第15話 校閲の元井川さん(?)登場
翌日も朝番として7時から運用していたが、10時に一度中抜けすることとなった。
新入社員などに課せられたリテラシー研修なるものに参加するためだ。
そもそも「煽ってナンボ」とでも思っていそうな編集長の元で働いているのだからリテラシーもクソもないとは思いつつ、新卒の義務ではあるのでしっかり出席する。
「……ん?」
会議室の入り口に貼ってある座席表。
自分の名前よりも先に、見覚えのある苗字を見つけた。
元井川。
昨日、中村さんやオーランドさんとの雑談で話題に上がったばかりの名前だ。よく見ればその斜め前に私の席があった。
席についたのち、一度冷静に考えてみる。
中村さんの話では、校閲の元井川さんは数年前から在籍しているらしい。
だが今回の研修は、新入社員や4月に中途入社した社員に向けたものだ。となれば別人と考えるのが妥当だろう。
ただ、元井川という苗字はかなり珍しい。こんな偶然があるだろうか。
その時だ。
おおよそ斜め後ろの方向から、イスを引きずる音が聞こえた。
そもそも名前しか知らないのだから意味はないが、つい私は振り返って、元井川さんの顔を確認してしまう。
「ひっ……!」
とっさに前を向き直す。
いま私は、とても恐ろしいものを見てしまった。
そこにいた、細身で前髪重めの黒髪ロングの女性は、私を見るやいなや強烈な眼力でもって睨み付けたのだ。ゴゴゴ……と音が聞こえてきそうなオーラを放っていたように感じる。
想定外すぎる事態に私は大混乱である。
え、なんで?
仮に校閲の元井川さんだったとしても、なんで喧嘩腰?
いや、きっとデフォルトでそういう目つきの人なのだろう。私はいま一度、振り返ってみた。
元井川さんは、隣に座った初対面らしき女性と軽く会話していた。その目は虫も殺せないだろう、優しさと穏やかさに満ち溢れている。
しかし、私の視線に気づいた瞬間……。
「ひぃぃっ……!」
虫は殺さない代わりに私のことは平気で惨殺しそうな瞳が突き刺さった。
いやマジだこれ。
私への敵意がすごい。
いや本当になんで?
あの元井川さんは校閲の元井川さんなのか。そうだとすれば何故、新入社員向けの研修に出ているのか。そして何故、私を親の仇のような目で見るのか。
疑問が頭の中で渦巻き、私はリテラシー研修中、まるで集中できなかった。
ちなみにオーランドさんの言う通り、メガネはかけていた。
研修はつつがなく終了。
会議室からエレベーターホールへ流れていく人の波から抜け出し、私はひとりトイレへ向かった。
ソープディスペンサーからニョロニョロと出てくる泡を受け取りながら、自然とため息が漏れる。
結局、元井川さんのあの視線はなんだったのか。
二度目の視殺以降、私は怖くて元井川さんの方を見れなかった。研修終了後もできるだけ元井川さんに関わらないようにと、わざと遅れて退出したくらいだ。
「私、何かしたのかな……」
ふと、ミラーキャビネットの扉が中途半端に開いていることに気づいた。
何の気なしに閉じた、次の瞬間……。
「ん……ひぃぃぃッ!」
まるでホラー映画のよう。
鏡の角度を変えた瞬間、私を睨む長い髪の女性の姿が映ったのだ。
一瞬、見てはいけないものを見てしまったかと思った。が、よく見れば元井川さんである。彼女は悲鳴を上げた私を怪訝な目で見つつ、隣で手を洗い始める。
「あ、あはは……すみません」
「…………」
一応謝ってみたが、無視。
目も合わせない。
ここまで敵意を剥き出しにされると、いっそう清々しい。そうなれば不思議なもので彼女への恐怖心は薄くなり、代わりに私も突っ込まずにはいられなくなった。
「あの……私なにかしましたか?」
元井川さんはチラリと私を一瞥したのち、ポツリと告げる。
「いいえ。だって初対面じゃないですか、私と信長の同級生さんは」
「うぐっ……」
唐突に、しかしはっきりとトラウマを突かれ、つい呻き声が出る。ジャブにしてはキレが良すぎる。
だが、これでハッキリした。
「……やっぱりあなた、校閲の元井川さんなんですね」
「ええ、いつもお世話になっております」
「いえ、こちらこそ……でもじゃあ、なんで研修に? 中村さんは元井川さんのこと、数年前から知ってるって言ってましたけど」
「……中村さんが?」
「あ、中村さんって分からないですか?」
「いえ、分かります。中村将生さんですよね」
「あ、はいそうです」
顔を突き合わせたことがなくとも、やはり校閲側もこちらのメンツの名前くらいは覚えているようだ。
元井川さんは、少々会話のリズムが独特なのか、少しの間沈黙したのちに告げる。
「3月までアルバイトだったので。大学を卒業してこちらに入社したので、今回改めて研修を受けたのです」
「ああ、なるほど。じゃあ私と同級生なんですね。いつからバイトしてたんですか?」
「大学2年の秋頃からです。ずっと校閲チームに所属していました」
「わぁ、すごい。じゃあ同級生でも全然同期って感じじゃないですねぇ」
なんだ、話してみれば案外普通じゃないか。少々堅苦しくはあるが、特別とっつきにくい性格ではなさそうだ。
もう少し距離を縮めてみようと、わずかに砕けた口調にシフトチェンジする。
「校閲さんとはよくやり取りしているのに、全然交流ないですよねー。オーランドさんなんかは元井川さんと話したがってましたよー」
「……は?」
「……え?」
一転、元井川さんをまとうオーラがドス黒くなっていくのが分かる。その瞳は研修前と同様、今ここで私の首を絞めかねない色をしていた。
「あ、あの……私なにか……」
「オーランドさん……? 三田さんのこと、下の名前で呼んでるんですか……?」
「え、あ、はい……。でも編集部のみんなそうですし、オーランドさんもそう呼んでって……」
「蒼井花さん……いえ、信長の同級生さん……」
「いや間違ってなかったですよ、前半……」
元井川さんは最後にひとつ吐き捨て、猛烈な敵愾心を剥き出しにしながら去っていった。
「私は……あなたの存在を認めない」
ひとり取り残された私。
1分間ほど、呆然としてしまっていた。
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