第9話 優しい管理人さん
芳樹は、手に持っていた皿を厨房まで律儀に持っていき、厨房の店員に渡した後、目的のトイレも無事に済ませて席へと戻った。
「悪い、遅くなった」
「うん」
開口一番梢恵に謝るものの、当の本人はまったく気にした様子もなくメニュー表に目を通していた。
「随分長いトイレだったね。お腹でも下してた?」
「いや、いたって健康的な形だったよ」
「なら、良かった」
そんな下品な会話をしていると、梢恵はふとメニュー表から顔を上げて辺りを見渡す。
「すいませーん」
「はーい」
梢恵が手を上げて大きな声で店員を呼び出すと、やってきたのは加志子だった。
芳樹の姿を見ると、加志子はあっ、と気がついた様子でぺこりとお辞儀をする。
それに答えるようにして、芳樹もにっこりと頭を軽く下げた。
「これと、これお願いします!」
梢恵は二人のコンタクトに気づいた様子もなく、メニューを指差しながら注文を頼む。
「かしこまりました。ご注文は以上でよろしいでしょうか?」
「はい」
ハンディーでメニューを打ち終えた加志子は、芳樹の方へ身体を向けて、姿勢を正した。
「先ほどは、助けて頂き本当にありがとうございます」
「いえいえ、お気になさらず」
「へっ、何々、どういうこと?」
状況を知らない梢恵が、芳樹と加志子のやりとりを見て首を傾げる。
「あっ、そうそう」
梢恵の疑問に答えぬまま、芳樹はバッグの中から財布と取り出す。
「もしかしたら、まだお店の外で待ち伏せしてるかもしれないから、今日はタクシーで帰りな。これで足りるか分からないけど」
財布の中から折りたたまれた一万円札を取り出して、芳樹は加志子の手の中に収めようとする。
「い、いやいや! そこまでしてもらわなくても平気っすから!」
「でも夜遅いし、今日はあんな事があった後で怖いだろうし」
「だとしても、お金まで受け取るわけにはいかないっす! 自分のお金で帰りますから!」
「気にする必要はないよ。元はと言えば俺が巻きこんじゃったようなものだし」
「いやっ、本当に平気っすから!」
そんなやり取りをしていると、梢恵が鋭い声を上げた。
「芳樹、あんた……」
「ん、どうした?」
見れば、梢恵は冷酷な眼差しを芳樹に向けている。
幻滅するような冷たい瞳だった。
「あんた……随分長いと思ったらそういうことだったのね」
「何が?」
すると、梢恵はすっと椅子から立ち上がり、加志子の方へ身体を向けて大きく頭を下げた。
「うちの馬鹿芳樹が、ご迷惑をおかけして本当にごめんなさい!」
「えっ?」
突然梢恵から受けた謝罪に、加志子はキョトンとした顔を浮かべている。
「だって、この泥酔馬鹿にトイレに連れ込まれてセクハラされたんですよね!? それで、お金で口封じをされて……」
「んなわけがあるか!!」
盛大な勘違いをしている幼馴染に、思わず盛大なツッコミを入れる芳樹。
「この子が男の人に絡まれてたから、俺が助けてあげたってだけだよ。お金を渡したのは、その男がまだ外で待ち伏せしてる可能性があるから、保険で渡してるだけだ!」
「……へっ? 何、芳樹に襲われたわけじゃないの!?」
「ちげぇよ……」
「はい、芳樹さんが私のことを助けてくれたんすよ」
「本当に!? コイツが!?」
信じられないといった様子で芳樹を見つめる幼馴染。
梢恵の中で、芳樹はそんなに信用がないのだろうか。
軽く心の中でショックを受けた。
とにもかくにも、幼馴染との飲み会はドタバタしながらも過ぎていくのであった。
◇
「ただいまー」
アルバイトを終えた加志子は、考え事をしながら【
居間の方から、寝間着にパーカーを羽織った霜乃さんが出迎えてくれる。
「おかえりなさい加志子ちゃん。アルバイトお疲れ様」
