【第一章/暴食 gluttony】

暴食 gluttony_01

 二階堂崇彦は警部補だ。警視庁、刑事部、捜査一課、第五強行犯捜査第八係に配属されている。ノンキャリアの三十四歳、独身、恋人もいない。世田谷の高級住宅街の邸宅に両親と三人で住んでいる。

 二階堂は、祖父の代から付き合いのある高級テーラーで仕立てた三つ揃えのスーツしか着ない。着ないというよりは、着させてもらえないと言ったほうが正しい。母がだらしない安物のスーツなど許さないのだ。勤務中は三つ揃えにスタンダードのネクタイが二階堂の金科玉条である。しかし、オーダースーツは一着三十万円は下らない。刑事の安月給で賄えるものではない。当然、不動産会社のオーナーである父の稼ぎで宛がわれている。それについては思うところがないでもないが、母に意見するなどあり得ないと、物心付いた頃から躾けられている。学生時代は学園の制服、大学生になってからは学徒らしい白いボタンシャツにジャケットとスラックスというスタイルで、交番勤務時代の勤務中は――当たり前の事だが――警察官の制服で過ごした。

 ほんの一時期、警察学校の寮に入っていた期間だけは、自由な服装で過ごせたのだが、そうは言っても、あそこでの私服と言えば、ジャージかスウェットかTシャツにデニムパンツがせいぜいで、若者らしい洒落たファッションには終ぞ縁が無かった。

 社会人になった今は、一応、休日はアスコットタイとカーディガンが、テニスをする際はテニスウェアが、就寝に及ぶ際はパジャマが許されるが、基本的にはトラディショナルなスタイルが二階堂家での絶対的な戒律だ。なんとなく窮屈になり、一度、赤と黒の太い横縞のラガーシャツを自分で選んで買ってみたのだが、それを着た息子を見た母は、その場で悲鳴を上げて卒倒した。

 慌てて母を寝室のベッドに運び、証拠隠滅とばかりにラガーシャツを着替え、意識を取り戻した母を介抱しながら、何食わぬ顔で「母さんは悪い夢でも見たんだよ」と誤魔化して以来、二階堂は母の気に入る服しか身に付けなくなった。

 そのせいで八係の同僚から「お坊ちゃま」と揶揄される弊害もあるが、女性受けは良いので唐尾係長からは「そのままで良い」と言われている。聴取に応じた女性が二階堂の男ぶりにのぼせ上って、訊いてもいないことまでペラペラ喋るので、弊害以上の利得もあるのだ。二階堂本人としては、他の同僚と同じようなラフな格好をしたい願望も無くはないのだが、今さら古典的な紳士スタイルを変えようとは思わない。なにより、母の意に添わぬ服を着ていちいち気絶されてはかなわない……

 二階堂は高級スーツの左胸に手を当てて深い溜息をついた。母のお仕着せの三つ揃えの内ポケットには常に辞表を入れてある。いつでも責任を取れるように……

 あの事件――俗称「黄金の林檎殺人事件」の犯人はいまだ目星すら付いていない。

 八月二十日の事件発覚から二ヶ月近くが経ち、十月も半ばになっていた。季節は移り変わり、あの酷暑が嘘のように秋の爽やかな風が頬を撫でていく。

 警視庁の規定通り三十日間で、三鷹ラブホテル殺人事件の捜査本部は解散になった。猟奇殺人犯を逮捕できないまま帳場が解散になったという事だ。ホシすら割れていない。それは捜査一課の敗北を意味した。今は三鷹署の刑事数名が継続して事件の捜査を受け持っているはずだ。

 二階堂が現場で感じた悪い予感は的中した。被害者の交友関係をいくら洗っても怪しい人物は浮かび上がらなかったのだ。

 ラブホテル「アレキサンドライト」の防犯カメラが故障していた事がつくづく悔やまれる。結局、金色に塗られた林檎から犯人の指紋は出ず、期待したシャワーノズルやカラン、ドアノブなどは徹底的に拭き清められていた。血染めの指紋、掌紋、足型など、どれかが残っていれば楽だったのだが、それらも無く、部屋に残っていた複数名の指紋もどれが怪しいのか特定できなかった。毛髪の類も同様だ。

