第71話 一葉さんとの馴れ初め

 一葉さんは、店内ではなく自宅の方の居間に通されていた。

 母は、キッチンでお茶を注いで持ってくる。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 一葉さんは丁寧にお辞儀をして、目の前に置かれた湯呑を手に持つ。


「ほら、あんたも手伝いなさい」

「お、おう……」


 母に言われて芳樹は席を立ち、キッチンへと向かう。

 すると、一葉さんからは見えない位置で、母がちょいちょいと手招きをしてきた。

 芳樹が顔を近づけると、母が耳元で尋ねてくる。


「あんた、あんなべっぴんさんどこでとっ捕まえてきたんだい!?」

「まあ、色々とあってな」

「もしかして女子寮かい? 女子寮の住居人なのかい!?」

「あぁもううるさいな! 向こうでちゃんと説明するから、目をキラキラとさせるな」


 息子が彼女を実家に連れてきたとあって、珍しく母もテンションが上がっていた。

 こんなに浮かれている母を見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。

 けれど、この母の喜びを、これからぶち壊さなければならないのだから、なんだか噓をついていることが申し訳なくなってくる。


 早く色々と聞きたい欲が出ているのか、母はお菓子の入った皿を芳樹に預け、軽い足取りで居間へと向かっていき、一葉さんの向かい側に腰かけた。


「芳樹の彼女さん!」

「はい?」

「うちの息子とは、一体どこで出会ったの?」


 椅子から立ち上がりそうな勢いで、母は興味津々に一葉さんへ尋ねる。

 一葉さんは対照的に、落ち着いた様子でお茶を啜ってから、ゆっくりと質問の問いを返した。


「初めて会ったのは、私がまだ大学生の頃でした。自暴自棄になっていた私を、彼が勇気づけてくれたんです」

「うちの息子が?」

「はい。大学生になってからというもの、私はお見合いばかりさせられていました。それが苦痛で家出したんです。行く当てもない中、一人途方に暮れて見知らぬアパートのドアの前で座り込んでいたら、そこがちょうど彼の家だったんです」

「それで、それで!」


 母は急かすように続きを促す。

 というか、ちょっと待って。

 一体いつの間に一葉さんは芳樹との馴れ初めの設定を考えていたんだ!?

 作り話にしては妙にリアルすぎる。

 芳樹が一葉さんの設定の作りこみ具合に驚いている間にも、一葉さんは母へ馴れ初め(仮)を語っていく。


「お見合いに疲れて、結婚とか恋愛とかどうでもよくなっていた私は自暴自棄になっていたんです。そこで、酔っ払っていた彼と出会いました。『おい、そんなところで何してんだ?』彼がそう言ってきたので、私は単刀直入に言いました。『家出してきたから泊めてくれませんか?』と」


 すると、芳樹は一瞬頭の中に、ふわりとした変な違和感を感じた。


「彼は家出してきた理由も問わずに『そうか、まあ夜遅くに一人も危ないから、上がれよ』と言ってくれました。私はその時に、すでに覚悟を決めていたんです。彼に捧げる覚悟を。部屋に入った私は、すぐに彼を誘惑するために服をその場で脱ぎ捨てました。もうこの見知らぬ初対面の男の人に抱かれて、いろんなものを捨てようって」


 一葉さんの話は作り話のはずなのに、芳樹は既視感を感じていた。

 あとちょっとというところまで出かかっているのに、記憶が曖昧で思い出せない。


「私は勝手に彼のベッドに上がり込んで言いました。『宿泊料は体で払うわ』って。その言葉を聞いた彼は、眉間にしわを寄せて、まるで理性を失った獣のように私の肩を抱いて……そのまま私を押し倒しました」


