第10話 帰省
「いらっしゃいませー!」
芳樹は厨房内から、店内へ入ってくるお客さんに向けて元気よく挨拶する。
「おっ、芳樹君じゃないか! 帰ってきたのかい?」
入ってきたのは、昔から毎日のように来てくれる常連さん。
「
「いい心がけじゃないか! なあ、
常連の高萩さんは、厨房の奥で黙々と夜の仕込みを進めている母に向かって声をかける。
「そんなことないわよ。ただ住む家がない間だけ、ここに居座ってるだけさ」
母の清美は、芳樹を歓迎するようなそぶりも見せず、黙々と厨房でフライパンを振るっている。
ここは、都内から少し離れた、とある下町にある簡素な定食屋『
芳樹の慣れ親しんだ実家であり、生まれてから高校の青春時代までを過ごした思い出の地でもある。
女子寮の管理人になるまでの一週間、都内での住処を無くした芳樹は、親に顔を見せるいい機会だと思い、実家へと戻ってきていた。
今はこうして、店の手伝いを自ら買って出ている。
昨日、アルバイト店員の『かっしー』こと加志子が、金髪の男性に迫られ困っていた時、冷静な判断ができたのも、実家で培ってきた接客スキルがあってそこ出来たことだった。
「高萩さん、いらっしゃいませー!」
「おお、つくしちゃん。今日も精が出るね!」
「とんでもないですよ! さぁさぁ、こちらへどうぞ」
てきぱきと高萩さんを案内してくれたのは、アルバイトの
地元の高校生で一年生の頃からずっと、この定食屋『霞』のアルバイトとして働いてくれていた。
高萩さんの注文を承ったつくしちゃんは、ぴょこぴょこと軽い足取りで厨房の方へ戻ってくる。
「オーダー、中華そば一丁」
「了解。オーダー中華そば一丁」
「はいよ!」
威勢のいい声を出して、母は調理へ取り掛かる。
手持ち無沙汰になったつくしちゃんは、カールした前髪をくしくし弄りながら、誰もいないカウンター越しで、芳樹と向かい合う。
「芳樹さんは、常連さんから随分と可愛がられていたんですね」
「まあ、俺がガキの頃からよく面倒見てもらってたから」
小さい頃から母が店で働いている間、芳樹は常連さん達に遊んでもらったり勉強を教えてもらったりと、まるで自分の息子のように面倒を見てもらった。
だから、こうして大人になった芳樹が、厨房の中で仕事をしている姿を見ると、逞しくなったものだと高萩さんたち常連客は、感慨深く感じているのだろう。
「やっぱり、そういうエピソードを聞くと、地元の方の温かみを感じますね」
「そうか?」
「はい! 少なくとも私が子どもの頃は、そんな経験をしたことはありません。芳樹さんは幸せ者です。こんなに素敵な人たちに囲まれて過ごしてきたんですから!」
両親の転勤で、中学の頃からこの土地へ引っ越してきたつくしちゃん。
都内から引っ越してきた者には、こうした田舎独特の地域の密着具合や、町の人たちの温かさに魅力を感じるらしい。
「でもつくしちゃんは、都内の大学に進学するんだよね?」
「はい……本当はこっちの大学に進学したかったんですけど、両親から『将来のためにも、東京の大学へ進学しなさい』と言われて反対されまして……」
「なるほどね。まあ確かに、つくしちゃんのご両親の気持ちも分かるよ。将来働くってなった時に、こっちじゃ働く場所も少ないし、都内での生活に慣れておくことは必要だからね」
「別に、私は都内で働く気はさらさらないんですけどね」
カウンターに肘を置き、両頬に手をつきながら、むすっとした顔を浮かべるつくしちゃん。
既につくしちゃんは、指定校推薦で都内の私立大学への進学が決まっていた。
なので、必然的に来年の四月からは都内へ引っ越すことになるのだ。
つくしちゃんは、地元に残りたいという気持ちが強いのだろう。
けれどつくしちゃんのご両親は、娘を都会へ行かせたがっている。
おそらく、ここの田舎暮らしに馴染めなかったのではないだろうか。
だからせめて、娘には都内で不便なく輝かしい生活を送って欲しいという願いも込められているように感じる。
けれど当のつくしちゃんは、都会の雑踏の中で自己研鑽するよりも、田舎の人間の温かみや愛情を感じながら、健やかに暮らしたいという願望の方が強いのだ。
「芳樹さん。来週からの転職のお話をお断りして、ここで働いてくれません? そして私を、生涯ここで雇ってください」
捉え方によっては、芳樹への愛の告白とも勘違いされかねないようなことを言ってくるつくしちゃん。
「何馬鹿なこと言ってんだい! 芳樹にこのお店を継がせるつもりは無いよ」
そこで、調理中の母がつくしちゃんに鋭い言葉を突き刺した。
母の昔からの口癖のようなものだ。
芳樹には、好きなように生きて欲しい。だから、店を継ごうとか、馬鹿なことを考える必要はないと。
「えぇー!? だって、こんな素敵なお店を潰してしまうのはもったいないですよ!」
「つくしちゃんがこのお店に愛着を持ってくれてるのは嬉しいけど、古き良き店に待っているのは衰退の道だけだよ」
「なら、私がこのお店の店主になって継ぎます!」
「何言ってるんだい! これから無限大の可能性がある若い女の子がそんなこと軽々しく言わないの。それくらい、歴史を守るのって大変なことなのよ」
若い頃に父を亡くし、女手一つで芳樹を育てながらこうして店を守り抜いてきた母だからこそ、それは重みのある言葉だった。
つくしちゃんは、それ以上何も反論できなくなる。
「中華そば、持って行って頂戴」
「はーい」
渋々と言った感じで、母から受け取った中華そばを、つくしちゃんは高萩さんの元へと提供しに行く。
「あんたも、変なこと考えてないで、自分のやるべきことをやりなさい」
「分かってるよ」
母の意思は岩石よりも硬い。
裏を返せば、店のことを継ぐなど考えず、自分のやりたいことを全うして生きて欲しいという、母から芳樹に対する愛情でもある。
芳樹が自分で決めた都内で働くという決断を、反対一つせずに快く受け入れてくれたのだ。今さら引き返すわけにはいかない。
もしつくしちゃんのご両親のように、都内へ出ろと強制的に言われていたなら、芳樹の価値観や考え方も今頃変わっていたのかもしれない。
芳樹の意思を優先させてくれた母には感謝しかない。
だからそこ、これから芳樹がやるべきことは、次の仕事へ向けて全力で取り組む姿勢を見せることだけだ。
「母さん。次の仕事のために料理のレパートリーを増やしておきたいんだ。俺にも料理を指導してくれる?」
「あんたがその気なら、厳しく行くわよ」
「よろしくお願いします」
女子寮の管理人として、作った料理を幸せそうに食べてくれる住居人たちの姿を想像しながら、芳樹は一週間、母に教わりながら猛特訓の日々を送るのであった。
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