第72話 母と八雲さんの出会い
「あれはもう、三十年以上前の話さ。高校を卒業した後、都内のスナックでアルバイトとして働いてた時、先輩社員に連れられてお客として来店してきたのが八雲さんだった」
「母さん。昔都内に出てたのか!?」
父と母は、地元で出会ってそのまま結婚したと芳樹は聞いていたので、てっきり母は、一度も都内へ出稼ぎに出たことはないとばかり思っていた。
「まあ、私にも都会で働きたいっていう若気の至りみたいな時期があったのさ。もちろん大反対されたけどね」
母が反対されたのは、芳樹の祖父母からだろう。
しばらく顔を見ていないけれど、頑固で強面の厳格な祖父のことだ、高校卒業とともに都内へ向かわせるのを断固拒否したことは容易に想像ができる。
「話を戻すけど、年が近かったこともあって、お店で色々と意気投合してね。それぞれの悩みや相談事を話したりしてたのよ。当時、携帯電話なんて持っていなかったから、八雲さんはそれから定期的に、一人でお店に足を運ぶようになってくれてね」
「パっ……父はその時から清美さんに好意を抱いていたということですか?」
一葉さんが尋ねると、母はこくりと首を縦に振る。
「あぁ……四、五回ほどお店で会った後、バイト終わりに出待ちされて、お店の前で告白されたのをよく覚えている」
八雲さんが意外と行動的で情熱的な人であることに驚きを覚える。
それは、一葉さんも同じだったようで、驚きつつ母へ尋ねていた。
「それで……父とは……」
母はすっと目を閉じて首を横に振った。
「もちろん最初は断ったさ。彼がどういう身分で、私となんて釣り合わないってことくらい、簡単に分かるだろ。それに、お見合いで出会った女性と婚約する予定だってことも耳にしていたからね」
つまり、八雲さんも家族や会社のしがらみに縛られることなく、自由な恋愛を求めて抗っていたのだ。
それは、今の一葉さんと類似している。
「私が断った後も、彼は何事もなかったようにお店に来ては、『考え直してくれないか』ってずっと言い寄られたさ。そりゃもう、鬱陶しいくらいにね」
当時の様子が頭の中に思い浮かんでいるのか、母はどこか懐かしむように思い出に耽って微笑んでいた。
刹那、すっと表情を引き締め、沈んだ顔を浮かべる母。
「けれど、彼に時間は残されていなかった。両親から勧められたお見合い相手となし崩し的に婚約することが決まってしまってね。それから、彼が私の前に現れることはなくなったよ」
「そうですか……」
初めて知る八雲さんの若かりし頃。
それを聞いて、一葉さんはどう思っただろうか。
おそらく、八雲さんはすべてを見越して、一葉さんに諦めさせようとしているのではないか。
自分と同じ目に遭うくらいなら、最初から自由など求めてはならないと。
自由を求めてうまくいかないと分かった時に、傷つくのは一葉さん自身なのだから。
そこで、芳樹は一つ単純な疑問が浮かぶ。
「ん? でも、それから母さんはどうしてまた八雲さんと再会したんだ?」
芳樹が母に尋ねると、母はふぅっとため息を吐いた。
「三年くらい前だよ。突然彼が現れたのは。彼は突然現れて、『私のこと、覚えていますか?』って聞いてきた。最初はお互い三十年近く会っていなかったんだからわからなかったさ。でも彼から名前を述べて、彼は言ったのさ。『ずっとあなたを探し続けていました』ってね。それから彼は、また定期的に私に会いに来るようになった。もちろん、今は恋愛感情とかそういったものはないだろうけどね」
「でもずっと、父は清美さんのことを心の中で気にかけていたのは間違いないですよ。だって再会してからずっと定期的に会いに来ているんですから」
「そうかもしれないね……今はこうして別の人と結婚して、お互い家庭を持って生活を送っているけど、空白の三十年なんてなかったように、彼はまた私と他愛ない話をしてくれるのさ」
母と一葉さんはそこで会話が途切れ、あたりに沈黙が流れた。
芳樹はそこで、一つの見解に至る。
「だとしたら余計に、親として娘には自由になってほしいと思うものなんじゃないですかね」
「芳樹君?」
「だってそうじゃないですか。自分と同じ二の舞を演じてほしくなければ、普通お見合いなんてさせずに、そのまま自由にさせるはずじゃないですか。どうして子供にも同じ目を合わせようとして悪しき伝統を押し付けるんですか? 俺なら、子供には自由になってほしいと思うのに……」
「仕方ないさ。育ちの環境によって、その親の考え方は変わるものさ」
母はいら立ちを覚える芳樹をなだめるように言う。
「ありがとう芳樹君……やっぱり、あなたに出会えて私は本当によかったわ」
一葉さんは芳樹の思う気持ちがうれしいのか、瞳を潤わせていた。
「一葉さん……」
すると、芳樹の肩を母がポンっと叩いてくる。
「はぁ……こんな心優しい人があんたの彼女さんなんて、鼻が高いよ」
そう言って、母は芳樹の肩を手すり代わりにしてゆっくりと立ち上がった。
「あんたらの幸せのためだ。ここは重い腰を上げて、一肌脱ぎますかね」
「お母さま……」
母の勇ましい姿を見て、一葉さんは感動したように瞳から一筋の涙を流す。
「ありがとうございます……!」
そして、感謝の意を込めて、一葉さんは深々と頭を下げた。
「気になさんな一葉さん。これも、二人の幸せを願う母の仕事さ」
「ありがとうございます」
なんだろう……だんだんと引き返せないところまで来てしまったような気がする。
「ほれ、あんたからも何か言うことはないのかい?」
母がじとっとした目でにらみつけてくる。
「えぇっと……よっ……よろしくお願いします」
芳樹はその場で立ち上がり、母に向かって頭を下げる。
頭を下げながらちらりと一葉さんの方を見ると、彼女はにこりと笑いながら、ポケットからちらりと目薬を見せつけてきた。
まさか……これも全部一葉さんの計画通りってことなのか……!?
どんどんと仮の恋人関係であるということを言い出せない空気が作られている。
まあ、八雲さんとの問題が解決した後、一葉さんも一緒に謝ってくれるだろう。
そう楽観的にとらえていたが、芳樹は気づいていなかった。
一葉さんがさらっと外堀を埋めていることに……。
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