第45話 霜乃さんからの女としての誘惑
夕食を終えてビルから外に出る。
凍えそうな冷たい夜風が肌に突き刺さり、体温を蝕んでいく。
芳樹は室内との温度差に、思わず肩を抱いて身震いする。
「うぅっ……やっぱり夜は寒いですね」
「そうね……特に冬の夜は堪えるわ」
「身体が冷える前に、早く駅に向かいましょうか」
そう言って、芳樹が駅へと向かおうとしたところで――
「待って!」
がしっ、と霜乃さんに腕を掴まれる。
ふいに腕を掴まれて、芳樹が振り向くと、彼女は恥ずかしそう頬を染め、視線を泳がせていた。
「霜乃さん、どうかしましたか?」
芳樹が首を傾げて尋ねると、霜乃さんは縋るような上目遣いで見上げてくる。
「実はね……もう一つ寄りたいところがあるの。一緒に行ってくれないかしら?」
「いいですよ。どこですか?」
別に断る理由もなかったので、芳樹が快く承諾すると、霜乃さんは「こっち」っと小さく胸元辺りで手招きをして、芳樹の手を引きながら、駅とは逆方向へ歩き出す。
駅のロータリーから離れ、飲み屋街から少し入り組んだ細い道へと霜乃さんは入っていく。
「あの……霜乃さん? どこへ向かっているんですか?」
この辺りには、雑貨やファッションのお店もなければ、アニメショップなども存在していない。
一体どこへ連れていかれるのだろうか。
段々と不安になってくる芳樹をよそに、霜乃さんは無言で路地を突き進んでいく。
すると、細い四つ角にたどり着いたところで、霜乃はピタリと足を止めて立ち止まった。
「ここよ……」
「えっ……」
霜乃さんが指差す先にあった建物を見て、芳樹は口をぽかんと開けて呆けてしまう。
それもそのはず、何故ならそこは、クリスマス仕様の煌びやかな電飾がなされた大人のホテル。
つまり、ラブホテルだったのだから。
「霜乃さん……これはどういうことですか?」
「だって……今日はイブの夜よ? 私が芳樹さんをわざわざこの日に誘ったのか、それくらいわかるでしょ?」
「もしかしてそれって……」
霜乃さんは、恥ずかしそうにコクリと頷く。
芳樹はようやくそこで、霜乃さんの意図に気が付いた。
思ってもみなかった展開に、芳樹の頭は混乱に陥る。
今日はてっきり、風邪を引いてしまったお礼にデートをするだけだと思い込んでいた芳樹。
しかし、霜乃さんの中ではお礼というのは建前で、違う意味を含んでいたのだ。
ここまで具体的に示されれば、霜乃さんが今日の芳樹とのデートをどう捉えていたのかなど、言われなくても理解できる。
「ちゃんとこの日のために予約もしておいたの……」
「……これも、冗談ですよね?」
芳樹は最後の希望を込めて、そんな的外れなことを尋ねることしか出来ない。
また芳樹をからかっているだけで、実は冗談ではないのかという、淡い希望を込めて……。
けれど無情にも、霜乃さんは首を横に振った。
「いえ……私は本気よ」
その希望は、霜乃さんの言葉で簡単に打ち砕かれた。
先ほどまでの楽しかったデートの雰囲気とは打って変わり、霜乃さんの眼差しは真剣味を帯びている。
つまり霜乃さんにとって芳樹とのデートは、全て芳樹をその気にさせるために仕掛けたものだったのだ。
「えぇっと……」
「ねぇ芳樹さん。私じゃダメかしら」
その霜乃さんの懇願するような瞳は潤んでいて、とても色っぽく感じてしまう。
正直言って、身体に悪い。
芳樹の気持ちなどつゆ知らず、霜乃さんは芳樹の手をきゅっと掴み、さらに迫るように覗き込んでくる。
「ねえ芳樹さん。私のこと、一人の女として抱いてくれないかしら?」
彼女の顔は、完全にメスの顔へと化していた。
