第4話 二年間の闇、そして退職

 カタカタカタカタ……。

 静寂なオフィスに鳴り響くタイプ音。

 ここは、都内にある【けたらはシステム株式会社】のオフィス。

 芳樹は、部長の鉾田のデスク前に立っていた。

 鉾田は芳樹から退職用の書類等を受け取り、つまらなさそうな目で芳樹を見つめる。


「にしても、まだ社会人二年目のぼんくらのお前が、笠間不動産次期社長様からヘッドハンティングとは。世も末だな」


 そんな愚痴めいた事を喚きながら、鉾田は芳樹を鋭い目つきで睨みつけた。


「いいか、大手不動産からのヘッドハンティングだからって図に乗るなよ? 元はと言えば、俺が掛け合ってやったおかげだってことを忘れんな」



 芳樹は今日付けで、【けたらはシステム株式会社】を退職する。

 今日も鉾田は相変わらずの上から口調で、芳樹に対して最後のありがたいお言葉をつらつらと語っていた。


 鉾田は、駒として扱いやすかった芳樹が笠間不動産に引き抜かれてしまうことを快く思っていない様子で、あくまでも芳樹のヘッドハンティングは自分の成果であると主張することで納得しようとしているらしい。

 まさにマウント取りの鉾田と言ったところだろうか。


「肝に銘じておきます」


 これ以上いざこざを起こしたくなかった芳樹も、ムカッとする気持ちを抑え平静を装った口調で答える。

 その謙虚さに満足したのか、鉾田はすっと椅子から立ち上がると、机の横に積んであった書類を芳樹に手渡した。


「これは、俺からお前への最後のプレゼントだ。終わったら適当に上がっていいぞ。今までお疲れさん」

「はい、今までお世話になりました」


 鉾田は芳樹に自分の仕事を押しつけると、鞄を手に持ってオフィスを後にする。

 直後、定時を知らせる鐘が鳴り、鉾田はいつも通り部下たちへ仕事をそれぞれ押しつけて、さっさと夜の街へ消えていった。


「最後くらい、定時で上がらせてくれよな……」


 そんな愚痴をこぼしながら、芳樹は自席へと戻る。

 デスクの上に置いてあったスマートフォンを手に取り、連絡をひとつ入れた。


『ごめん、仕事が残ってて残業になるから、待ち合わせ時間に間に合わない。申し訳ないけど、どこかで時間を潰してくれるとありがたい』


 メッセージを送り、芳樹は鉾田から渡された最後の仕事に取り掛かる。

 しばらく作業を進めていると、スマートフォンの画面がピロンと光った。


 ちらりと見れば、メッセージアプリの通知が来ていて――


『わかった、どこかで時間潰して待ってる! お仕事お疲れ様!』


 と明るいメッセージが届く。


 メッセージを確認し終えた芳樹は、出来るだけ待たせないよう、最後の気力を振り絞り、上司から課せられた雑務を急いで終わらせることに努めた。



「やっと終わった……」


 鉾田から課された雑務を終え、PCのアカウント削除作業などをすべて終えた芳樹は、腕を大きく上に上げて伸びをした。

 PCのデスクトップ画面下に表示されている時刻を見れば、既に夜の20時を過ぎている。

 最終日にもかかわらず2時間の残業だ。

 本当に最後まで、こき使われたなとため息を吐く。


 PCをシャットダウンさせて、椅子から立ち上がって芳樹が向かった先は、一山越えたブロックで事務作業をしている経理部のデスク。


「PCのアカウント削除。無事に終わりました」

「そうか。なら、もう上がっていいぞ」


 芳樹を見ることなく、そっけない返事で答える経理部の社員。

 この会社の事務は、ねぎらいの言葉の一つも言うことが出来ないのか?


