第32話 プライドのようなもの
カフェを出ると、元井川さんが「そういえば」と呟く。
「この後予定あるって言っていたね。何があるの?」
「あ、えっと、歯医者が……」
少し言い淀んでしまったが、そこまで関心は無かったのか元井川さんは「ふうん」と返した。
つい、ウソをついてしまった。
それほど後ろめたい場所へ行くのか、私は。
元井川さんと別れ、足取りは途端に重くなった。
電車で数駅。私は恵比寿で下車する。
駅から数分の場所にあるオフィスビルの7階。
「……ふぅ」
ひとつ深呼吸し、私はエレベーターに乗り込んだ。
小綺麗な面談室に案内され、待つこと5分。
「蒼井さん、お待たせいたしました」
現れたのは顔の彫りが深く、ほんのり色黒の男性。眉毛が薄いせいか一見は軽薄そうに感じたが、くしゃっとした笑顔と腹から出ている精悍な声から、多少の警戒心が解かれた。
「私、村田と申します。よろしくお願いします」
「あ、蒼井です。本日はよろしくお願いします」
普段は会社にこもっての仕事ばかりなので、名刺交換はまだ慣れていない。この場合どちらが先に受け取るべきなのかと、少し混乱してしまった。
村田稼頭央という名前と社名の次に、転職アドバイザーとの肩書きが、名刺の中では大きく目立って記されていた。
きっかけは、24時間前に遡る。
夕方に退勤し、飲み会までの間カフェで時間を潰していたその時は、金森あずさをめぐる炎上騒動で精神的に最も弱っていた頃だ。
その時、1通のメールを受信する。
ポケニューでの業務に違和感を覚えていた春頃、メールのやり取りをしていた転職エージェントからだ。最近はほぼ放置していたため、存在すら忘れていた。
内容は何でもない、その後心変わりはありましたか、よろしければ近況を教えていただけませんか、とのこと。
ある意味で、私にとって最も効果的なタイミングでの連絡ある。浅からぬ縁を感じてしまい、私は自分でも驚くほど自然に面談を受け入れてしまった。
翌朝、つまりは本日の起き抜け、冷静になった私の胸に去来したのは、白々とした鬱屈の霧。憂鬱のような緊張のような罪悪感のような、ひとつでない感情が入り混じっていた。
そんな心情のまま元井川さんを経由して、面談までのこのこやってきてしまったのだ。
「それで、蒼井さん。ぶっちゃけ今の会社のどこに不満を持っているのですか?」
いきなりの直球質問に、思わず固まる。村田さんはニコニコと笑顔のままだ。
「このまま会社にいることに不安を抱いているから、面談にいらっしゃったのですよね。一度吐き出してみては。転職するにしろ残るにしろ、声に出すのは良いことですよ」
カウンセリングのようなアプローチなのは、私が社会人1年目だからだろうか。
ただ、彼の主張には一点の隙さえないのも事実だ。
「……色々ですね。大手とはいえベンチャーなので先行きが不安だとか、残業が少なすぎるとか、上司の口が悪いとか」
話し始めると、村田さんはご丁寧に、言葉の節につきひとつ相槌を打つ。
「その中でも、一番苦悩しているのは……業務における理想と現実のギャップですね」
「ネットニュースの編集ですよね。珍しいお仕事な上に、このご時世では注目されることが多い分、やりがいはありそうですけど」
「私も最初はそう思っていたんです。ネットニュースから社会の為になることがしたいと。ただ現実は毎日目標の数字との闘いで、いつの間にかそんな大義名分も忘れて、数字を取る為の記事を上げるようになってしまったんです」
「手段が目的化してしまったのですね」
「そうです、まさに。会社の為に数字が大切なのは重々承知しているんですけどね。正直、あまり社会の役に立たなさそうな芸能記事ばかりが伸びるので、どうしたもんかと」
「あぁ確かに、ネットニュースってそんなイメージですね」
そう。それが多くの人にとっての、ネットニュースのイメージ。私も入社する前はそうだった。だから私が変えよう、なんて大げさな野望を持っていた。
「運用をしていると、たまに思ってしまうんです。私は誰の為に働いているのだろうって」
ふと、自分の言葉が妙に引っかかった。
同様のことを、最近誰かが言っていたような。
「少し話を聞いただけなのにおこがましいですけれど、今の場所では蒼井さんの労働への熱意を十分に活かしきれていない可能性が高いですね」
「え……」
「端的に言って、蒼井さんの意識に対して現在の職場は、少し視野が狭いかもしれない。もっと大局を見渡せる場所で、社会への貢献を実感できる仕事の方がいいと思いますね」
この数ヶ月で欲しかった言葉の数々が、次々と脳に染み込んでいく。
そうだ、私が渇望していたのはきっと、その充実感だった。
「1年目での転職は不安でしょうけれど、明確な理由があるならまったく問題ないです。第二新卒を求めている会社は多いですよ。蒼井さんは性格的に営業職の方が向いていると思うので……この建設会社なんて合いそうですね。それかこの医療機器メーカーなんかも。残業は少し多いですけれど、やりがいは絶対にありますよ」
提示される企業の数々は、どれも魅力的に見えた。業務と社会貢献度が目に見える形で直結していて、どんな業務内容なのか身内に説明しやすい。歴史も古く、「不安定で心配」とまた姉に小言を言われることもない。
思わぬ評価を受け、つい私は浮かれてしまう。
言い方は悪いが、流されかけていたのだ。
「人は自分が最も輝く職場に行き着くべきだと、我々は考えています。だから蒼井さんはネットニュースなどでなく、あなたにしかできない輝かしい仕事をすべきです」
「…………」
だからこそ、この言葉に違和感を抱いた瞬間、チラリとプライドのようなものが顔を出した気がした。
ポケニューにて人が炎上する様を幾度となく見てきたせいか、倫理的に危うい発言を耳にした途端、脳が敏感に反応するようになってしまった。
もしも村田さんがSNSで今の台詞を投稿したなら、こんな批判が飛んでくるだろう。
ネットニュースの仕事は、低俗だと言いたいのか!
