カルネアデスの利他
中学の修学旅行で乗った船が難破した。
船は砕けて、先生や生徒は海に投げ出された。
私もまたその例外ではなかった。
幸いにも私は海面に顔を出すことができ、とりあえずの生存はできた。
とはいえ、救助を待つ間すっと立ち泳ぎを続けることができなければ、結局は溺れてしまうのは明白だった。
幸運は続くもので、近くに波間を漂って板が流れてきた。
大破した船の残骸だろう。
子ども1人、あるいは2人を支えるだけの浮力は十分にある。
これに捕まっていればとりあえずの間は大丈夫なはずだ。
しかし、幸運だったのは私だけではなかった。
しばらくしてクラスメイトが二人、こちらに向かって泳いでくるのが見えた。
カルネアデスの板の逸話が頭をよぎった。
今と同様に難破して船から落とされた人々の寓話だ。
1人分の体重しか支えきれない板切れにしがみついて難を逃れた男のところへ、別の男が泳いでくる。最初に板に捕まっていた男は二人で板に捕まれば沈んでもろともに死んでしまうと考えて、あとから来たものを拒絶し、海に沈めた。
その後、男は裁判にかけられるも無罪になる。
今まさに沈みそうな板切れのところへ3人が集まろうとしている。
選択肢は2つ。
3人で捕まっても沈まないことを祈る。
2人が捕まり1人は新たな板を求めて泳ぐ。
問題は後者を選んだ場合の「1人」が誰になるかだった。
泳いでくるクラスメイトの顔を見る。
1人はクラスの人気者。活発な女。
私が1人で本を読んでいるときに邪魔をしていじってくる奴。
もうひとりは私とは別ベクトルのおとなしい女。
私のおとなしさが陰キャのそれなのとは異なり、深窓の令嬢とでも言わんばかりのか弱い少女だ。
深く考えずとも、板に捕まるべきは彼女である。
となると「犠牲」になるのは私をいじってくるうざったい人気者か、あるいは私が板を追い出されるかだ。
彼女たちがこちらに向かって泳いでくる間に考えを巡らせる。
どうするべきか。
答えは出た。
私は波にさらわれたかのように板から手を放して、下に向かって泳いだ。
利他的に犠牲となる道を選んだわけじゃない。
ただ、私には誰かを犠牲にするような責任の重さに耐えられる気がしなかったというだけのことだ。
誰かの命を捨てるような選択を背負い込む事なんてできない。
あるいは、あるいは私なりの復讐なのかもしれない。
いじってきた人気者が、私の死という責任の重さに苦しむようにと。
なんて、そんなのは詭弁に過ぎない。
第一、私の死を彼女が気に病むとは思えない。
「ラッキー、助かった」と考えるに違いない。
私の犠牲に意味はない。
これは単なる逃避だ。誰かを犠牲にする責任からの逃避。
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本日の課題:【犠牲】をテーマにした小説を1時間で完成させる。
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下に向かって泳ぐ私の脚を何かがつかんだ。
驚いて振り向くと人気者が私の脚を引っ張っていた。
そのまま海面にむかって彼女は泳ぎ、されるがまま私は浮上する。
海面にはもう波に流されて板はない。
「どうして…」
私の問いに対する彼女の答えは意外なものだった。
「カルネアデスの板って知ってる?」
スポーツはできるけど頭は馬鹿なんだろうと勝手に思い込んでいたから、私と同じようなことを考え得ていたことに驚かされた。
「あの板がまさにそうなんだと思って一人分の体重しか支えられないだろうって思ったんだ」
私の見立てでは2人は捕まれそうだったが、たしかに試してないからその可能性もあっただろう。
「あなたがいなくなった時に、あの子を板に捕まらせてあげようと決めたの。でも、そうしたら彼女は私が犠牲になったことを気に病むかもしれない。そう思って、彼女の負担にならないようにってその場で咄嗟にあなたを助けに行くって言ったのね。もちろん、そのつもりはなくて彼女だけを板に残す建前だったのだけど。でも、本当にあなたを見つけちゃったからさ。助けなきゃ、って思って。」
そういう内容の事を波に揉まれながら人気者は言った。
つまり、人気者は私を助けるためでなく、深窓の令嬢ちゃんを助けるために、私を追って海に潜ったわけだ。
なんだそれは。
それじゃあ、まるで。
まるで私と同じ――その考えを思い浮かべて即座に打ち消す。
似ているようで、全然違う。
逃避としての利他と違って、彼女の行いは利他のための利他なのだから。
ただ、行動の表面的な結果が似ていただけだ。
彼女がまぶしくて、それが嫌いで。そこを隠さないことで好きになった。
結局、救助は早めにやってきて。私と人気者は手を繋いで立ち泳ぎしていたところを救助された。
令嬢ちゃんは先に救助ボートの上に居て、人気者が助かったのを見てわんわん泣いていた。
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