「お疲れ様でした」


 苛立ちを抑えつつ、芳樹は軽く会釈をして踵を返す。

 だがこれで、奴隷のような社畜生活ともお別れだ。

 そう思うと、背負っていた重荷のようなものが降りた気分になり、身体が一気に軽くなったような気がした。


 自身のデスクに戻り、周りや引き出しの中に忘れ物がないか最終確認を終え、ビジネスリュックを背負い、まだ残業を行っている仲間たちを一瞥する。


「お先に失礼します。みなさん、本日までお世話になりました。」

「おう、お疲れ様土浦!」

「転職先でも頑張れよ!」

「今度、飯でも行こうぜ」


 今日まで共に働いてきた奴隷仲間たちから、温かいねぎらいの言葉をかけられる。

 この場面だけを切り取れば、アットホームな雰囲気に包まれた会社に見えなくもない。


 しかし、実際はうわべだけの言葉の羅列であり、今後飲みに行ったり会ったりするような奴はいないだろう。

 なぜなら、今いるこの場所が超ブラック企業の中心であり、芳樹の退職を心から祝ってくれている奴なんて、誰もいないのだから。


 仲間たちにしてあげられたことを1つ挙げるならば、残ったタスクを押しつけることなく、迷惑をかけずに退職できることだろうか。


 最後にもう一度忘れ物がないかを確認して、芳樹は振り返ることなくオフィスを後にした。



 エレベータホールで待っている間に、スマートフォンを操作して再びへメッセージを送る。


『今仕事終わったから、待ち合わせ場所に向かう』


 すると、すぐに既読が付き、返事が返ってくる。


『おっけー! 待ってるね!』


 適当にスタンプを送り、トークを終える。

 後は待ち合わせ場所まで急いで向かうだけだ。


 丁度エレベーターが到着して、扉が開く。

 中には芳樹と同じく仕事を終えたサラリーマン達が数名乗っているだけ。

 芳樹がエレベーターに乗り込むと、しばらくしてドアが閉まり、エレベーターが勢いよく降下していく。


 そこでようやく、芳樹は息を大きく吐いた。

 明日からここへ来なくていいのかと思うと、感慨深いものがある。



 振り返れば、本当に苦難の2年間だった。


 将来のことについてあまり深く考ず、就職活動を楽観視していた当時の自分に喝を入れたい。 


 適度に働き、お金が稼げればどこでもいいやという曖昧な考えしかもっていなかった芳樹。参考程度に参加した大学主催の企業説明会会場で、ふらふらしていた芳樹に声をかけてきたのが、【けたらはシステム株式会社】の人事担当者だった。


 その人事担当者の圧と気迫に押し負け、半ば強制的に面接を受けた芳樹。

 結果、とんとん拍子に事は進み、すんなりと内定を獲得。

 内定を貰えたことが嬉しく、慢心して浮かれた芳樹は、即決して入社することを決め、早々に就職活動を終えてしまった。

 これが、ブラック地獄への門を叩いていることなどつゆ知らず……。


 無事に大学を卒業した後、4月から新入社員として働き始めた芳樹。

 始めの研修期間は、快く定時に帰してくれた。

 しかし、入社1カ月を過ぎたゴールデンウィーク明けから状況は一変する。


 配属された部署の部長(鉾田)から、いきなり膨大な量の仕事ノルマを課されたのだ。

 そこからは、毎日残業の嵐。


 ブラック企業に入社してしまったのだと気が付いた頃には、もう時既に遅し。

 物理的に仕事量が終わらず、上司から必要以上の仕事量を課され、物理的に仕事が終わらないという負のスパイラルに陥った。


 そして、次第に芳樹の精神は擦り減っていく。


 後から調べて分かったことだが、【けたらはシステム株式会社】は巷でも有名なブラック企業であった。

 初任給が都内の最低賃金を下回っているのは朝飯前。管理職という謎の扱いにより、残業代が出ることなど夢のまた夢。休日出勤当たり前。有給休暇などもってのほかで、忌引休暇で休んだ暁にはプロジェクトから外され、雑用を無理やり押し付けられる始末。


 会社の企業理念は、『やる気、元気、顧客満足度向上』という、いかにもやばすぎる言葉の羅列。


 唯一救いだったのは、芳樹のような地方出身者のために、社宅が設けられていたことだけ。

 しかし、社宅にいる=暇を持て余しているという謎理論により、強制的に休日出勤させられる口実になっていた。


 説明会で受けた内容と180度内情は異なっており、ブラック企業の典型例。

 芳樹は、ブラック企業にこき使われる駒として上手く丸め込まれたのだ。


 結果として、一葉さんが上層部にかけあってくれたおかげで、芳樹は晴れて迷惑をかけることなく円満退社を迎えることが出来た。

 女子寮の管理人として転職する条件付きではあるが……。

 

 もし一葉さんに助けてもらっていなかったら、今頃どうなっていたのだろうと考えるだけでもぞっとする。

 二年間の記憶を思い出している間に、エレベーターは一階へと到着した。



 オフィスビルの入り口の自動ドアをくぐって外に出ると、空は既に真っ暗で、辺りのビルから漏れ出る蛍光灯の明かりが都会の景色を彩っていた。

 十一月も終わりということもあり、外は少し肌寒く、着々と季節が秋から冬へと移り変わっているのを肌で感じる。


 肌寒い風を出来るだけ避けるように身を縮こませながら、芳樹は待ち合わせの場所へと急いで向かうのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る