第14話 事実と終わったこと

 しばらくして、着替えを終えた加志子が管理人室へとやってくる。

 先ほどまでとは違い、オレンジのセーターにデニムのショートパンツというラフな格好。

 ショートパンツの丈から、綺麗でしなやかに伸びる脚を惜しげもなく晒していて、今どきの若い大学生から、ファッションモデルの雑誌に載っているような雰囲気へと様変わりしていた。


「手伝いに来たよー! って、すごい片付いてる!?」

「そうかな? これくらい普通だと思うけど」


 謙遜する芳樹だが、昨日まで部屋の中に山のように積み上げられていた段ボールが半分以上も片づいているのだ。加志子が驚くのも無理はない。

 芳樹は、掃除や片付けを大得意としているのである。


「片付け早すぎっすよ! 今度、是非うちの部屋も片づけ手伝って欲しいっす!」

「あははっ、それじゃあ今度、手が空いた時に手伝ってあげるね」

「やったー!」


 よほど嬉しかったのか、加志子はガッツポーズをして喜んでいる。

 それもそのはず、加志子は片付けを大の苦手としているのだから。

 そんなことも知らず、片づけを手伝うと簡単に言ってしまった芳樹は、あとで後悔することになるのはまた別の話。


「まあでも、寮の掃除とか洗濯を事前に霜乃さんがやっておいてくれてたから、管理人室の片付けに専念出来てるってこともあるけど」

「あーっ、霜乃さん元主婦っすからね。やりたい精神が出ちゃったんすよ」

「やっぱり霜乃さんって、既婚者だったんだ……」


 あっさりと告げられる事実に、思わず独り言が漏れてしまう。

 やはり霜乃さんは、何か訳あって小美玉ここで暮らしているらしい。

 加志子が知っているということは、他の人に別段隠しているわけでもないのだろう。

 すると、加志子はちょいちょいと芳樹を手招きして、小声で話しかけてくる。


「これはあくまで噂なんすけど、霜乃さんって地元では有名な良家のご令嬢だったらしいんですよ。そしたらある日、合コンで出会った旦那さんと駆け落ちしたらしいんですけど、ふたを開けてみたら、その旦那がDV男だったらしく、耐えられなくなって夜逃げしてきたって、風の噂で聞きました」


 壮絶すぎて、いかにも信じがたい話である。

 しかし、あのおっとりとした落ち着き具合や、元主婦という訳アリからしても、あり得ない話でもなさそうに思えてしまう。


「ただの噂話でしょ? 鵜呑みにしちゃダメだよ」


 それでも芳樹は、平静を装って大人の対応をする。


「うちだって信じてるわけじゃないっすよ。ただ、この寮にある日突然一葉さんが連れてきたんで、信憑性は高いんじゃないっすかね」

「だからって、霜乃さんがいない所でとやかく言うのはやめなさい」

「私がどうかしたかしら?」


 加志子と霜乃さんの噂話をしていると、不意に管理人室の後ろから声をかけられた。

 芳樹と加志子はびくっと身体を跳ねさせ振り返る。

 管理人室の入り口には、にっこりと微笑む霜乃さんの姿があった。


 いつからそこに立っていたのかは分からない。

 けれど、その笑顔が偽物であることを、二人は本能的に察した。


 地雷を踏んでしまったかのように、加志子は恐怖から冷や汗をかいている。

 加志子を庇うわけではないが、芳樹は顔色一つ変えず霜乃さんへ柔和な笑みをたたえた。


「霜乃さんは、家庭的で素晴らしい女性ですねって話をしていただけですよ。そうだよね、かっしー?」

「へっ!? そ、そうなんっすよ!」


 芳樹に同調して、加志子もぶんぶんと首を縦に振る。

 すると、霜乃さんは褒められたのが嬉しかったらしく、頬に手を当てて顔を緩ませた。


「まあ、そんなにおだてても何も出ませんわよ?」

「いえいえ、それくらい魅力的な女性だってことですよ」

「もうっ……! 芳樹さんったら!」


 頬が紅潮して、明らかに恥ずかしがっている霜乃さん。


「死ぬかと思った……」


 芳樹にだけ聞こえる声で呟き、ほっと胸を撫で下ろしている加志子。

 命拾いをしたと言わんばかりに怯えた表情をしていた。


「それで、何か御用ですか?」

「あっ、そうなのよ。加志子ちゃん」

「は、はいっ!?」

「今日の夕飯なのだけれど、言っていた通り芳樹さんのお祝いをするから、食材の買い出しに行ってきてもらってもいいかしら?」

「わ、分かりました!」

「これ、よろしくね」


 霜乃さんから買い物リストのメモを受け取ると、加志子はくるりと首だけを芳樹に向けてくる。


「ごめんなさい芳樹さん! ってことで、うち買い出しに行ってくるっす!」

「うん、行ってらっしゃい」


 加志子は逃げるようにして、買い物へと出かけていった。

 管理人室には、芳樹と霜乃さんだけが取り残される。


「お祝いなんて、申し訳ないです」

「いいのよ。これからたくさんお世話になるのだから、その迷惑料だと思って、今日は私たちにもてなさせて頂戴。一葉を始め、みんなで決めたことだから」

「……わかりました。そういうことでしたら、今日は歓迎を受けることにします」

「理解してくれて嬉しいわ」


 にこりと微笑んだかと思えば、霜乃さんは芳樹の元へと近寄ってきて、ちょこんと隣に座り込んだ。


「加志子ちゃんから何か聞いた?」


 ポソリと呟くように尋ねてくる霜乃さん。

 顔色を窺うことはできないけれど、ひしひしと感じる無言の圧力。

 ここで嘘は言ってはならないという寒気を感じる。


「はい、聞きました」


 だから芳樹は、何とは言わず、正直に答えた。


「そう……幻滅しちゃったかしら?」


 加志子から芳樹が何を聞いたのか、霜乃さんも分かっているのだろう。

 主語が無いまま尋ねてくる。

 それは暗に、噂が本当であることを肯定していた。


「とんでもない。そんなこと絶対にしませんよ」

「本当に?」

「はい、俺はここの管理人です。住居人を幻滅するなんてことは絶対にしません」


 芳樹の心から思っている本音を聞いて、霜乃さんは呆れ半分の表情を浮かべる。


「ホント、芳樹さんは人が良過ぎだわ」

「そんなことないですよ。ただ、俺が関わっている以上、ここに住んでいる人達には幸せになって欲しいだけです」


 それは、芳樹が小美玉ここの管理人を引き受ける上で掲げたモットーでもある。

 だからそこ、霜乃さんにどんな過去があろうとも、今を幸せに生きて欲しいと願っているのだ。


「ありがとう。でも心配しないで、私は今の暮らしに満足してるわ。それに、これはもう終わったことだから」


 そう言って、霜乃さんはじっと右手の薬指に嵌められた指輪を遠い目で見つめる。


「だから芳樹さんも、私のことを同情する必要はないわ。住居人として、一人の女性として扱ってくれると嬉しいわ。私もそのつもりで芳樹さんと接していくから」

「……わかりました」


 霜乃さんがそう望むのであれば、芳樹は霜乃さんを一人の住人として、特別扱いすることなく接しようを心に誓う。

 もちろん霜乃としては、一人の女として意識して見て欲しいという意思が暗に込められているのだが、芳樹は全く気付いていない。

 それどころか芳樹は、指輪を見つめて微笑む霜乃さんへ、どこか愁いを帯びているようにすら感じているのであった。

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