与太語りのアリス TS編

疲れた。

重たい体を引きずって帰宅した僕は、ばたんとベットに倒れこんだ。

パジャマに着替えようとかお風呂に浸かろうという考えが頭をよぎったけれど、

体の重さは限界に来ていてまぶたをもう支えておくことができない。

目を閉じた僕の体はゆっくりと布団に沈んでいき落下するときのような浮遊感を覚えた。


***


ゆっくりと、ゆっくりと僕の体は落ちていく。

最初は仰向けに寝た姿勢のままだった僕の体は重力に引かれて足の方が下になっていく。

あれ?おかしいな。

重力に引かれたなら頭から落ちるんじゃなかったっけ?

人間は脳が大きいから頭の方から落ちると聞いたことがあるような…

そう考える僕の体はぐんぐんと重力にかれて落ちていく。

下に引っ張られた華奢な足に可愛らしい水色の靴…。

あれ?僕の靴ってこんなだったか?

そもそも部屋に入るときに靴を履いたままだっけ?

それが気にかかった次の瞬間、体が一気に下に向かって加速し始めて

すとーんSTONEと「私」の体は落ちていく。

落ちていく。


   落

 ち

    て 

  い

    く

***


ぽすんっ!と私の体は急に落下をやめて、気づけば椅子に座っていた。

目の前にはなが―――い机とティーカップ。


「やあ、アリス。今日は歩いてきたわけじゃあないみたいだね?」

そう右から声をかけてくるのは帽子を被ったお兄さん。


「ええ、今日は空から。でも好きでそうしてるわけじゃないんだから」

そう答える私に帽子のお兄さんは笑顔を向ける。ポットを取り出して(どこに隠しもっていたんだろう?) 彼は私の前のカップにお茶を注いでくれた。

カップのお茶に移りこむセピア色の私の影。

ボブカットにぱっつんとした黒い前髪。うん? 私の顔ってこんなだったかな?

まあいいや。見えてるとおりにこういう顔だったんだろう。


「それじゃあアリスも来たことだし、また初めから話そうか?」

お兄さんはそういって私の左に目を向ける。そこにいるのは私と同じくらいの背丈の(ああ、背丈というのは耳の長さをいれないでだけど)ウサギさん。


「そうしよう。そうしよう。なんてったってこれはアリスのための話あいだもの」

ウサギがしゃべっていることに不思議とおかしさを覚えない。(でもそれが不思議ってことはおかしいってこと?)

なんだか頭にもやがかかったようで意識がはっきりしない。

状況を整理しましょう。アリス、帽子屋、うさぎ。

うん。わかる。「不思議の国のアリス」だ。子供の頃に読んだ本。ちゃあんと覚えてる。今は私がアリス。うん、そういうことだ。


「なにが子供の頃に読んだ、だ。君がアリスを読んだのは高校生になってからじゃないか」

帽子屋の持ったポットから顔を出したネムリネズミが私の思考に突っ込みを入れてくるが無視。


「それで帽子屋さん? 今日のお茶会の話題はなあに?」

「今日のテーマかい? それは…………」

やけに溜めるのでこらえ切れずに私は急かした。

「テーマは?」

性転換トランスセクシャルさ」


性転換。トランスセクシャル。

異性の体になるということ。

異性の心であるということ。


「それはとても…取り扱いづらいセンシティブな問題ね」


「ああ。確かに感受性センシティブの問題だ」

帽子屋はそういってうなづいた。

「少なくない男性が女性になりたいと願い。同様に男性になりたい女性もいる」


「ええ。でもそれは個人の趣味嗜好の問題で他人がとやかく言うことじゃないわ」


「他人がとやかく言うことじゃなくても本人がとやかく言うのなら? 僕らは君で、君は僕らなんだから。ねえ、女の子のアリス?」

ネムリネズミが茶壷ティーポットから顔を出して茶々を入れる。茶壷だけに茶々。ふふっ。面白くもない。


ガシャンと私は茶壷の蓋を閉じた。


「それで、ええと。何の話だったかしら?」


「どうして人は異性になりたいと願うのか? そういう疑問を持ったことはないかい?」


「そうね、異性になりたいのでなく自分ではない自分になりたくて…スターやスポーツ選手に憧れるように、異性になりたいと願うのは自然なことじゃないかしら?」

アリスは帽子屋とウサギの方を見て言った。


「ふむ。なりたいものとしては同じだろうさ。でもなれるかどうかは同じじゃないよね?」

そう返すウサギの頭の上に、いつの間にか乗ったネムリネズミが口をはさむ。


「どうだろう? 今じゃあ異性になることも不可能ではないみたいだよ。性転換の手術もあるみたいだし」


「いや、なれないのはスターやスポーツ選手の方だよ。もう手遅れだ」

そう言ってウサギは首をぶるぶると振ってネムリネズミを払い落とした。


「なれるかどうか、なれないかどうかは関係なくて、純粋になりたいという気持ちが起こるのはなぜだろう?」


帽子やの問いかけにアリスである私は答える。

「わからないからね」


「わからないから? それはどういうことかな?」

ウサギが追求してきたので私は自信をもって答える。


「異性になりたいと望む人の多くは、まだ異性になったことがないの。だから異性の大変さはわからない。骨身にしみて感じない。感じないからデメリットにはひどく鈍感で。ただいいところだけを羨ましがるの」


「つまるところ異性になりたいと憧れている人は本当に異性になりたいわけじゃなくて美化された異性の良いところだけを持った存在になりたいのよ」


キリっとした顔つきで私はそう言い切った。

幼げながらも美しい少女の顔で。


「正解だ。その通り、人は異性の苦しさに鈍感なのさ」

ウサギが答えてトントンと足を鳴らす。


すると途端に私はおなかが酷く痛くなってくる。

苦痛に表情は歪み美少女の顔は崩れて次第に綻び…意識がブラックアウトした。


***


目覚ましの音で目が覚める。

そうだ昨日は帰ってすぐに寝てしまったんだ。

朝の支度をしなければ。

僕はぐしゃぐしゃになったシャツを脱いで、パリッとしたシャツに袖を通し、男物のスーツに着替えた。

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