第6話 ネットニュースで世界が良くなるわけがない
新卒は残業の管理も徹底されている。
定時を20分も過ぎると、玉木さんから強烈な視線が向けられ、非常に居心地が悪くなるのだ。
まだ陽のあるうちに会社を後にしても、すぐさま最寄駅への電車に乗り込んでしまうのだから、私もつまらない人間だ。
誰もが羨む華やかなアフター5の過ごし方って、みんなどこで習得するのだろう。別にいらないけれど。
同級生のチャットグループに呼びかけても、きっと反応は薄い。みんなまだ仕事だ。転職サイトからのメールも、今は確認する気にはならない。
ふと、派手なデザインの中吊り広告が目に留まった。
ミュージカルの宣伝らしいが、やたらと煽り文句が印字されていて見にくい。目にもうるさい広告だ。
「エモーショナルな体験がアナタをナイトメアに誘う」
気取ったフォントで書かれたこの意味不明な一文。自然と連想されるのは、休憩時間の中村さんとの会話、そしてさらに前の玉木さんの台詞。
「それはアレだよ。エモーションってやつだよ」
「ユーザーが求めているのは知識じゃない、エモーションだ」
結局のところ、エモーションとはどういう意味なのか。辞書サイトで調べてみた。
情動・情緒・感動。
つまりは心が強く揺れるほどの感情の動き、ということだろう。ニュアンスとしては把握したものの、もう一歩先の理解には届いていない気がする。
ニュースサイトに必要なエモーションとは、一体何なのか。
改札を出て商店街を歩いていると、甘く香ばしい匂いに抗えず、焼き鳥屋に吸い寄せられる。盛り合わせとチップス、ごぼうサラダをつまみに、海外ドラマを見ながらビール。今の私、そんなエモーション。いや、たぶんこの使い方は違うな。
****
寝不足だったこともあり、前日は布団に入ると即座に脳がシャットダウンした。
目が覚めると、海外ドラマの登場人物の一員として大活躍する夢が、まるで昨日のことのように記憶に残っていた。あと一歩というところまで、殺人犯を追い詰めていたのに。
朝の電車内にて、今度こそ転職エージェントからのメールを確認しようとスマホを取り出すも、指が自然とSNSのアイコンをタッチしてしまう。
流れゆく人々の呟きや最新のニュースを眺める。
その中のある投稿が、スクロールする指を止める。
私の母校である新桜大学、その教授によるつい3時間前のものだ。
『仕事を褒められたいのなら、家事を一生懸命やればいい』
文脈はわからないが、そこはかとなく嫌な印象を覚える一文である。
どうやら不倫騒動の渦中にある姫宮麗花に対する発言らしい。
姫宮麗花は先日の謝罪会見で、不倫に至った理由についてこう述べた。
「役者としての価値を認めてもらえたのが嬉しくて」
会社役員である夫は姫宮麗花に女優の仕事をセーブするよう言いつけていた、との噂がある。真偽のほどは定かでないが、ここ数年露出が少なかったのは事実だ。
不倫相手の舞台監督は、そんな彼女の求めていた言葉を与えたのかもしれない。
大学教授の投稿は、姫宮麗花のこの言葉への批判だ。
私は、この教授と面と向かって話したことはない。
もちろん姫宮麗花とも、その夫とも不倫相手とも。
私は彼らとはまるで無関係な存在だ。
しかし、なんだこの不快感は。
私は教授のこの意見に、腹が立ってたまらない。このご時世に、よりにもよってそれなりに地位のある人物が、こんな発言をするのか。
朝から不快なものを見たと、胸に憤りが渦巻く。
だがその刹那、頭の中の冷静な部分が私に気づかせる。
これだ、これなんだと、脳細胞が弾ける。
これが、エモーションなのだ。
職場に着いてすぐ、深夜から朝までに配信された記事を探ってみる。
「あ……」
「ん、どうしたの蒼井さん」
「あ、いえ何でも……」
トップページを更新中の中村さんが不思議そうに首を傾げる。
大手新聞社の明報新聞デジタル版から、件の大学教授の投稿を批判的に書く記事が配信されていた。早速私はこの記事を、担当する国内ページに掲載してみる。
教授の発言にある不快な要素。
それを表現するなら、見出しはこうだ。
新桜大教授が姫宮に女性蔑視発言?