「霜乃さん。お疲れ様です……」
霜乃は、すぐに加志子の様子がおかしいことに気がついた。
「加志子ちゃん、何かあった?」
「へっ!? あぁ、何でもないっすよ!」
加志子は取り繕うように手を横に振る。
「そう? ならいいけど、悩み事があるならちゃんと相談するのよ」
「うぃっす!」
いつもの調子で元気よく返事を返す加志子を見て、霜乃は安心したらしく、優しい笑みを加志子に向けた。
「私はもう寝るから、電気と戸締り任せるわね」
「りょうかいっす!」
連絡事項を言い終え、霜乃さんは玄関横の階段を登り、自室へと戻っていった。
「にしても、今日は色々あったなぁ……」
加志子はお風呂に浸かりながら、ぼそっとそんな言葉を漏らした。
もちろん、今日のハイライトは、新しく管理人になる芳樹との出会いである。
最初はどういう人なのか、仕事がてらにちらちらと観察していたけれど、まさかあんな形で助けてもらうことになるなんて夢にも思っていなかった。
普段の加志子なら、合コンで会った男性など、いとも簡単に躱すことができる。
けれど今日に限っては、新しい管理人さんに気を取られていたばかりに、自分が相手にぶつかってしまった事もあり強く出れなかった。
加志子が困っているところに芳樹さんは店員に成りすまして現れ、助け舟を出してくれたのだ。しかも、出来るだけ穏便に済むよう、私にわざわざ仕事まで振ってくれた……。
咄嗟の判断にしては出来過ぎている。
おそらく、最初から会話を盗み聞きしていたのかもしれない。
その後、結局一緒にいた女性にも促されて帰りのタクシー代まで受け取り、店長に状況説明もしてくれた。
何から何までお世話になりっぱなしだ。
芳樹さんに頂いたお金は、管理人としてきた時にちゃんとお返ししよう。
それにしても……
「芳樹さん、優しかったなぁ……」
思わずそんな言葉がこぼれ出た。
そんな加志子の頬は、湯船に浸かっているせいなのか分からないけど、赤く染まっている。
この時点で、加志子の芳樹に対する好感度は爆上がりしていた。
そこで、芳樹に対して既に心を開いていることに気づいた加志子。
ばっと湯船に顔まで浸かり、火照った顔を隠す。
「ぷはぁっ……」
けれど加志子は、一旦頭を冷静にする。
だって芳樹さんには、彼女がいるのだから。
今日居酒屋に一緒に来ていた女性は、芳樹の彼女であろう。
芳樹さんのような頼りがいがあって、優しく守ってくれる彼氏がいる梢恵が羨ましいと思う反面。一つ疑問が浮かぶ。
芳樹さんは、女子寮の管理人になるという話を彼女には話したのだろうか?
切り出した際、彼女さんが難色を示さないはずがない。
普通、彼氏が女子寮の管理人として住み込みで働くなんて言い出したら、彼女としては気が気じゃないだろう。
一葉さんから聞いた話によれば、なんとか説得したと言っていた。
もしかしたら、管理人さんは彼女持ちだったから、女子寮の管理人を請け負うことに対して難色を示していたのではないだろうか?
もしこれが原因で、あの彼女さんと別れるなんてことになってしまえば、申し訳が立たない。
一葉さんは、この事実を知っているのか?
おそらく知らないのだろう。
管理人さんが彼女持ちだと知ってしまった以上、私が出来ることは、どうか管理人さんが悪い運命にならなければいいと願うだけだった。
芳樹さんにこれから守られるという安心感と覚えつつも、彼女さんに対する罪悪感が加志子の頭の中で渦巻いていた。
しかし、そんな心配は杞憂であることを加志子が知るのは、もう少し先の話である。
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