第20話 初めての朝食
瑞穂を見送り、芳樹が寮に戻ったのは、朝の五時半を回った頃。
玄関で靴を脱ぎ、朝食の準備を始めるためリビングへと向かう途中、ドアから明かりが漏れていることに気づく。
廊下の突き当りにあるリビングのドアをそっと開けると、そこにはエプロン姿の霜乃さんがキッチンに立ち、せっせと朝食の準備を進めていた。
芳樹の姿に気がつき、霜乃さんは柔らかい笑顔を浮かべる。
「あら芳樹さん。おかえりなさい」
「おはようございます霜乃さん。すいません、急いで俺が朝食を作りますので、霜乃さんはゆっくりしてていいですよ!」
「いいのよ、気にしないで。私の日課のようなものだから」
「だとしても困ります。昨日はお言葉に甘えましたけど、朝食作りは管理人の仕事ですから」
「いいのよ。だって芳樹さんは、瑞穂ちゃんを駅まで送ってきてくれたのでしょ?」
「……知ってたんですか?」
まさか、霜乃さんに気づかれているとは思いもしなかった。
「あの子、ああいう性格だから。昨日のこともあったし、芳樹さんと顔を合わせずに済むよう、朝一に家を出てると思ったのよ。どうやら、作戦は失敗したみたいだけれど」
そう言って、にっこりと芳樹の格好を見つめる。
そりゃ、寝間着にコートを羽織った状態でいれば、外に出ていたことはバレバレだ。
「わぁっ、すいません、お恥ずかしい姿をお見せしてしまって。すぐに着替えてきます」
芳樹は踵を返して、急いで着替えに向かおうとしたら――
「芳樹さん」
と、霜乃さんに呼び止められた。
芳樹が振り向くと、霜乃さんは慈愛に満ちた表情を向けている。
「気難しい子だけれど、瑞穂ちゃんのこと、どうかよろしくお願いします」
まるで、保母さんに娘を預ける母親のように頭を下げてくる霜乃さん。
「はい、もちろん。管理人として当然です」
芳樹がそう答えると、霜乃さんは顔を上げ、安心したような瞳で見つめてくる。
その表情はまさに、瑞穂ちゃんを我が子のように慈しむ母親のようだ。
「それじゃ、着替えてきますので」
「はい、いってらっしゃい」
霜乃さんとのやり取りを交わして、芳樹は寝間着から着替えるため、一旦リビングを後にする。
一葉さんに霜乃さん、おそらく加志子もだろう。
この寮で最も知名度がありながら、最年少である瑞穂ちゃんを、みんな心配している気持ちは同じなのだ。
だからそこ、その期待に応えるためにも、芳樹は瑞穂ちゃんを管理人として出来る範囲で助けてあげようと決意するのであった。
霜乃さんと朝食の準備を進めていると、寝間着姿の一葉さんが目を擦りながら共同リビングに現れる。
「おはよう……」
「おはようございます一葉さん」
「ん? あっ、そっか。昨日から芳樹君がいるんだったわね。おはよう~」
一葉さんはまだ寝ぼけているようで、ふらふらと身体を揺らし、足下もおぼつかない様子で席についた。
ちなみに、かっしーは霜乃さん曰く、あと二時間くらいしたら起きて来るらしい。
大学生は自由に授業の時間割を組めるので、日によって起きる時間がバラバラになりがちなのである。
「ほら一葉、今日は芳樹さんが作ってくれた朝食なんだから、もっとシャキッとしなさい」
そう言って霜乃さんは、一葉さんの前に出来上がったばかりの朝食を置く。
今日の献立は焼き鮭にひじきのおひたし。白米に豆腐と油揚げの味噌汁という和をテイストにしたもの。
「さっ、どうぞ召し上がって下さい。霜乃さんも、片付けは俺がやりますので朝食の時間にしていいですよ」
「あらそう? なら、お言葉に甘えてそうさせてもらおうかしら」
霜乃さんはエプロンを取り外し、まだ半分寝ぼけたままの一葉さんの向かい側へと座る。
そして、手を合わせて「いただきます」と食材に感謝してから箸を持つ。
