黄金の林檎を抱く殺人鬼

THEO(セオ)

【序章/嫉妬 envy】

嫉妬 envy_01



 乳白色の胸骨は、肋骨との間の軟骨をナイフ状のもので割いて取り外されていた。軟骨は鈍く澄んだゼリーに似ていて、刃先が迷ったのか切り口は幾分乱れている。贅肉の少ない薄い胸だ。解体はそう難儀ではなかっただろう。クリーム色の脂肪層の下、健康な筋組織は深い薔薇色で、断面は二層になったパイのアパレーユのように綺麗だった。パーツはすべて揃っている。時折、怯えて手が震えたように皮膚に当てた刃の跡が二重になっているが、それでも誤って傷付けられた臓器はない。消化器官の内容物が零れて遺体を、あるいは自分の爪を、汚染するのを慎重に避けたのかもしれない。

 ただ、心臓だけが取り除かれていた。

 かわりに、瑞々しく薫り高い艶めいた金色が胸に灯る。

 そこにあってはならない異質なもの。なのに、それは酷く美しかった。

 黄金の林檎。

 最も美しい女神へ――と、悪意ある詩を添えて投げ込まれた災禍わざわいの果実。三人の女神が黄金の林檎を巡って争い合い、延いてはトロイを滅ぼした。抗えぬ優越と驕慢への誘惑。

 さもなくば回春の女神が育む不老不死の果実。永遠の若さと幸福への淫らな欲望。

 心臓があった場所には、その林檎が埋め込まれていた。

 為すべきことは、粛々と為されねばならない。


   ***


 二〇一六年、八月二十日。土曜日。

 東京都三鷹市。駅からほど近い、古いラブホテル『アレキサンドライト』の従業員から一一〇番通報があったのは、午前十時十七分だった。

「はい、警察です。事件ですか、事故ですか」

「事件です。事件だと思います。あの、人が死んでいて……」

 そう言われても電話を受けた警視庁一一〇番通信指令室の若い巡査は取り立てて慌てたりはしなかった。酔って路上で寝てしまった酔漢を、ろくに声掛けもせずに死体と誤認して通報してくる早とちりの市民も多いのだ。いちいち慌てていては上に怒鳴られる。

「詳しい状況分かりますか?」

「無理です。無理ですよ。部屋入った奴吐いちゃって……俺も無理です。あんなところ入りたくない。とにかく早く来てください。こんな時の警察でしょう」

「部屋? 室内で誰かが倒れてるんですか?」

「そうですよ。部屋で死んでるんです」

 通報者の要領を得ない説明に、巡査は苛立ち混じりの溜息をつく。状況は不明。とにかく誰かを現場に行かせるしかなさそうだ。

「分かりました。そちらの住所は?」

 通報者は三鷹市にあるラブホテルの住所を早口で告げ、早く来てください、早くしないとヤバイ、早く、ヤバイ、ヤバイ、と意味不明のことを喚き始めた。軽いパニックを起こしているらしい。これ以上、電話口で何を訊ねても無駄だろう。

「落ち着いてください。すぐに係の者を向かわせますから」

 無線指令台の同僚に素早く目配せすると相手も目礼を返してくる。位置自動報告装置カーロケーターには警邏と巡回に出ている警察車輛の位置が表示されている。

 巡査は電話を繋いだままペンタブレットを操作して、受理台のディスプレイに三鷹署のデータを呼び出す。巡回中のパトロールカーは二番と確認。同僚は大儀そうに無線機に手を伸ばした。

 電話の向こうでは通報者が呪文のように「ヤバイ」と唱えている。巡査は、ふと自分の机の惨状が目に付いて軽い眩暈に襲われた。資料やメモ、ボールペン、開いたままの地図が乱雑に広がり、飲みさしの缶珈琲が二本並んでいる。一本目を飲み終える前に、勘違いをして二本目を空けてしまったのだ。ひどく疲れている。アルコールかニコチンが欲しくなった。ビールを我慢するのは当然としても、昨今の嫌煙ムードで警察署内でも分煙が徹底され喫煙室でしか煙草も吸えない。古参の警察官は始終愚痴っているが、若い警察官の喫煙率はさほど高くなく、愛煙家仲間は少ない。黙認されている中高年ならいざ知らず、若い身では煙草休憩には立ちにくい。気を楽にしてくれる紫煙はしばらくお預けだ。軽く頭を振って集中を取り戻す。と同時に同僚の声が耳に届いた。

