第17話 重苦しい雰囲気と新たな仕事
リビングに戻り、一葉さんがスマートフォンで調べてくれた情報を見せてもらった。
『
ブラック企業で働き詰めだった芳樹も、広告や何かで見たことがあるのかもしれない。
瑞穂ちゃんを玄関で見た時、心の奥に引っ掛かりを覚えたのはそのせいだと納得する。
「……まさか、若者の間で一番人気の現役女優さんがこの女子寮に住んでいるなんて思ってもいませんでした。これは完全に俺の情報収集不足です。申し訳ありません」
「仕方ないわよ。芳樹君は今までずっと働き詰めで、エンターテインメントとは無縁の存在だったのだから。でも、謝るなら相手を間違えているんじゃないかしら?」
「そうですね。瑞穂さんに謝罪してきます」
若者から最も知名度の高い女優であるというプライドを、芳樹は傷つけてしまったのだ。
早急に瑞穂さんに謝る必要がある。
すると、部屋着に着替え終えた瑞穂さんがリビングへ姿を現した。
怒らせてしまったので、もしかしたら部屋から出てきてくれないのではないかと心配していたが、顔を出してくれただけでも一安心だ。
芳樹は急いで瑞穂さんの前へと向かい、深々と頭を下げる。
「瑞穂さん、先程は大変失礼な発言をしてしまいごめんなさい。俺ずっと会社に缶詰め状態で働いていたせいで、エンタメ業界の情報を会得していなかったんだ。許してもらおうなんて思ってないから、せめて機嫌だけでも直してもらえると嬉しいな」
芳樹は、今言える出来る限りの誠心誠意を込めて心から謝った。
すると、瑞穂さんは芳樹を鋭い目つきで睨み付け、はぁっと大仰にため息を吐く。
「あっそ。別に気にしてないし、そもそもそういうことじゃないから。あと、さん付けやめて」
瑞穂は芳樹を軽くあしらうと、スタスタと芳樹の前を通り過ぎ、そそくさと席に着くと、テーブルに載っている夕食に手を付け始めてしまう。
なんとも言えぬ、重苦しい空気が部屋の中に張りつめる。
瑞穂以外の住居人は全員、芳樹に同情の苦笑いを浮かべることしかできない。
祝福モードだった歓迎会が、瞬く間にお通夜のような重苦しい雰囲気へと一変してしまった。
結局それ以降、瑞穂ちゃんは一言も芳樹と口を利くことなく、霜乃さんの作った料理を食べ終えると、そそくさと自室へと戻って行ってしまった。
瑞穂がリビングから去ると、重苦しい空気から解放された住居人たちが一同にため息を吐く。
「重かった。みとっちの無言の圧がぱなかった」
特に加志子は、ようやくピリピリとした空気感から解放され、ほっと胸を撫で下ろすと同時に、疲弊した表情を浮かべていた。
ちなみに『みとっち』とは、どうやら瑞穂ちゃんのあだ名らしい。
「ごめんなさい皆さん、せっかくの歓迎会を俺のせいで重苦しい雰囲気にさせてしまって……」
「仕方ないわよ。芳樹君も悪気があったわけじゃないんだから」
そう言って、一葉さんは宥めてくれたけれど、瑞穂ちゃんの人気女優としてのプライドを相当傷つけてしまった事実に変わりはない。
どうにかして瑞穂ちゃんに機嫌を直してもらわないと!
これから管理人として同じ寮で暮らしていく仲間として、ストレスなく暮らして欲しいから。
なんとかして、瑞穂ちゃんとの仲直りをはかろうと意気込む芳樹。
しかし、この時の芳樹はなぜ瑞穂が機嫌を損ねているのか、本当の理由を理解していなかった。
こうして始まった管理人生活。
女子寮の住居人達との初対面は、衝撃的な出来事に多く見舞われた。
そして、これからの生活に多くの困難が待ち受けていることを予兆させるものとなったのである。
芳樹は霜乃さんと一緒に歓迎会の後片付けをしながらキッチン周りの食器の場所などを教えてもらい、明日に向けての準備を進めていた。
一通りの洗い物を終えて、ふっと霜乃さんが柔和な笑みを浮かべる。
「片付け手伝ってくれてありがとう、今日はお疲れ様」
「いえいえお構いなく、俺の仕事ですから。まだ霜乃さんには色々と教えて頂くことになると思いますが、どうかこれからもよろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそよろしくね芳樹さん。管理人さんのお仕事は多忙だろうけど頑張って頂戴」
「ありがとうございます。それじゃあ、後片付けも終わったことですし、霜乃さんはゆっくりしていてください」
「そう? なら、お言葉に甘えてゆっくりさせてもらうことにするわ。私はお風呂にでも入ってこようかしら」
「分かりました。いってらっしゃい」
エプロンを外した霜乃さんがリビングを後にするのと入れ替わるように、今度は一葉さんがリビングへ現れた。
一葉さんはお風呂上がりのようで、首にバスタオルを巻き、肩ひもで横縞のノースリーブシャツにピンクの短パンという、冬とは思えぬ薄着でラフな格好をしている。
