第五章 遠い帰宅

(1)


 顔を洗い終わると、タオルで念入りに拭く。今日は、日曜日なので朝の慌ただしい生活音も聞こえない。だが聖霊館が静まり返っている理由はそれだけではない。

「……」

 部屋に戻ると、デスクに目をやる。そこに置かれた一つの鍵が窓からの陽ざしを受けて鈍い光を放った。


 昨日、元柳の自宅を不法に占有していた業者から一方的に送られたものである。無条件で返還するからもうこの件は、手打ちにしてほしいとの手紙も添えられていた。

 目を細めて、鍵をつかむ。これで自宅に張り巡らされたチェーンを開錠できる。

「道さんにお礼言わないとな……」


 この件ではアルクィン財団とともに道が経営する海望商事の尽力があったことを忘れてはならない。自宅を不法に売却した詐欺業者の追跡を独自に行い、摘発に大いに貢献してくれたと警察から知らされている。事態は世間に露見して、買い受けた業者も激しい社会的非難を受けることになり、ここに来て態度を急変させたというわけである。


 家の会社の再開、自宅の奪還、自分を取り巻く環境は去年のテロ事件以前の形に立ち返りつつある。だが、失われた命までは戻せない。元柳の実家で綜士の帰りを待つ人はもう誰もいない。


