2. 少年の選択
あれから僕達の船はユーロポールに帰港した。各地の名産品を携え、より高値で売れそうな商会に卸す。
行商人は商品の目利きや、何が必要とされるかを見極める能力が必要だけど、一番重要な仕事は値段交渉だ。
そこで足元を見られようものなら、儲けが出ず、下手すると時間と労力をかけて運んできた商品が価値のないものに変わってしまうこともある。
実際に僕はやらかした経験があった。
自分の力を過信して調子に乗って交渉の真似事をしたら、全く利益が出なかったのだ。
ドレークさんには拳骨一発で許してもらえたけど、そのお陰で商人の強かさを学ぶことができたのは良い経験になった。
人は思わぬ才能を持っていることもあれば、その逆も多々ある。あのジャンが実は交渉事にはめっぽう強くて、数々の商談をまとめてきたのには驚かされた。
そんなジャンの横で、僕は交渉術を学んでいるのだ。
「なぁ、そこのお前。ちと話があるんだが」
ある日、奴隷の人達に食事を与えているときに、目付きの悪い男に柵越しに声をかけられた。
その男は、ある町に立ち寄ったときに奴隷商すら手放そうとしていた札付きのワルだった。
正直、引取り手も見付けられないような男だけど、ティーチさんの鶴の一声で引き取ることにした経緯がある。
その奴隷商とティーチさんが何やら話をしていたようだけど、それは僕の預かり知らぬことだった。
「なんですか?食事の量に不満があるなら受け付けませんよ」
「違う違う。お前に話したい用件があるんだよ」
「なんですか?」
その男の眼はギラギラと鈍く輝いていて、近付けば飛び掛かってくるような獰猛さを感じさせる。
「なぁ。お前はこの国がおかしいとは思わねぇか?」
「はい?何の話ですか?」
「しらばっくれなくてもいい。お前の顔を見ていればわかる。お前は俺と同じで、変化しないこの世の中に不満を抱いている。特に俺達のような奴隷の面倒を見てるときがわかりやすかったな。この変えようのない身分の格差に悩んでるんだろ?」
「ええ。確かに僕は奴隷を無くしたいと思ってますよ。ただそれには時間がかかります。ですので僕は僕のやれることを一生懸命取り組んでるんですよ」
「ほー坊ちゃんはお優しいんだな」
男の言い方には、こちらをバカにするような意図を感じた。
「何が言いたいんですか?」
「そんな焼け石に水なことを繰り返してなんになる?お前らのやっていることは、単なる自己満足の自慰だよ」
「自慰って……あなたは無駄だと言いたいんですか?」
「無駄じゃないとでも言ってほしいのか?やり方が温いって言ってんだよ。古い体制はぶち壊さない限り、変わることはない。お前があのライデンを味方に取り入れてるのも、この国の支配者階級に少なからず恨みがあるからなんだろ?」
「あなた、ライデンさんを知ってるんですか?」
「当たり前だ。あいつは裏社会じゃ有名だからな。それより、もしお前が本気でこの国を変えたいと思ってるのなら、俺に相談しな」
「何言ってるんですか……僕は行きますからね」
彼の言わんとしたことが理解できなかった、いや理解したくなかったマルスは、その場から去っていった。
マルスは深く考えないようにしていたことがある。
この国は、何をしても結局変わらないんじゃないかと。僕達が目に見えないところで地道に奴隷を救ったところで、あの男に賛同するわけではないけれど、焼け石に水なのでは……。そう思うこともあったのは事実だ。
「はぁ……僕はどうしたらいいんだろ」
「あら、マルスじゃない。戻ってたのね」
その
成長期を迎えてる彼女は、いつの間にか僕の身長を超えてお姉さんっぽくなってるのは、何だか悔しい。
「うん。昨日戻ってきたんだよ。リャナは買い物かい?」
「ええそうよ。良かったら買い物がてらお散歩しましょう」
途中にあった屋台でバラ芋の串を二つ買い、近くの階段に僕達は腰掛けた。すると、潮風に乗って甘酸っぱい香りが漂ってくる。
(あれ?なんか良い香りがする。どこかで果物でも売ってるのかな)
くんくんと匂いを辿ると、隣で座っている彼女から果物のような甘酸っぱい香りが漂ってるのがわかった。
「何かつけてるの?」
「あら、そういうのに疎そうなマルスでも気付くのね。これはご主人様から頂いたオレンジの香水よ。良い香りでしょう?」
僕に指摘されたのが嬉しかったのか、いつになく上機嫌のリャナは、もっと嗅げとでも言うように僕に顔を近づけてきた。
急に近づいてきたリャナに、僕はドキドキしてしまった。
「あのね、僕だってそのくらいわかるさ。これでも行商人だからね。香水は商品で扱ったりするんだよ」
彼女の前でまさか知らないとは言えず、さも知ってるような態度をとってしまった。我ながら恥ずかしい……。
最近リャナといると、どうにも変な行動をとってしまう。
「ふーん。まぁいいけどさ。それより何か悩んでるの?」
「え?」