悪くない。時間もないしこのまま掲載しよう。
そうして当該記事を、国内ページの一番目立つ1枠に設定した。
「ふぅ……」
掲載した途端、無意識にため息が漏れた。
こわばっていた肩からふっと力が抜ける。
ひとまず私の中にあった気持ちの悪い感情は、成仏させられた気がした。
さあ、引き続き新しい記事を入れていかなければ。朝イチなので現在掲載されているのは古い記事ばかり。一仕事終えた、なんて言ってはいられないのだ。
私は改めて、膨大な配信記事の中から使えそうなものを探す。
「蒼井さんっ、新桜大教授の記事が……」
中村さんが慌てた様子でそう告げたのは、教授の記事を掲載してから10分ほど経った頃だ。
もしかしてまたミスをしてしまったか……と恐る恐る確認する。
「う、うわっ!」
とんでもない勢いで、PV数が伸びていたのだ。
ポケニューでも脇役的なポジションの国内ページとしては、異例の伸び方だ。
「これ、国内ページに置いておくのはもったいない。トップに掲載してもいい?」
「は、はい、どうぞ!」
このようにサブページで数字を伸ばした記事は、トップページに移行するのが通例だ。なぜならトップの方が、圧倒的にユーザーの目に入る。サブページでヒットするほどポテンシャルのある記事は、トップではより輝くのだ。
新桜大教授を批判したその記事は、トップページでもぐんぐんとPV数を伸ばしていき、結果としてその日最も数字をとった記事となった。
さらにSNSでもヒットワードランキング上位に「新桜大教授」が食い込み、夕方のワイドショーでも取り上げられ、一大騒動へと発展。
もちろんそれが私の掲載した記事から波及したかどうかは定かでない。
私はその怒涛の展開に、ただただ目を回していた。
中村さんや他の同僚の人たちに褒め称えられた。「この前のミスを取り返したね!」なんて声もかけられた。
確かに、そういう意味では喜ばしいことかもしれない。
また、記事に対してSNSでも様々な意見が飛び交った。
『私の周りにもまだ、こういう発言を平気でする人がいる。だからハッキリと批判してくれる記事があって、それがこれだけ拡散されているのは純粋に嬉しい』
このひとつのリプが、妙に心に残った。
もしかしたらこの記事でほんの少しだけ、世界は変わったのかもしれない。バズるというのはそういうことだ。
それなのに、心の底から嬉しいと思えないのは、なぜだろう。
****
週1回の面談の時間がやってきた。
ただでさえ緊張するイベントなのに、唯一の癒しである中村さんは別件があるらしい。よって玉木さんとのマンツーマンとなってしまった。
私の緊張とは裏腹に、玉木さんは上機嫌なように見える。
「いやーバズったね、教授の不適切発言。まさか謝罪会見まで開かれるとは」
「嬉しそうですね」
「そっちこそ、嬉しくないの? このムーブメント、蒼井くんの迅速な掲載が要因のひとつだと思うよ。やったじゃん、初炎上」
「炎上って……私がやらかしたみたいじゃないですか」
「あぁ初じゃないか。信長の同級生でプチ炎上してたね」
「…………」
パウ気味ですよ。思っても口にはしなかった。やはり一言多い男だ。
「それで、今どんな気分よ」
「どんなって……」
「自分の手で火をつけた問題が、数多くの人の目に触れるまで大きく燃え上がった。その一連の流れを見て、どう感じた?」
値踏みするような目で、玉木さんは私を見つめる。
彼が求めている答えは一体何なのか。頭があれやこれやと考えるものの、結局口から出たのは、ありのままの本音だった。
「……怖かったです、正直。罪悪感とかはないです。あの教授の発言は最低だったので、自業自得だとは思います。スカッともしました」
「…………」
「ただ……私のちょっとした不快感から掲載した記事が今、日本中で膨れ上がるネガティブな感情の起因になったかと思うと、ゾッとします。みんな褒めてくれましたけど、素直には喜べませんでした」
ポケニューから世界を良くしたい。
しつこいほど自分に言い聞かせてきた野望だ。
それに近しいことを達成したにもかかわらず、私の中に生まれたのは恐怖だった。
なんと情けないことか。
いざ世界を目の前にして私は、気圧されてしまったのだ。
顔を上げると、どうしてか玉木さんは柔らかな笑みを浮かべていた。バカにするでも蔑むでもない、優しい表情。思いがけずドキリとする。
「俺らの仕事はね、ユーザーのエモーションを誘発することだ」
玉木さんは朗々と語る。
「滾るエモーションは口に出さずにはいられなくなって、学校・職場・家庭・ネットなどあらゆる場所へ波及して、議論が生まれる。そうやって人々の心に刻まれる」
そうして最後にこう締めた。
「意外と、やりがいありそうだろ」
まるですべてを見透かしているかのような笑み。
それがもう、たまらなく憎たらしい。そしてどうしようもなく悔しい。
だから私は、この心のすべてがあなたに同調しているわけではないのだという大いなる抗いと妥協をもって、小さく小さく頷いた。
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