鮭の身をほぐして、箸で摘まんで口に持って行く。
何口か噛んだ後、霜乃さんは頬に手を当てて、とろけたような表情を浮かべる。
「んんっー! この焼き鮭脂が乗っていて美味しい! まるで高級旅館で出るような美味しさだわ」
「そんな大げさですよ。でも、ありがとうございます」
「ほら、一葉も食べて見なさい! きっと驚くわよ」
「うん……」
興奮した様子の霜乃さんに急かされて、相変わらず眠そうな一葉さんは、なんとか箸で鮭のほぐした身を箸で摘み口へと運ぶ。
口に含み数口噛んだ瞬間、一葉さんの虚ろだった目がキリっと蘇る。
「美味しい、何これ!?」
一葉は驚きを隠せないといった様子で、感動の声を漏らして焼き鮭を見つめる。
お口に召したようで一安心だ。
「これ、どこか有名な漁港からわざわざ取り寄せたわけじゃないわよね?」
「はい、普通にスーパーで購入したものです」
「一体どうしたらこんなに美味しくなるのかしら……家庭のとは大違いだわ」
「ちょっとひと手間加えれば美味しくなるんですよ」
「それで、そのひと手間っていうのはずばり!?」
興味津々といった様子で一葉は前のめりに芳樹を見つめてくる。
「一葉さんに教えても、実践で使うことないですよね?」
「一つの教養として知識を蓄えておくのよ! 覚えておいて損はないでしょ?」
まあ確かに、家事が出来なくとも覚えていて損はない。
芳樹はキッチンに置いてあった秘密道具をババーンと掲げた。
「これです」
「なにそれ?」
芳樹が見せたのは、霧吹きに入った黄色い液体。
「調理用のお酒です。これを焼く前と途中に吹きかけると、脂の乗った美味しい鮭が出来るんですよ」
「へぇーそうなんだ」
まあ、これもすべて母から教えてもらった豆知識。
実践したのは初めてだったけれど、上手くいって良かった。
「こんなに美味しい朝食をこれから毎日食べられるなら、仕事も捗りそうだわ。いっそこのまま、私の専業主夫にでもなる?」
「あははっ、冗談はよしてください」
完全に目を覚ました一葉さんが、芳樹をからかいながら朝食をモリモリ食べる。
すると、目の前の霜乃さんがにっこりと微笑みながら、一葉さんをじとっとした目で見つめていた。
「あら、それは今まで用意していた私の腕前が悪かったって解釈でいいかしら?」
笑顔だけど、目が全く笑っていない。
芳樹が咎められているわけではないのに、こっちまで寒気が襲ってきた。
霜乃さんの氷のように冷たい視線に、一葉さんが慌てて言及する。
「ち、違うってば! もちろん霜乃の朝食も家庭的で美味しいわよ! ただ、芳樹君のは家庭的という域を超えているじゃない!?」
「確かにそうね。実家が定食屋さんだから、腕前が違うのよね」
「そんな……オーバーですって。確かに料理は母から教わりましたけど、お客さんに提供したことないですし、こうして家族以外の人に食べて貰ったのだって初めてなんですから」
「あらそうなの? なら、お母様の腕前が本当に凄いのね。私、自信無くしちゃったわ」
そう言って、今度はしょぼーんとしょぼくれてしまう霜乃さん。
なんだか、申し訳ない気分になってくる。
「なんか、ごめんなさい」
「ごめんなさい、芳樹さんが謝ることじゃないわ。元はと言えば私の家事のスキルが足りないだけだから。それに私だって、毎日こんなに美味しい料理が食べれるのだから文句はないわ。これからも美味しい料理をよろしくね、芳樹さん!」
霜乃さんは落ち込むどころか、芳樹を管理人としてたててくれた。
なんて心優しい人なのだろう。
霜乃さんを慈しみつつ、密かに実家で特訓した成果が見事大成功を収めたので、心の中でガッツポーズをする芳樹なのであった。
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