「またあの時みたいな顔してたよ?良かったら話してみなよ」
そういえば少し前にリャナと初めて会ったときも、こんなことあったっけ――あの時はリャナに助けられた。それからもリャナには助けてもらっている。
毎度毎度助けてもらってばっかで悪いけど、僕は悩んでることをリャナに話した。
「実はね、今やってることに疑問を感じてるんだ……。リャナはドレークさんに恩義を感じてるだろうから、僕の事を批判すると思う。だけど、今やっている活動の限界も見えてるんだよ。何をしてもこの国の問題を根本的に変えることは出来ないんじゃないかってね……」
僕の話を黙って聞いていたリャナは、少し間を置いて口を開いた。
「あのね、なにも私はドレークさんのやってることが、無条件に正しいとは言わないわよ。むしろ全てが正しい人間なんていやしない。私はね、マルスはもっと他人に頼っても良いと思うの。一人でできないことでも、二人三人いればなんとかなるかもしれない。だからもっと私を頼ってちょうだいよ」
「うん……そうだね。きっと他に手段はあるはずだよ。時間はかかっても、いつか解決できるよね」
「そうだよ。マルスはちょっと楽天的なくらいがちょうど良いわ」
そう言って笑うリャナは、とても可憐な少女の顔をしていて、ドキドキした僕は彼女をまともに直視することが出来なかった。
彼女も早く開放してあげたい。いつかは僕の隣で……と考えることもある。
最初はアリスみたいで苦手だったけど、慣れると家族みたいで、彼女といるときは僕にとって幸せな時間であることは間違いない。
ライデンさんやティーチさんは、それは恋だと茶化してくるけど、正直僕には恋というものがよくわからない。
わからないけど、手放したくはない感情だった。
「さて、そろそろ帰りましょうか。マルスもやることあるでしょう?」
「そうだね、帰ろうか」
僕の話が聞けて気が済んだリャナは、埃を払いながら立ち上がった。
「何か通りが騒がしくない?」
確かに何やら騒ぎ声が聴こえる。それも多くの悲鳴も――
好奇心旺盛な僕とリャナは、騒動の原因を確認しようと通りに出ると、そこでは何かから逃げるように通行人が逃げ回っていた。
それでも人の流れに逆らうようにリャナが先を行くので、必死になって後について行くと、一台の豪華な馬車がリャナ目掛けて突進してきていた。興奮した馬が突っ込んでくる――リャナは恐怖で足がすくんだのか、その場から動けずにいた。
「危ないっ!」
僕は咄嗟にリャナの手を引こうとしたけど、それは遅すぎた。その手を掴もうとした瞬間、目の前を馬車が通過していき、僕の意識は遠退いていった――
……誰かが僕を読んでいる……。
誰なの?今とっても眠いんだよ……。
――マルスっ!――おいっ!マルスっ!
「んあ?……ジャン……何してるの?」
そこには鼻水と涙で顔をグシャグシャにしたジャンがいた。
「何してんのじゃねぇよ!死ぬんじゃねぇかって心配したんだぞ!」
「何言ってるの?……あれ……半分しか見えないや」
「マルス。お前は事故に遭った。そして大怪我を追って左目を失明したんだ」
「おいドレーク。何も今言わなくてもよ」
え……事故に遭った?……僕が?
そういえばリャナは何処に?
「リャナは何処にいるんですか?」
なんでみんな黙ってるの?教えてよ。ねぇ!教えてよ!
「リャナは死んじまったよ。馬車に轢かれてな……」
その日は、僕にとって最悪な一日となった。
後日ドレークさんに加害者の話を聞くと、馬車に乗っていたのは王都の貴族でお忍びで奴隷を買いに来ていたらしい。
満足する買い物が出来なかったそいつは、御者に八つ当たりで怒鳴り付け、その際に馬が驚いて暴走してしまったのだ。
その結果、死者五名・負傷者二十名の大事故になってしまった。
目の前でリャナを失ってしまった僕は、何もする気が起きなかった。
奴隷達に食事を与え、力なくイスに座り込む。
「おい、聞いたぞ小僧。大事な女を亡くしたらしいな」
「なんだよ……話しかけるな」
「奴隷なんかでなければ、あの場にいることもなく死なずに済んだのにな」
「うるさい……」
「貴族が奴隷を買いに来なければ死ななかったのにな」
「うるさいって言ってんだろ!」
「お前の大事な女の死は、運が悪かったんじゃねえ。この国の矛盾が生んだ一つの結果なんだよ」
「……そんなこと」
「よーく考えてみろ。貴族は処罰されなかったろ?被害者は泣き寝入りするしかねぇ。それでも涙を飲んで我慢するなら何も言わねぇよ……だがおかしいと思うなら俺の手を取れ」
リャナ……なんで僕を残して死んでしまったんだ
僕は君に笑っていてほしかったのに
君がもういないのなら
僕は悪にでもなる
この世界を救ってやる
柵越しに出された手を、僕は握り返した。
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