺人事件が起こった。赤バッチと呼ばれる本庁捜査一課の刑事たちが出張ってくるのは、すでに経験済みだ。自分たちのシマに奴らがデカイ顏で居座るのは、あまり気分の良いものではなかった。

「どうですか? やっぱり死んでますか?」

 赤い髪のブルドックが、おどおどしながら訊かずもがなの事を訊く。もちろん死んでますよ、とは言えず、巡査長は渋い顔で呻きながら頷いた。

「お気の毒です」

 唐突に、ああああぁ、と赤い髪のブルドックは頭を抱えて盛大な呻き声を上げた。

「畜生、やっぱり死んでますかぁ。俺はチラッと見ただけなんで、もしかしたら気絶してるだけかもと期待してたんですけど……ダメかぁ、参ったなぁ。この部屋、内装高かったのに。ベッドもあれじゃ、もう使い物にならないかなぁ」

 遺体の凄惨さより部屋が台無しにされた事のほうが気になるとは、人並みに仏さんを哀れむ気持ちは無いのか――

 巡査長は不謹慎な男をじろりと睨んだが、通報者はぶつぶつ言いながら現場になった部屋に入り込もうとする。慌てて若い巡査が遮った。

「あっ、もう中に入らないでください」

「なんでですか、ここは俺のホテルですよ」

「鑑識班が来て証拠を採集しますから、これ以上現場を荒らさないで」

 納得のいかない顔の支配人に、若い巡査は苛立ちを隠した曖昧な微笑で説明する。

「犯人の指紋や足跡がその辺りに残っているかもしれません。専門でない人が現場に入ると、大事な証拠を台無しにしてしまうかもしれないでしょう」

「犯人!? それって、やっぱり殺人事件ってコトですか!? ああ、糞っ、最悪だ。この事件がニュースになったら益々客が来なくなっちゃう。まだローンが残ってるのに、なんだよ、もう、どうしろってんだよ……」

 商売の心配をする支配人の横で、腹上死なら羨ましいとふざけていたもう一人の若い巡査が、場違いにぼんやりした声で呟いた。顔色は蒼白になっている。

「殺人なら殺人って言ってくれないと……」

 赤い髪のブルドックはガバッと顔を上げ、巡査の顔を凝視した。警察を出迎えてから、初めて、信じられないモノを見るような、人間らしい驚愕の表情を浮かべていた。

「言いましたよ。一一〇番した時にも何度もヤバイって言ったじゃないすか。最初に客の様子見に来たバイトなんて、この部屋の中見て吐いちゃって」

 最後の一言に年配の巡査長が狼狽をあらわにする。

「吐いた? どこで?」

「この部屋のトイレですけど」

「ここで吐いたの? なんだよ、それじゃ現場が汚染されてるじゃないか。証拠が消されてるかもしれん。参ったな、もう」

「カワさん、こういう場合、どうするんでしたっけ?」

 後輩に問われて、巡査長はようやくすべき事があると思い出した。

「鑑識がくるまで現場の保全。急いでホテルの入口を封鎖」

「そうでした。テープ持って来ます」

「あの、それで、うちはこの後どうなっちゃうんです?」

 巡査はううむと首を捻った。何も確実な事は言えない。しばらく営業は出来ないだろう。今とて流行っているようには見えない古びたラブホテルだ。もしかしたら事件のせいで早晩、潰れることになるかもしれない。事件現場になってしまった店舗や建物のオーナーには、いつも気の毒だと同情しているが、営業に関しては警察に出来る事は何も無い。巡査長は、もうブルドック顔の支配人に視線を向けなかった。

「残ってる客に話を聞かせて貰いたいんですが、もう残ってはいないでしょうな」


   ***


 立入禁止の黄色いテープがベタベタと貼られ、いわゆる規制線が張られた現場周辺には早くも野次馬が集まり始めていた。物見高い近隣住民は何が起こったのかと、警備に立った巡査長と二人の巡査に詰め寄る。

「お巡りさん、何か事件ですか?」

 いかにも暇を持て余した風の薄い髪を黒々と染めた中年男性に問い掛けられて若い巡査は苛立った。男はたまたま仕事が休みなのか、はたまた求職中なのか、発泡酒の入ったコンビニ袋を手に提げて、珍しい事態に興味津々で目を輝かせている。無視していると、横合いから太った狸のような中年女が顔を突き出してきた。

「こんな古いラブホテルに泥棒でも入ったの? それとも強盗とか? ねえ、何が起こったのよ? ケチケチしないで教えなさいよ。善良な市民には知る権利があるのよ」

 興味本位で他人の不幸を娯楽にしている悪趣味を棚上げして、善良な市民面とは聞いて呆れる。

 真夏の太陽がアスファルトをじりじりと焼いている。輻射熱のせいで、日陰にいてもまるでサウナに入っているように蒸し暑い。汗が背中と脇と股の間をぐっしょりと湿らせていた。せめて湿度が低ければカラッとするのだが、台風が近づいているらしく大気は酷く湿り気を帯びていて、不快指数は極限になっている。ただでさえも苛々しているのに、野次馬の人いきれと暴言めいた詰問まで加わって鬱陶しい。