 司法解剖で殺害時の詳しい状況が推察された。血液のスクリーニングの結果、被害者の血液から高濃度のアルコールと、他に睡眠薬と合成麻薬MDMAの成分が検出された。違法薬物の常用も疑われたが、科捜研が被害者の毛髪を分析したところ、その形跡は認められなかった。おそらく犯人は被害者を騙して酒と薬物を飲ませて酩酊させ、朦朧としたところを背後からロープで絞め殺し、その後で遺体の損壊に及んだのであろう。背後から首を締めたと断定されたのは、遺体の首の後ろに索状痕が交差した部分があったからだ。人間は首を締められると無意識に喉を掻きむしる。その掻爬痕そうはこんが無かった事と、手首に残る索状の痣と擦過痕から、首を締められた際、被害者は細い紐状のもので後ろ手に拘束されていたと考えられる。薬物で意識を混濁させ、抵抗出来ない状態にしたうえ、更に手足を縛って、念入りに被害者を抑え込んでから殺害したという事だ。その慎重さに犯人の臆病な性質が垣間見える。弱者の犯行の特徴だ。

 睡眠薬とMDMA――相手が腕力で勝る男性でも、薬物で酩酊した状態ならば、女性にも殺害は容易だ。

 榊原医師の提言は無視され、捜査本部では犯人は女性と目されるようになった。

 犯人は鬼女だと言う者もいた。

 そんな空気の中で、三嶋和彦と面識のあった女性が重点的に調べられた。

「何人も女をとっかえひっかえして恨みを買ったんじゃないんすか」

 誹謗めいた発言を女性にモテない堅城がぽろりと口にし、さすがにそれは不謹慎だと唐尾係長が注意する場面もあった。

 堅城の嫉妬含みの予想に反して、被害者の三嶋和臣は女性に対して潔癖と言ってもいいほどクリーンで、事件当時は交際していた女性もいなかった。大学時代に三嶋が交際していた女性と、高校時代の彼女にまで遡って聞き取りをしたのだが、悪い噂はひとつも出て来ない。二人とも、「別れ話は自分から切り出した、彼に悪いことをした」と判で押したように言った。就職してからは特別な関係の女性はいなかった。アプローチされても感じ良く断っていたらしい。ストーカーがいたというような噂も無い。男女関係に限らず、人間関係は総じて良好で、勤めていた大学の事務局でも親切で感じの良い人と好意的にみられていた。学生時代からの友人たちとの交友も続いており、特に大学時代の仲間とは、月に一度は集まってバーベキューやホームパーティーをしていたらしい。ニュースなどでよく耳にする「あんな良い人が恨まれるわけがない」を地で行く、絵にかいたような好青年だった。あまりにも評判が良いので、むしろ不自然さを感じたほどだ。

 だが、叩けば埃のひとつくらいは出てくる。

 三嶋和臣は、小学六年生まで両親ともども三鷹にある祖母の家で暮らしていた。私立中学に進学する際、母と二人、母の実家がある広尾に引っ越し、両親はその半年後に離婚している。そのすぐ後に父親が事故で亡くなり、三鷹の祖母とは疎遠になった。もう何年も会っていないはずだと母親は証言している。父方の親類は三鷹の祖母のみ、母方の親類はいない。

 中高ともに優秀な成績で卒業し某私大に入学、そこも優秀な成績で卒業した後、女子短期大学の事務局職員になっていたのだが、当時の事務長と三嶋の母親が知り合いだったので、コネかもしれない。だとしても、殺されるほど恨みを買う事案ではないと思われた。三嶋が就職した年の求人応募は定員一名に対し百件近くあった。しかし採用されなかったからといって、運良く職を得た人物に粘着して探り当て、殺害に至るなど有り得るだろうか。念の為に調べてみよう、と唐尾係長が言い出し、徒労を覚悟で大学に問い合わせてみたところ、応募者のデータはすでに破棄されていた。

 三嶋の母は人権派の弁護士で、被害者と被害者遺族の人権を振りかざして、何度も三鷹署の捜査本部に乗り込んで来た。目を三角にして「捜査の進展状況を教えろ」と喚き立てるあの御婦人が二階堂は苦手だ。

 ふたつ、どうしても腑に落ちない点がある。

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