5. 父親の信念

 アリスとマルス、それとエルヴィンの三人は、机に向かって何か板のようなものを必死に叩いている男性の姿を捉えていた。

「あれはパソコンというものだ」

「パソコン?」

 さきほどの幸せそうな男の姿はそこにはなかった。あるのは血走った目で必死に何かに取り組んでいる痩せ細った幽鬼のような顔の男の姿。


「エルヴィン、あなたは私に何を伝えたいわけ?」

 マルスは無言でエルヴィンを見つめている。

「この男性は、見ての通り妄執にとり憑かれている。幼い我が子を失ったのだから無理もない。かけがえのない宝物を失った心境は筆舌に尽くしがたい。きっとなりふり構ってられなかったんだ。手段を選ばず、他人の言葉に耳を貸さず、子供を救うためなら道義的かなんて一切考慮せず、できうる限りの万事を尽くしたはずだ。また、彼はそれを可能にする頭脳を持っていたんだ」


 






「みごと完成させましたね」

「まだ試運転だが、完成の一歩手前といった具合だ」

 隣で沼津は恍惚の表情かおをさせモニターを眺めている。

 人の記憶を信号データに変換し、争いも不幸も存在しない完璧な仮想空間インナースペースに送り込む。その空間では生も死も存在せず、ただ永遠の安寧を享受できる――そういう沼津には伝えてあった。

 私の頭脳と沼津の妄想が組合わさり、ゼロから試作機プロトタイプまでこぎ着けることができたことは暁幸だった。

 計画を知ったものは口々に神への冒涜だとか、生命を軽んじてるとか囃し立てていたが、お前らが同じ立場ならどうするというのだ。

 なにもせずにただ指を噛んで現状に甘んじろと?

 私には耐えられない――よって行動に移した。ただそれだけのことだ。

 助かる見込みがない子供を救うためなら倫理などどうでといい。そんな道徳心はとうの昔に可燃ごみとして捨ててやった。


 発案当時、私には構想はあっても資金がなかった。そこを上手く補填したのが理想教の財力だった。

 どうやってかは知らないが、それなりの数の信者にそれなりのお布施を要求しているようだ。

 曰く、喜捨は理想郷に至るための解脱の一歩――とほざいていた。

 お前の妄想のために作ったのではないと釘を指したかったが、このアホも今となっては大口の金主パトロンなので強く物をいうこともできない。

 だがこの関係も残り僅かと思えば腹も立ちはしない。


 ガラス一枚隔てた向こうで静かに眠る我が子の寝顔は、すっかり大人の顔立ちへと変貌を遂げていた。

 この計画を実行に移してからはや二十年――私もずいぶんと年を取った。

 皺も白髪も目立ち、健康など二の次にしていたらいつの間にか体は癌に蝕まれていた。

 しかし、未だ目覚める気配のない我が子達の救世主メシアとなる世界はすぐそこまで、手を伸ばせば手繰り寄せられるところまで来ている。

 なんとしてでもこの計画は完成させなければならないと息巻いていた。

 残りわずかな命の蝋燭を燃やして――


 ピーーーーー


 突然警告音が研究室に響き渡る。

「どうしたんだ」

「大変です!息子さんの心拍数が」

 部下が手元のタブレットを見るや顔を青ざめさせていた。

「なんだ、心拍数が安定しないのか。それなら」

「いえ、その……心配停止状態です」

「なんだとっ!?何をぼさっとしているんだ!さっさと蘇生させないか!」

「もう無理なんですよ!丸栖君の体はとっくに限界を迎えているんです!もう、こんな命を弄ぶような真似はやめましょうよ所長」

「そうか、なら用はない」


 パン――


 部下はそれ以上口を開くことはなかった。床には鮮血が広がる。


「おいおい、無駄な殺生は慎みなさい」

「黙れ。くそっ……完成前だがやむを得ん。今すぐ最終段階に移行する」

「本気でいってるんですか?まだ試運転なんでしょう?それを段階を踏まずに計画を進めるなど私が許すとでも思ってるのか。第一私が安全に理想郷に辿り着けないことには」

「煩い、黙れ」

「え?


 パン――


 沼津は眉間に風穴を開け仰向けに倒れた。その顔は恍惚から打って変わって戸惑いの表情だったが、運が良ければ理想郷へ辿り着けるだろう。

 それが地獄かもしれないが。


「急いで有栖と丸栖を送らなければ……」

 もう残された時間は僅かしかない。

「ゴホッゴホッ」

 口許を押さえた掌には鮮血がベッタリと付着していた。

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