 それを聞いた母は、芳樹を幻滅した様子でにらみつけてくる。


「ストップ! どうしてそんな平気な顔して嘘がつけるんですか!?」

「話の腰を折らないで頂戴、今からがいいところなのだから。それに私はただ、真実を話しているだけよ」


 ごく当然のように言う一葉さん。

 母の視線がさらに冷え切ったものへと変わる。

 しかし、芳樹もなぜか完全な嘘だとは思えなかったので、それ以上強くは否定できなかった。

 なぜか、一葉さんのその話を聞いていると、既視感があったから。

 一葉さんはその場を収めるように一つ咳払いをした。


「話の続きをしますね。押し倒された私を彼が上から見下ろしてきて悟りました。あぁ、もう私はこの男の人に肉欲のままに襲われるんだと……」


 もうこれ以上母に変な嘘を吐くのは辞めてくれ。

 そう声に出したかったけれど、芳樹の中にある違和感のせいで、制止の声を出すことはできない。


「そしたら、彼は言ったんです。『やだね』って」

「えっ……」


 思わぬ展開に、芳樹は唖然とする。


「『そんな簡単に知らねぇ男の家に上がり込んで、体で対価を払おうとすんじゃねぇ。そういうことは、運命の相手に心を許したときにお願いしろ!』と言われて、断られてしまいました」


 あっ……。

 そこで、芳樹の中にようやく、一人の女性の姿が記憶の中から掘り起こされる。


 赤の派手なワンピースに身を包み、メイクをばっちり決めたショートの茶髪髪が特徴的な女性。

 どこか反抗的で、この世の中は腐っているといったような絶望した表情を浮かべていた女子大生。

 記憶は断片的のため、彼女に何を言ったのか明確には覚えていない。

 ただ、彼女をこっぴどく説教したのだけはなんとなく覚えている。

 つまり、芳樹と一葉さんは、社会人になって知り合う前からすでに出会っていたのだ。


「そこで、私は思ったんです。『あぁ……いくらお酒に溺れていても、場の流れで女の人に手を出さないような男性もいるんだなって』」


 記憶が曖昧なのは、やはり芳樹が酔っ払っていたからのようだ。

 くるみちゃんといい霜乃さんの件といい、芳樹は女子寮の住居人と過去に何かしらの出会いがありすぎる。


「私はそれから決めたんです。こういう誠実な心を持った人と結婚しようって! それから二年経って、私と彼は再会しました。そこで初めて、芳樹さんという名前を知りました。もう絶対に彼を手放したくない。そう思ってから、私は彼に猛アタックしました」

「それで、うちの息子の心をついに奪ったんだね」


 今まで黙って聞いていた母が嬉しそうにうなずく。

 しかし、一葉さんは肯定も否定もせず、ただにっこりと微笑みをたたえていた。


「あんた、傷ついた彼女に対して、よく誠実に向き合ってあげたわね」

「えっ……? あぁ、うん……」


 正直、記憶が断片的なため、自分がそんな行動をした実感がわかないので、微妙な受け答えしかできない芳樹。


「実は、この話にはまだ続きがありまして……」


 すると、二人の意識は再び一葉さんのもとへと向かう。

 そこで一葉さんは内ポケットの中からさっと名刺を取り出して、母のもとへ差し出した。

 もちろんそれは、笠間不動産に所属する一葉さんの名刺。

 名刺を見た母は、目を見開き、明らかに動揺を示した。


「私はまだ、父から許しを得ていません。私の父をご存じですよね、土浦清美さん」

「……なるほど、そういうことかい」


 母の中でこれまでの経緯が一致したのか、納得した表情を浮かべた。


「最初から、これが目的だったのかい」

「いえっ……ただ、私はお願いをしに来たんです」


 そして、一葉さんは姿勢を正してから、深々と頭を下げる。


「どうか私たちの未来のために、父の説得にご協力してくれないでしょうか?」


 そういって、一葉さんは母を当事者に巻き込むことで、今までのいきさつをすべて暴こうとしていたのだ。


「どこまで知っているんだい?」

「いえ……詳しくはまだ何も……」

「そうかい……」


 母はしばらく目を閉じて、何か考え込むように黙考する。


「清美さん。ご迷惑でなければ、父と昔何があったのか、教えていただけませんか?」


 一葉さんがお願いすると、母はふぅっとため息をついて、すっと目を開けて視線を一葉さんに向ける。


「わかったわ。あんたらのためさ。協力してやる」

「感謝いたします」


 一葉さんがお礼を言うと、母は一つと息をついてから、過去のことを語りだした。

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