「本部から三鷹PC2。ラブホテル『アレキサンドライト』より、室内で人が死んでいるらしいとの通報あり。詳しい状況は不明。ただちに現場へ急行せよ」

「こちらPC2、了解しました」

 三鷹署所属の警察車輛二号車から咳込むような応答があり、一一〇番通報を受けた巡査は、後は三鷹署の警察官が現場に到着するまでの数分を、通報者を宥めてやり過ごすことになると思い、同僚に気付かれないよう溜息をついた。


   ***


 三鷹PC2に搭乗していたのは、初老の巡査部長と若手の巡査が二人だった。

 午前十時三十分には、ラブホテル『アレキサンドライト』に到着。現場は三鷹駅北側の雑然とした地域にある古い五階建ての中層ビルだ。大通りから一本脇道に逸れた飲食店やその他店舗の少ない通りにあり、周りは安っぽいオフィスビルの裏口か、倉庫、廃屋と見紛うばかりの古い個人の住宅と、階段に鉄錆の浮いたモルタル建てのアパートで、入口付近の人通りは多くない。

 住宅街なのでさすがに派手なネオン看板は無かったが、ビルの外壁に元は白かったであろう浮彫状のオブジェが張り付けられており、翼を生やした裸の子供──いわゆるキューピッドが、埃と排気ガスのせいで灰色に汚れた惨めな様子で弓に矢をつがえていた。

 お義理のように立てられた薄い壁が入口の一応の目隠しで、ポーチの横には水の止まったローマ風の噴水がある。不潔な水の底には緑色の藻が繁殖し、どこから来たのかしれない泥も溜まっている。ホテルの看板は目立たない合金製のプレートで、宿名と料金が小洒落た書体で彫られており、休憩三千円、宿泊は八千円だった。

「華やかなムードの場所ではないな」

「若い女の子を連れ込むには、ちょっと……ですね」

「設備も古そうですよね」

 築三十年は経っていそうだ、と年配の巡査長は思った。

 古い宿泊施設には澱のように陰の気が溜まる。オカルトは信じないが、映画や小説などで恐ろしく忌まわしい事件が起こるのは、大抵古い建物だ。降り積もった年月がすすけた翳りを作り、それが魔を引き寄せるのか、それとも単純に、打ち捨てられたような雰囲気が陰惨な罪を企んでいる犯人の暗いイメージに合致するのか……

 ただし、現実の犯人は犯行現場を選り好みしない。真新しいホテルや賃貸マンションが殺人現場になり、事故物件と化し価値の下がった不動産を抱えて泣くオーナーも多い。築年数と事件の多寡に因果関係は無いのだ。

 だが、それでも、古い場所には不吉が漂う。

「客が死んでるって通報でしたけど、コロシですかね?」

 若い巡査が緊張を誤魔化すように首を撫で回しながら言い、もう一人の若い巡査は不必要に明るく笑った。

「まさか。コロシならそれらしい通報してくるもんですよ。現場の詳しい状況は不明なんでしょ。死んでるかどうかも怪しいもんです」

「通報者の勘違いならいいな」

「でもラブホで死んでるなら腹上死でしょう。羨ましい」

「不謹慎だぞ」

 年配の巡査長に叱られ、若い巡査は肩をすくめる。目上に失礼な態度だが、最近の若者は厳しく指導すると逆恨みするか辞めてしまう。パワハラだと騒がれるのも面倒で、巡査長は見ないふりで手を振った。

「急ごう。通報者が待っているはずだ」

 三人が歩を速めたちょうどその時、まさにその通報者らしき男が蒼い顔をしてフロントドアから走り出て来た。年齢は三十代半ば、くたびれたタキシードもどきの制服に、道化めいた赤い蝶ネクタイを締めた小太りの男。髪を赤く染めているが、不摂生をしているのか、頬がたるんでブルドックのようになった顔には似合っているとは言い難い。

「どうも、三鷹署の者です。あなたが通報者? このホテルの支配人?」

 通報者は硬い表情でこくこくと頷き、若い巡査が無線機で本部に連絡する。

「現着しました。通報者を確認。現場に入ります。詳細は追って報告します」

 それを横目で確認し、巡査長はブルドック顔の通報者に声をかけた。

「それで、どうなんです? どなたか亡くなってるんですか?」

「とにかく見てください。部屋マジでヤバイんすよ」

 通報者に急かされ、ガラスの自動ドアをくぐってホテルの中へ入る。

 照明が赤いカーペット敷きのホールと廊下を陰鬱に照らしていたが、ロビーは薄暗かった。受付は従業員と顔を合わせずに済む自動システムで、写真パネルを見て客が好みの部屋を選びルームナンバーの書かれたボタンを押して料金を投入すると、自動販売機のように鍵が受け取り口から出てくる仕組みだ。古いホテルでこの設備だけが浮いている。受付を無人にして客が入りやすいように後付けで改装したのだろう。従業員が控えているはずのフロントはロビーから見える場所にはなく、灰色の内線電話の横に「御用の際は0番で従業員を呼び出してください」と張り紙がしてあった。