その表情を見てしまえば、芳樹の身体も反応してしまうわけで……。
思わず生唾を呑み込んでしまう。
いきなりすぎて、心の準備など全くできていない。
というか、霜乃さんをそういう対象として見たことがなかった。
突然女として見て欲しいと言われても、芳樹にとっては困惑するしかなく、今すぐに決められるものではない。
けれど、ここまでされて断るということは、必然的に彼女の気持ちを踏みにじることにもなるわけで……。
それでも決めなければならない究極的な状況に、芳樹は下唇を噛んではがゆさを滲ませる。
「えっと……俺はっ……」
芳樹が言葉を紡ごうとした途端、芳樹のポケットでスマートフォンのバイブレーションが振動した。
振動し続けているので、どうやら誰かからの電話らしい。
「ちょっとすいません」
霜乃さんに断りを入れて、芳樹がポケットからスマートフォンを取り出す。
画面に表示されていたのは、瑞穂ちゃんの文字。
何かあったのかと思い、芳樹は通話ボタンを押して、スマートフォンを耳元へと近づける。
「もしもし瑞穂ちゃん?」
「芳樹―助けてぇぇぇぇ!!」
聞こえてきたのは、瑞穂ちゃんの今にも泣き出しそうな悲痛な叫び声。
「瑞穂ちゃん、どうしたの!? 何かあった!?」
不審者に追われてでもいるのではないか、芳樹の意識は一気に現実へと引き戻され、瑞穂ちゃんを心配する気持ちに支配された。
「へっ、瑞穂ちゃん!?」
霜乃さんも、芳樹の焦りっぷりからのっぴきならぬ事態だと察したのだろう。
理性を取り戻し、芳樹の元へと寄ってきて心配そうに電話越しへと近づいてくる。
芳樹は通話をスピーカーモードに変更して、霜乃さんにも通話が聞こえるようにした。
『ぐへへっー瑞穂ちゃーん。もっと私と一緒に遊ぼうよー』
しかし電話越しから聞こえてきたのは、呂律のまわっていない女の声で……。
「助けて芳樹―! 二人が酔っぱらって収拾がつかないの! 早く帰ってきてー!」
『瑞穂―! 男のいない寂しい女の夜を楽しみましょー!』
「いやっ、抱きついてこないでぇぇぇ!!!」
どうやら察するに、仕事から帰宅した瑞穂がリビングに顔を出したら、泥酔した一葉さんと梢恵に絡まれてしまったのらしい。
「……」
「……」
芳樹と霜乃さんはお互いに苦い表情を浮かべて見つめ合う。
「帰りましょうか」
「えぇ……そうね」
結局二人とも、自分のことより他人優先なのだ。
住居人の粗相の始末は、管理人の仕事でもあるのだから。
もう二人の中で、無視してホテルに行くという選択肢は完全に消え失せていた。
すぐに帰宅してあげないと、瑞穂ちゃんが二人のゾンビに殺されてしまう。
こうして聖なるクリスマスの夜は、明確な答えを出さずに、寮へと帰宅することになった。
◇
そんなクリスマスイブの夜。
とあるオフィスにて、二人の男たちが机を挟み、重苦しい雰囲気で向かい合っていた。
「私どもで調査いたしました結果。あなたの奥様は、現在こちらで身を隠してひっそりと暮らしているようです」
眼鏡の男がテーブルの上に証拠写真を置いていく。
映っていたのは、『女子寮小美玉』へ出入りする霜乃の姿を捉えた写真の数々。
「そうですか……ご協力ありがとうございます」
依頼人である向かいに座った端正の整った顔の男は、律儀に頭を下げる。
やっとだ……やっと見つけたぞ霜乃。
もう逃がしたりしない。
絶対に俺の元へと戻ってきてもらうからな……!
霜乃に、危険が迫ろうとしていた。
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