第5章 いつでもポケットの中のメディアであれ
第31話 闘う意味と、働く理由
振替休日の水曜日。
昨日の飲み会の名残は、頭には残らずとも顔には表れていた。
「顔、パンパンかよ……」
帰宅後も缶ビールを2本も開けたのだから当然だ。ひとまず風呂に入ろうと、浴槽の蛇口を捻った。
浴室から響く流水音を耳に、テレビをつける。
いつもは会社のテレビで、仕事しながら意識半分で見ている朝のワイドショー。パジャマを着たままボーッと眺める。
『さてCMの後は、SNSと炎上について、詳しく……』
指が自然とリモコンの電源ボタンを押す。
もはやそのワードを、本能的に回避してしまっている。
「……向いてないんだろうなぁ、私」
ひとつ弱音を吐いたのち、パジャマのボタンに指をかける。午後に予定はあるものの、まだ時間に余裕はある。ゆっくり朝風呂に浸かろう。
そう思った矢先、スマホに一見のメッセージが届いた。
「……ん?」
それは、意外な人物からのお誘いだった。
正午過ぎ、やってきたのは弊社の前にあるカフェ。とある人物とよく利用している店だ。
ひとりで席について待っていると、その人物がやってきた。
「お待たせ」
「うん。お疲れ、元井川さん」
元井川さんは普段と変わらぬ無表情で私の前に座ると、スムーズに注文を終えた。
彼女からランチの誘いがあったのはまだ家にいた午前中のこと。元井川さんの方からのお誘いは珍しく、その希少性からついオーケーしてしまった。
「休みだったのにわざわざ来たの? 別日でも良かったけれど」
「いや、この後にこっちで予定あるから」
そこで、会話は止まる。
ただ元井川さんとのやり取りにおいてはそれがデフォルトであり、最近では気まずさもあまり無くなった。自然な沈黙が私たちを包む。
「この前の……」
「……ん、何?」
またも珍しいことに、元井川さんが言い淀んでいる。今日は少し様子がおかしい。
少し待ってみると、彼女はポツリと告げた。
「金森あずさの件……」
「あ、うん……」
「私のチェックが至らないせいで迷惑かけて、ごめんなさい」
「えっ」
予想外の発言に思わず混乱。
私は自らの頭を整理するように、ひとつひとつ事実確認をしていく。
「えっと……そっか、あの日曜に元井川さんも出勤してたっけ」
確かにあの日、別の記事に関して元井川さんから指摘があった。
ポケニューが稼働している時は、チェックのため常に校閲も動いている。つまり校閲部署にも休日は無いということだ。もちろん今日の私のように代休はあるが。
炎上のきっかけとなったあの記事のリタイトル等は、元井川さんがチェックしていたのか。
「私もあの記事の文体やテンションにつられて、ほぼ断定に近い見出しを許容してしまった。私が指摘していれば、こんな状況にはならなかったのに」
「いやいやそんな! そもそも私があんな記事をチョイスして掲載したのが悪いんだし!」
「いえ、掲載するのが正しいのかどうかも、私が判断すべきだった」
「えぇ……」
元井川さんの瞳はあまりにも真摯で、気圧されてしまう。
まさかあの炎上騒動に関して、責任を感じている人がこんなところにもいるとは。そしてまさかあの元井川さんから頭を下げられる日が来るとは。
「……何か、意外そうな顔してない?」
「えっ、い、いや……」
しおらしい雰囲気から、突然の追及。図星を突かれたがゆえ、私はとっさに本心を口走ってしまう。
「正直元井川さんは、私なんかに謝るのはイヤなのかと……」
「イヤに決まってるでしょ。当たり前でしょ、何言ってるの」
「…………」
この高低差についていける人は世界にどれくらいいるのだろう。
「そもそも誰が相手であっても、頭を下げるのはイヤでしょう、普通」
「そ、そうかな……」
「私の謝罪はあなたと違って、そんなに安くはないから」
「私の謝罪の値段、知らないくせに……」
よく分からないが無性に腹が立ったので、謎のフィールドで張り合ってしまった。
私の挑発を一笑に付すと、元井川さんは改めて表情を引き締める。
「どんな事情があっても、私の不手際で問題が起きたのなら謝罪するのが筋でしょう。社会人なんだから」
「もっともです、はい」
「ポケニューが炎上したとしたら、その記事や見出しを通してしまったこちらの責任でもある。校閲っていうのはそういう仕事だから」
「……そっか」
元井川さんは第一印象および第二印象が特殊なため忘れがちだが、仕事に対する姿勢は人一倍良い。ある種、職人気質と言えるだろう。同い年であっても尊敬に値する。
「すごいなぁ元井川さんは……校閲って仕事に誇りを持って取り組めて」
「あなたは違うの?」
「私は……よく分からないなぁ」
この弱音にも、元井川さんはさして興味がなさそうに「そう」と相槌を打つ。
かと思えば唐突に、妙なことを言い出す。
「蒼井さん。あなた、兄か姉がいるでしょ」
「へっ? う、うん、姉が1人いるけど……」
「そう、姉か。なら仲悪いでしょ。姉妹仲」
「……元井川さんって、占いとかやってる人?」
「そんなわけないでしょ。普段から人間観察していれば、これくらい多少は分かるものでしょ。あなたが分かりやすすぎるのもあるけれど」
意外な特技を披露された上、ほんのりディスられた私。
しかし見事に言い当てられたため、何も言い返せなかった。
「私は1人っ子だから分からないけれど、姉妹ってたいがい仲悪いみたいね」
「歳が離れていれば、そこまでひどくないって聞くけどね。ただ私の場合、嫌ってるっていうより、私の方から避けてるんだけどね」
「へぇ、なんで」
「何もかも負けているからね。頭も顔も。会うだけで惨めになるってだけ。姉妹に限らず、そういう人っているでしょ」
「いや。私は私より優れている人とは基本、関わらないように生きているから」
「今気づいたけど、少なくとも私には元井川さんの意見は何ひとつ参考にならないかもしれない」
そして現在進行形で関わっている私という人間の評価はいかに。
すると元井川さんは、そこで何やら含み笑いを浮かべた。そんな珍しい笑顔を浮かべるほどの面白ポイントが、今の会話にあっただろうか。
「なるほどね。あなたって常に何かと闘っているように見えていたんだけれど、その異常なバイタリティの原動力はそこなのね。姉に負けたくないから、頑張っているのね」
「え、いや、私は……」
「違うの?」
「違うよ……そんな小さなことじゃ……」
ネットニュースから世界を変えたい。それが原点のはずだ。
だが、何故かそれを言葉にできず、舌を噛んだかのようにモゴモゴとしてしまう。
「別に良いと思うけど、それでも。その場所で働く理由なんて、シンプルなものでしょう」
「……じゃあ、元井川さんはなんで校閲で働いているの?」
まるでこの質問が来ることを予想していたかのように、元井川さんは即答した。
「得意だから。あと、好きだから」
「…………」
「粗を探すのが」
「……まぁ、うん。そうだよね、校閲って……」
やはり、この人の意見は参考にならない気がする。
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