「なるほど、フロントで従業員と顔を合わせる必要が無いわけか」

 年配の巡査長は訳知り顔で何度も頷く。その横をせかせかと通り過ぎながら通報者は言い訳するような調子で言った。

「そうですよ。だから俺達なんにも見てないんです」

「ん……何も見ていないとは、どういう意味です?」

 通報者の物言いに引っかかりを感じ巡査長が問い掛けたが、赤い髪のブルドックはエレベータのボタンを押すのに夢中で聞いていなかった。

「早く、こっちです」

 言いながら、ドアが開いたエレベーターに飛び込む。

 三〇四号室の扉を開け、奥の部屋に踏み入れた時、三人の警察官は同時に、あっ、と声を上げた。

 床が赤く汚れていたのだ。

 部屋は、狭い三和土で靴を脱ぎ奥の白い引き戸を開けてベッドの置かれた本室に入る造りになっていた。一メートルに満たない廊下が引き戸に続いている。廊下の右手にも扉があり、そちらは浴室とトイレのようだ。その狭くて短い廊下に赤い汚れを何かでこすった跡がある。大量のケチャップを瓶ごとこぼした者が、慌てて、よく見もせずに乱暴に拭いた後のように、汚れはまったく落とし切れず赤い筋になっている。

「なんだ、これは?」

 年配の巡査長は我知らず喉元に手をやった。ゴクリとつばを飲み込む。

 暑くもないのに汗が噴き出した。

 ともかく、奥の部屋を確認しなければならない。

 二人の若い巡査をその場で待たせ、巡査長は一人、靴を脱いで部屋に上がった。赤い汚れを踏まないよう慎重に歩を進め、白手袋をした手で引き戸を開ける。そっと中を覗き込むと、壁一面に描かれたボッティチェリのビーナスの誕生が網膜に飛び込んで来た。ファミレスやカラオケと同じような安っぽい印刷の壁紙だ。ギリシャ風の白い柱の装飾と、赤いカーペット、しょぼいガラスのシャンデリアが、部屋の雰囲気をそれらしく粉飾しているが、救いようもなく古臭い。

 奥のダブルベッドの上に誰かが横たわっているのが見えた。だが、寝息の類は聞こえない。エアコンが利いて寒いほどの室内には鉄錆に似た臭気がひんやりと籠っている。

 白いベッドカバーに黒く染みているのは血液だろうか。

 巡査長はベッドに近付いて、うっ、と息を飲んだ。

 全裸の男性が、血塗れで、仰向けに横たわっている。シーツには広範囲に濡れ染みが広がっていた。一目で血液だと分かる。胸部に違和感があり視線を流すと奇妙な金色が目に付いた。目を凝らしてぎょっとする。男性の胸部は縦に切り裂かれ、ぽっかりと空いた暗い穴に金色の林檎が埋まっていたのだ。遺体の横には、得体のしれないぐんにゃりとした赤黒い塊と、白っぽい板状のものが置かれている。

 白いコレは、骨――なのか?

 では、ぐんにゃりとした赤黒い塊は……?

 思わず一歩飛び退る。

「な、なんなんだ、こいつは……」

 巡査長は直視できず目を逸らした。

 異常事態だ。変死体だ。検視官を呼ばねば。いや、呼ぶまでもない。殺人事件だ。猟奇殺人だ。遺体は損壊されている。あの、ぐんにゃりとした赤黒い塊は何だ? いや、分かっている。人間の肉だ。被害者の臓器だ。胸を刃物で切り裂いて、心臓か何かを取り出していやがる。それに、林檎だ。林檎が胸の穴に突っ込まれていた。なんだ、あれは? なんなんだ?

「うぐ……」

 巡査長は込み上げる吐き気を必死で堪えて、酷く狼狽しながらも律儀に血を拭いた汚れの跡は踏まないよう小走りに部屋の外へ逃げ出す。

「どうでした?」

「マズい。確かに、こりゃマズいぞ。おい、署に報告だ」

「報告?」

「死んでる。殺されてるんだよ。胸を切り裂かれてて、ベッドは血の海だ」

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