パンツの付け根からは、白くて長い脚が伸び、開放的なノースリーブシャツからは胸の谷間がくっきりと見える。芳樹の視線も自然とその柔らかそうな胸元へと向かってしまう。
一葉さんは、芳樹の視線に気にした素振りも見せず、そのまま冷蔵庫へと一直線。
冷蔵庫の中からパックの牛乳、食器棚からコップを取り出すと、牛乳をコップに注ぎ、グビグビと一気に飲み干していく。
「ぷはぁーっ!」
ビールを飲んだ後のような嘆息を吐き、グラスを当たり前のように芳樹に差し出してくる。
「はいこれ、洗っておいて」
「はい、わかりました……」
一葉さんから飲み干したコップのグラスを受け取り、芳樹はすぐさまシンクでコップを洗う。
彼女は、寮の中ではずっとこんな感じに自由奔放で、何事も人任せのスタンスらしい。
ビジネスで付き合っていた頃に、果たしてこんな姿を想像できただろうか。
冷蔵庫に牛乳を仕舞い終えた一葉さんは、そのままリビングのソファへと腰を下ろして尋ねてくる。
「どうかしら、管理人初日の感想は?」
「そうですね。皆さん思ったよりも快く俺を迎え入れてくれたので、正直驚きました。これも、一葉さんの説得あってのおかげですね」
「そんなことないわよ。ただ私は、この寮を守るために必死になってただけだから」
「だとしてもお礼させてください。こんなに素敵な寮の管理人に誘っていただいたこと」
「まだお礼を言われるのは早いわよ。これからが大変なんだから」
「それはわかってます」
「まあ特に瑞穂は、芳樹君に心許してくれるまで時間がかかると思うけれど、めげずにかまってあげて。ああ見えてあの子、結構寂しがり屋だから」
そう言って、優しい微笑みを向けてくる一葉さん。
瑞穂ちゃんが悪い子ではないと分かっているからそこ言える言葉である。
「寮の中だと、結構能天気なのかと思ってましたけど、他の人たちのこともちゃんと考えているんですね」
「失礼ね、当たり前でしょ。こう見えてもここのオーナーよ私は!」
一葉さんは拗ねた様子でぷっくりと頬を膨らませる。
そんなひとつひとつの仕草も、今までビジネスとして付き合ってきた一葉さんからは見ることない表情で、ちょっと新鮮だ。
「な、何よ」
思っていたことが顔に出ていたらしく、眉をひそめて不満そうな顔を向けてくる一葉さん。
「いやっ、一葉さんの拗ねた顔とか見たことが無かったので、新鮮だなと思いまして」
正直に伝えると、一葉さんはぽっと顔を赤らめた。
「なっ、馬鹿言ってるんじゃないわよ。これが普段の私なの! 芳樹君が慣れてもらわないと困るわ!」
一葉さんは恥ずかしかったのか、ぷいっと視線を逸らしてしまう。
「分かりました。善処します」
芳樹がそう言うと、突然一葉さんは、ズビシっと芳樹を指差してきた。
「それから、今日から一緒に暮らすんだから、もっとフランクに私を呼びなさい」
「えぇ……それはちょっと……」
「さっきの歓迎会で、加志子ちゃんのことは『かっしー』とか気安く呼んでたじゃない」
「そりゃまあ、そう呼んで欲しいと言われたので」
「なら私も、一葉って呼び捨てにしなさい」
「そ、そんなの出来ませんよ。一葉さんは俺の恩人です。そんな人に対して呼び捨てなんて出来ません」
「いい? これは業務命令よ!」
「横暴な!?」
オーナーであることをいいことに、職権乱用して来たよこの人!?
「まあ、それは半分冗談の余談として」
「半分は本気だったんですね……」
「何、文句あるかしら?」
「いえっ、何も……」
一葉さんは芳樹をからかい終えて満足したのか、グッと両腕を上に上げてソファから立ち上がり、リビングのドアへと向かって行く。
「あっ、そうだ」
すると、一葉さんは何やら思い出したかのように足を止め、踵を返して芳樹を見つめた。
「管理人なりたて早々で申し訳ないのだけれど、明日の午後、新しい入居者希望の子が面談に来る予定なの、ちょっとだけ時間空けておいて」
「えっ、新しい入居者ですか?」
「えぇ、本人の希望あってのことらしいわ。わざわざ
「そうですね」
「ってことで、明日の午後よろしく。私も面談には参加するから、安心していいわ」
「承知いたしました」
「はいそこ、敬語禁止! 返事は『分かった』でいいわよ!」
「すみません、分かりました」
「ふふっ……ったくもう」
敬語が抜けない芳樹を可笑しそうに笑いながら、今度こそ満足したのか、一葉さんはリビングを後にして、自室へと戻っていく。
ようやく住居人と初顔合わせしたばかりなのに、いきなり新規入居希望者との面談とか、色々慌ただしいな。
そんなことを思いながら、一葉さんが使ったコップを洗い終え、タオルで拭きながら初日の仕事を終えるのであった。
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