第15話 一葉さんの素の姿

「よしっ、今日はこんなものかな」


 日が西の空に沈んだ頃、芳樹はやり切った表情で額に掻いた汗を拭う。

 管理人室を占拠していた段ボールの山は、ほとんど片付けられていた。

 芳樹の片付け術にかかれば、一部屋の荷物整理など、半日もあればへっちゃらである。


 ベッドの設置も無事完了。

 今日からここが芳樹のプライベートスペースにもなる。

 角の方に少しまだ段ボール箱が残っているけど、後は細かい荷物ばかりなので、隙間時間にやれば、問題なく引っ越しは完了するだろう。


 腰に手を当て、新しく暮らす管理人室のレイアウトに満足していると、玄関の扉ががちゃりと開く音が聞こえくる。

 芳樹が玄関へ向かうと、そこにはまるで、戦場の戦いから戻ってきた兵士の如くやつれた表情で今にも倒れてしまいそうなほどによろよろの一葉さんが立っていた。


「ただいま……」

「おかえりなさい一葉さん。お仕事お疲れ様です」

「お出迎えありがとう芳樹君。あ“―疲れた……」


 一葉さんは、力尽きたように上がりかまちへ倒れ込むように寝そべってしまう。


「ちょ、一葉さん!? 大丈夫ですか!?」


 芳樹が慌てて一葉さんの元へ駆け寄る。と同時に、霜乃さんがリビングから現れた。


「おかえり一葉、今日は随分と早かったのね」


 霜乃さんは、倒れ込む一葉さんに驚くことなく、おっとりとした口調で語り掛ける。


「まあね、芳樹君が初日だから、様子見も兼ねて早く仕事を切り上げてきたのよ」


 一葉さんは相当無理をして仕事を終わらせてきたらしい。

 声色にも覇気がなく、疲弊しきっている様子。

 寝転がりながら、なんとか片方の足で器用にヒールを脱ぎ捨てる一葉さん。

 玄関の土間に脱ぎ捨てられたヒールを、霜乃さんは当たり前のように拾い上げた。


「それで、初日はどうだったかしら?」


 一葉さんは、芳樹を見上げながら尋ねてくる。


「そうですね。まだ霜乃さんから仕事の説明を受けただけなので、実際にやってみないと分かりません。でも、出来る範囲のことは頑張ります」

「いい心がけだわ。さてと……」


 いつの間にか両脚のヒールを脱ぎ捨てた一葉さんはゆらりと立ち上がると、そのまま匂いに誘われるようにしてリビングに入っていく。

 戦いを終えた戦士を見送りつつ、芳樹は一葉さんが脱ぎ捨てたヒールを靴箱へ仕舞っている霜乃さんの元へと近づき、耳元で礼を言う。


「ありがとうございます霜乃さん。靴を片してもらって」

「平気よ。いつものことだから」


 そう言いながら、当たり前のようにヒールを元あった場所へと戻す霜乃さん。

 芳樹は、おそるおそる霜乃さんへ質問する。


「あの霜乃さん。もしかしなくても一葉さんって、家だと結構自由人だったりします?」

「そうね、自由人というよりは、だらしない我がままっ子と言った方が正しいかしらね。部屋も自分で掃除しないし、服も脱ぎっぱなしでしょっちゅう散らかしているわよ」

「……なんか今、俺の中での一葉さんのイメージがどんどん崩れていってます」

「まあ一葉の場合、ビジネスで常に気を張って出来る女を見せているから、その反動でプライベートはけっこうだらしなかったりするのよ。誰だって、息抜きの一つや二つくらい必要でしょ?」

「確かに、それもそうですね……」


 なんか、働く女性事情を垣間見たような気がして、現実を突き付けられたような気分だ。

 外だと気配りもできてしっかり者に見える女の子が、実は家では家事もせず寝転がってグータラしているただの干物女だったような衝撃と似たようなものだろう。

 すると、リビングの方から「わぁ! おいしそう!」っという一葉さんの歓声が聞こえてくる。


「夕食の準備が整ったから、そろそろ食べましょうか。一葉も待ちきれないようだし」

「そうですね」


 霜乃さんに促されるようにして、芳樹はリビングへと入る。

 リビングのテーブルには、手の込んだ豪勢な食事が並べられており、食欲をそそられる匂いが充満していた。

 その中央に置かれたメインディッシュ、切り分けられたステーキ肉の一切れを、行儀悪く手で掴み、つまみ食いしようとしている一葉さんと目が合う。


「ちょっと一葉! 今日のメインは芳樹さんなんだから、先につまみ食いしないの!」

「ごめんなさーい……」


 霜乃さんに叱られてあからさまにしゅんと肩を落とす一葉さん。

 まるで、いたずらが親に見つかって怒られた子どものようだ。

 手で持っていたステーキ肉を、一葉さんは名残惜しそうに元の皿へ戻そうとする。


「手で掴んじゃってますし、食べちゃっていいですよ。一葉さんも俺のために、死ぬ気で仕事を終わらせてきてくれたみたいなので」

「ホント!? やったぁ! 愛してるわ芳樹君!」


 本日の主役である芳樹から許可を貰った一葉さんは、目を輝かせてそのステーキ肉を一瞬にして頬張る。


「んんっ~!! 口の中でとろけるー! 美味しい!」


 頬を緩ませ、幸せそうな表情を浮かべる一葉さん。

 そんな顔を見ていると、こっちまでほっこりしてしまう。

 けれど、霜乃さんだけは呆れ顔で芳樹を見据えていた。


「あんまり一葉を甘やかしすぎると、あとで痛い目を見るわよ?」

「まあ、今日くらいいいんじゃないですか? 俺を管理人としてスカウトしてきた手前もありますし」


 そう言って芳樹は霜乃さんを宥め、一葉さんを擁護しておく。

 霜乃さんの口ぶりから察するに、一葉さんは家の中で相当だらしないようだ。

 一葉さんの新たな一面を垣間見た芳樹。

 もしかしたら芳樹に管理人をスカウトしたのも、素の自分を見せられる相手だったからなのかもしれない。

 一葉さんから信頼されていることを感じ、芳樹はちょっと嬉しい気持ちになった反面、これから色々と我がままな要求をされそうだなと思うのであった。

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