「……そうなんですよね。ネットニュースって芸能人には嫌われてるし、ユーザーからもよく攻撃されるし、おかしなコンテンツですよね」
この誘い水に、村田さんは嬉々として語る。
「芸能人の不倫とか、どうでも良い記事ばかりじゃないですか。中にはフェイクニュースも混じっているし。本当に世の中のことを考えている人は、新聞を読むと思うのですよ。だから結局ネットニュースって、娯楽に近いんですよね」
これはきっと彼に限った話ではない。世間がネットニュースに対して漠然と持っている偏見だ。悲しきかな入社前の私も、そのように思っていた。
しかし私はポケニューに足を踏み入れた。
考えて、悩んで、苦しんで、時に同僚の力を借りて……この数ヶ月で重ねてきた努力は、確かに私の中にある。
それはけして、取るに足らないものではなかった。
ただ、先ほどの村田さんの発言の中にひとつ、胸にすとんと落ちる単語があった。
「娯楽……そう、娯楽なんですよ」
頭の中で整理する作業の最中、ポツポツと言葉が漏れる。
「確かにネットニュースは、新聞などと比べて軽く見られてます。でも軽く見られているということは、裏を返せばより身近だということなんです」
突然の語りに、村田さんは目を丸くしていた。
しかし私の口からは、止まることなく思いがあふれ出る。
「ネットニュースはネットニュースなりの闘い方で情報を伝える。それを求めているユーザーもいる。そんな人たちの為に働く人がいてもいいんだ」
外からポケニューを、ネットニュースというものを見つめ直すことで、新たな気づきを得られる。ついには私という人間の本質までも、透けて見えてきた。
うすうす勘づいていたことがある。
世界をより良くする為に働きたい。これは、欺瞞なのだ。
姉に負けないような仕事をして、見返したい。本心はこんなにも卑しい。私もまた、私が良ければそれで良いと思っていたのだ。
しかしそんな情けない私にもひとつ、純粋な気概が眠っていた。
思い出すのは、春先。大学教授の女性蔑視発言に関する記事を取り上げ、バズらせたあの時。ポケニューのSNSに、こんなリプが届いた。
『私の周りにもまだ、こういう発言を平気でする人がいる。だからハッキリと批判してくれる記事があって、それがこれだけ拡散されているのは純粋に嬉しい』
ずっと心に残っていた、この声。
ここに、私の働く理由がある。
「私はいつでも、記事の向こう側にいるユーザーに寄り添いたんだ」
今や誰もがスマホを持っている時代。つまりネットニュースは、今もこれからも、人々の手のひらの上で展開している。
いつでもポケットの中で広がるメディアであり続けるのだ。
だから私はその最前線で、記事の向こう側にいるユーザーの為に闘い続ける。
そうすればいつか、初めは欺瞞でしかなかったけれど、もしかしたら本当に少しだけ、世界は良くなるかもしれない。
「あの……」
「というわけなんで、転職はまだ考えられないです」
「えっ、ちょっと……」
「それでは、お時間取らせてすみませんでした。失礼します」
思考が声となり、いつの間にか演説になっていた。
我に返った途端、私は冷静かつ誠実なフリをして、颯爽と面談室を後にする。早足で駅に向かう中、心がひたすら叫んでいた。
恥ずかしい、恥ずかしい。何をトチ狂っているのだ、私は。
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