 俺はこれからそこで……。


 一人で生きていくことになる、のかこれから決めなくてはならない。

 服を着がえると、階段を降りた。ダイニングのドアの向こうは既に全員揃っているはずだが不気味なほど静まり返っている。

 静かにドアを開いた。


「あ……おはよう、綜士」

 芽衣子が普段となんら変わらない笑顔で、朝のおはようをくれた。

「おはよう芽衣子、みんなも……」

「……」

 重い沈黙を抱えて着座している小学生四人。

「みんな、朝の挨拶は?」

 芽衣子がたしなめる。

「おはよう……」

 依織が、力のこもらない声音で答えてくれた。


 今日、一度元柳に行くことは昨日のうちにみんなには伝えてある。

「もう、綜士は今日、いなくなっちゃうわけじゃないんだから、しゃんとしなさい」

「うん……」

 瞬が顔を伏せて相づちを打った。ムードメーカーがこれでは、伸治たちも会話がはずまないだろう。

 チラリと、キッチンに目をやる。リサがサラダを木皿に乗せていた。珍しくエプロンを身に着けている。近づいてみる。


「手伝うよ」

「いい」

 にべもなく拒否された。

「……座ってろ、もうすぐ終わる」

「ああ……」

 席に腰かけると、美奈と視線が交錯した。

「美奈ちゃん、学校はどうかな?」

 九月のあの事件を引きずってはいないのは、毎日見ているのでわかってはいるが、今日は直接訊いておきたい気がした。

「普通……」

「そう……」

 気落ちしているのは別の理由だろう。伸治が意を決したように口を開いた。


「綜士兄さん、今日は何時ごろに家を出るの?」

 家、という表現が重い。

「朝食食べたらすぐにでも行くつもりだけど」

 伸治が瞬たちに目配せすると四人全員がうなずいた。

「あの……! 私たちも行っていい?」

 声を出したのは美奈だった。

「え?」

「どんなところかちょっと見てみたいかなーなんて……」

 目を泳がせる瞬。

「片づけとかあるんでしょ? 僕たちも手伝うから」

「いや、そんなことみんなにやってもらうわけには……」

 芽衣子が綜士の背を軽くたたく。


「いいじゃない? 私も一緒に行くつもりだったし、今日くらい私たちを頼ってよ」

「でもなぁ」

 これは綜士の家の問題であり、聖霊館のみんなに労力を割いてもらうのは心苦しい。

「お兄ちゃん、私、意地でもついていくから!」

 依織がテーブルに手をついて立ち上がった。

「わかったよ」

 これでは家から出させてもらえない気がしたので承諾することした。


「リサはどうする?」

 芽衣子がリサに尋ねる。

「……」

 黙って席に座るリサ。

「リサ……?」

「……本人の口から言ってもらわないと」

 横目で綜士を見る。苦笑して口を開いた。

「リサ、今日、元柳の桜庭の家をかたしちゃうつもりだけど、よかったら来てくれないか?」

「……いいだろう」

 全員で行くことが決定した。


 朝食終えると、エントランスに集合する。

「どうやって行くの?」と依織。

 携帯で聖霊館からのルートを思案する。

「全員じゃあの車には乗れないから、電車……いや、ちょっと歩いたところで元柳方面に向かうバスがあるからそれに乗ろう」

「うん」

「鍵は持った?」

 芽衣子がバックに雑巾を詰め込んだ。掃除する気満々のようだ。


「うん、チェーンはこれ。実家のやつはここに……」

 財布から桜庭邸の鍵を出す。ひどく懐かしい感じがした。

 リサが降りてきた。

「リサ、準備はいいか?」

「うん……」

 いつもの、おう、じゃないのが気になる。

「それじゃ、行こうか」

 去年の二月中旬、日宮祭でのテロ事件が起こった日から一度も帰れなかった自宅に帰る。名状しがたい感情の波濤が心を揺さぶり、謎の高揚感をもたらしていた。


 バスに乗って席に着くと、

「おや」

 依織が隣に陣取った。綜士の方は向かないまま、固い表情で前を見ている。

「……元柳は初めて?」

「遠足で山沿いの自然公園に行ったことがある」

「ああ、あそこか。確か……」

 中学二年の頃、学校のウォーキング行事で瑞樹に頼み込んで詩乃を自分たちのグループに招待したことを思い出した。


「フフ……」

 もうはるか昔のことのように思える。

「なに笑ってるの?」

 依織がふくれっ面になった。

「え……?」

 笑っていた、という事実に驚いた。詩乃との思い出を想起するたびに陰鬱な思念に精神を陰らせることがなくなったということに他ならない。


 変わったんだな……。


 そう認めざるを得なかった。

「なかなかいいところだよね、今度みんなで行こうか?」

「うん……」

 前方の席のリサに視線を移した。


 俺はあの病院で目覚めた次の日……。


 リサと一度だけ元柳の実家まで赴いた。乗っ取られた家の前で崩れ折れて、家族の死に絶望したあの日、初めてリサの名を聞いた。自分の運命が変わった日だったのかもしれない。

 リサが一瞬だけ振り返り、目があった。なにかの想念を奥に宿した青い瞳に綜士の顔が映るう。

「リサ……」

「うん?」

 すぐ隣の依織にすら聞き取れないほど小さな声だった。


 目的の停車駅に着くと全員で降車した。

「ここからもうすぐだから」

「うん」

 全員を先導する形で、歩く。懐かしの近所の家並に鼓動が速まる。とうとう帰ってきたのだ。生まれた街に。


「へえ、噂には聞いてたけどでっかい家ばかりだな」

 瞬が手帽子を作って、辺りを見回す。

「日之崎でも最大規模の高級住宅地って話だからね」

 伸治も周囲の外観に驚嘆しているようだ。

「お兄ちゃんって、すごい家の人だったんだ……」

 美奈が、綜士の服の袖をつかんだ。

「すごいってほどでもないよ。それに俺個人は、なんもすごくないし、俺のおじいさんが、がんばっただけで……」

 祖父は母子家庭で成り上がるために懸命な努力を重ねたと、度々、武勇伝を綜士に語り聞かせていた。


「ちょっとした探検ね」

 芽衣子は平然としている。

「お兄ちゃんの学校は?」依織が尋ねる。

「俺が卒業した……っていうか卒業扱いになってる元柳第一中学はあっちの方だね、向こうの公園の先の、桜並木の奥にあった。春はすごいきれいだったなあの道は……」

 隆臣、瑞樹とともに初登校した思い出が、頭をかけた。


「昔のお友達とは会ったの?」

「……」

 リサが聞き耳を立てているのがなんとなくわかった。

「いや、もうみんな高校二年だろうしね。俺のことなんか忘れてると思うよ」

「ふーん、やっぱり環境が変わっちゃうと友人関係も続かなくなるんだ」

「そうだね……仕方ないよそれは」

 そう思えるようになったのだろう。

「依織は来年、セントアンナに行っても俺たちのこと忘れないでくれよな」

 瞬がニヤリとしながら述べた。

「イーっだ。瞬こそ、港中学に行ったら、変な女に引っかからないようにしなよ」

「同じ家で暮らしてるのになにいってるの……}

 呆れながら、歩みを進めた。

 家が見えてきた。


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