 拳銃で撃ち殺してやりたい――と思いかけた時、やっと応援が到着した。

 本署に連絡して、三十分ほどでの到着だ。警視庁からは真っ先に機動班が到着し三鷹署の事件番だった刑事課の人員と共に現場を確保した後、監察課の鑑識班が物々しい重装備を携えて到着し証拠の採集を始めた。そうして小一時間も経たないうちに、この事件の捜査を割り当てられた捜査一課強行犯捜査第八係が派遣されてきた。

 警視庁捜査一課の刑事と言えば俗に赤バッジと呼ばれる、強盗・殺人など凶悪事件の捜査を専門に受け持つ精鋭たちだ。


   ***


「邪魔だ、どけ」

 黒いセダンとワゴンから、黒づくめの男たちが十人、ぞろぞろと降りて来て、野次馬をかき分け肩で風を切って歩いて行く。

「すいません、道を開けてください」

 粗野に怒鳴りながら歩く筋者と見紛う強面の男たちの中に、一人、やけに身形の良い青年が混じっていた。

 端的に表現して『イケメン』だ。仕立ての良いパリッとした三つ揃えのスーツを纏って颯爽としている。ネクタイも洒落ており、官給品のくたびれたスーツを着ている他のいかつい中年男たちの中では浮いていた。背が高いが威圧感は無い。真面目で誠実な好青年といった雰囲気だ。

 野次馬の中から中年の太った主婦が「あら、良い男」と年甲斐もなく嬌声を挙げる。それを耳にした日焼けしたチンピラ風の刑事は聞こえよがしにチッと舌打ちをした。

「二階堂主任、相変わらずモテますな」

「はあ……」

 同僚から投げつけられた粘着質な敵意を理解しながら、イケメンの刑事――二階堂にかいどう崇彦たかひこ警部補は敢えて鈍感の朴念仁を装って先へ進んだ。

 年齢は二つ上だが階級は二つ下の同僚堅城けんじょう裕二ゆうじ巡査から、こんな風に絡まれるのは珍しくもない。

 堅城は二階堂と違って高卒の現場叩き上げだ。二歳上なので現場経験は二階堂より六年も長い。大卒で敢えて地方公務員ノンキャリアの道を選んだ二階堂を「昇進試験が得意なだけの奴」と見下している節がある。空手で鍛えた分厚い筋肉を鎧う嫌味なほどに男らしい男で、何の因果か酷い悪人面、到底、女性から気軽に声をかけられるタイプではない。

 だから幾分か女性受けの良い自分に嫉妬しているのだ――と、二階堂は浅く片付けるようにしていた。いちいち取り合ってはいられない。

「全員揃っているか?」

 係長の唐尾かろ藤一郎とういちろう警部は、現場であるラブホテルに入る前に一旦立ち止まり、従えて来た一課の部下全員の顔を一通り見渡すと、日頃から折り合いの悪い部下二人──二階堂と堅城のところで視線を止め、ぴくりと左の眉だけを上げた。血の気の薄い能面のような無表情だが、やれやれ、という表情に見える。

「気を抜くなよ」

 華奢な痩身で小柄。髪は撫でつけたオールバックで、事務方専門に見えるが合気道の達人で逮捕術も優秀だと一課でも専らの評判だ。何を考えているのか分からない狐のような顔をしているが、細かい事にも気が回り部下の信頼も厚い。

 九人の部下は声を揃えて、はい、と応えた。

 捜査一課の到着を待っていた三鷹署の刑事の一人が慌ててむさ苦しい面々に駆け寄る。

「出向、ご苦労様です」

 唐尾係長が一歩前へ進み出て応対する。

「現場の状況は?」

 本署に連絡が行って三十分ほどで、警視庁からは真っ先に機動班が到着し三鷹署の事件番だった刑事課の人員と共に現場を確保した。その後、監察課の鑑識班が物々しい重装備を携えて到着し証拠の採集を始め、小一時間も経たないうちに、この事件の捜査を割り当てられた捜査一課強行犯捜査第八係が派遣されてきたのだ。

「先に鑑識班が入って臨場を行っています」

 聞くまでもない情報に唐尾係長は丁寧に頭を下げた。

「そうですか。ご報告ありがとうございます。本庁の唐尾藤一郎警部です。しばらくお世話になります。よろしくお願いします」

 三鷹署の刑事は面食らったように目を見開いた後、慌てて大仰に頭を下げる。礼儀正しい赤バッジは初めて見た。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 三鷹署の刑事は、本庁組をホテルの奥へ案内しながら、捜一組で一人だけ浮いている二階堂の外見に密かに眉を顰めた。服に気を遣うような男はどうにも信頼できないのだ。

 嫌な予感がする。捜査が難航しなければいいが……

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